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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第64話 名前を残す物語は、たぶんこうやって始まる

 翌朝の目覚めは、思っていたより静かだった。


 企画会議が通らなかった夜のあとは、もっと分かりやすく沈むものだと思っていた。布団の中で何度も高梨との電話を反芻して、通らなかった、でも前向きな保留だった、一人は強く推してくれた、そういう言葉を繰り返し噛みしめながら、どこかで半端な悔しさに引きずられる朝になるのだろうと。


 だが、実際には違った。


 悔しさはある。

 ちゃんとある。

 でも、それだけではない。


 通ってほしかった。

 それは本音だ。

 けれど、前の案のように「やっぱり弱かったんだな」で静かに沈んでいく感じが、今回はあまりない。

 むしろ、どこかでまだ続いている感覚がある。


 会議で流されなかった。

 一人、強く推した編集がいた。

 方向性は面白いと言われた。

 再提出の余地がある。


 その事実が、完全な敗北の気分を許してくれない。

 悔しいくせに、少しだけ前を向いてしまう。

 そういう朝だった。


 私はベッドから起き上がり、窓の外を見た。

 曇っている。

 晴天ではない。

 でも、昨日みたいな重たい灰色でもなかった。


 中途半端な空だな、と思う。

 そして、今の自分に少し似ているとも思った。


     ◇


 ダイニングへ行くと、真由美はもうコーヒーを淹れていた。


「おはよう」


「おはよう」


 結衣はまだ眠そうな顔で牛乳を飲んでいる。

 家の朝はいつも通りだ。ホテルの夜も、企画会議も、この食卓の上には乗っていない。そういう当たり前が、今日は少しありがたかった。


「どうだったの」


 真由美が、トーストを皿へ置きながら聞いた。

 聞き方が自然すぎて、一瞬だけ何のことか分からないふりができそうな気もしたが、やめた。


「通りはしなかった」


 私は席へ座りながら言った。


 真由美は小さくうなずいた。

「そっか」


 それ以上すぐには何も言わない。

 残念だったね、とも、惜しかったね、とも言わない。

 その間の取り方が、妙にちょうどいい。


「でも」


 私はバターを塗る手を少しだけ止めた。

「前と違って、完全に駄目ではないらしい」


「再提出?」


「そういう感じ」


「じゃあ、終わってないんだ」


 結衣が牛乳のコップを置きながら言った。


 終わってない。

 その雑な言い方が、やけに本質に近かった。


「終わってはない」


 私はうなずく。


 真由美がコーヒーを自分の前へ寄せた。

「じゃあ、よかったじゃない」


 私は少しだけ苦笑した。

「そこ、そんな簡単でいいのか」


「簡単じゃないよ。でも、前みたいに“弱いから直す”じゃないんでしょ」


 私は目を上げた。

「高梨にも似たようなこと言われた」


「ならそうなんでしょ」


 真由美はそれだけ言って、パンへジャムを塗る。

 生活の側から見ても、やはりそこへ落ちるらしい。


 弱いから直すのではない。

 強いから、通る形まで整える。


 昨夜、高梨に言われたその整理が、朝の食卓で少しだけ現実の言葉になる。

 それだけで、企画会議の結果も少しだけ別のものに見えた。


「悔しいは悔しいけどな」


 私が言うと、結衣が即答した。

「それは当たり前でしょ」


 私は笑った。

「そうだな」


 悔しい。

 でも、流されなかった。

 それは今の自分にはかなり大きい。


     ◇


 通勤電車の中で、私は久しぶりに少しだけ気持ちが整理されているのを感じていた。


 吊り革につかまり、窓に映る自分を見る。

 疲れてはいる。

 だが、昨日の“結果待ちで勝手に悪い意味を足し始めている顔”ではない。

 本城が見れば、たぶんそこは分かるだろう。


 私はスマホを取り出し、メモ帳を開いた。


 書きたいことは、もうはっきりしていた。


 通らなかった。

 でも、流されなかった。

 その違いは大きい。


 まず、その三行を打つ。

 そして、その下へ続けた。


 会議で一度落ちることは、敗北かもしれない。

 でも、誰かの中へ引っかかったまま落ちるなら、それは次の入口でもある。

 全部に受け入れられなくても、誰かに強く残るもののほうが、たぶん名前は残る。


 そこまで打って、私は一度だけ目を閉じた。


 これだ、と思う。


 第三章のホテルの夜で私は、“名前を覚えられる作家と忘れられる作家”の違いを痛いほど見た。

 会話のあとで輪が続く人と、静かに流れていく人。

 アニメ化や受賞のような大きな記号がある人。

 じわじわと忘れられにくくなっていく人。


 そして昨夜の会議は、そのテーマが作品の外側でそのまま返ってきたみたいだった。


 新企画は通らなかった。

 でも、誰か一人の中へかなり強く残った。

 それは、小さい。

 だが決定的でもある。


 名前を残す物語というのは、たぶんこういうところから始まるのかもしれない。


 全員に好かれることではなく、

 まず誰かの中へ引っかかることから。


     ◇


 会社へ着いて、営業管理課の島へ入ると、やはり本城が最初にこちらを見た。


「おはようございます」


「おはよう」


 私は返事をしながら席へ座る。

 榎本は数字を見ていて、三浦は受信メールを開いている。いつもの朝だ。

 だが、本城だけは私の顔を一瞬だけ長く見た。


「今日は、昨日よりましですね」


 やはり言う。

 私は少しだけ笑った。

「そう見えるか」


「悪い想像で削れてる顔じゃないです」


 その分類の仕方も、もうだいぶ慣れてきた。

 いや、慣れていいのかは分からないが、少なくとも驚きはしなくなった。


「結果、出たんですね」


 本城は資料を揃えながら、ほとんど独り言みたいに言った。


 私はほんの一拍だけ黙った。

 どこまで返すべきか考える。

 職場の会話としては、まだ少し近い。

 だが、もう完全にとぼけるのも不自然だった。


「出たよ」


 私は短く言った。


「悪かったですか」


 視線は資料のままだ。

 でも、たしかに聞いている。


「良くはなかった」


 そう答えると、本城は小さくうなずいた。

「でも、終わった顔じゃないです」


 私はそこで、少しだけ本気で感心した。


 終わった顔じゃない。

 それはかなり正確だった。


「よく分かるな」


「昨日より、少しだけ前を見てるので」


 本城はそれだけ言って、一覧を私の机に置いた。

「午前の会議、これで大丈夫だと思います」


「ありがとう」


 彼女は自席へ戻る。


 私はその背中を見ながら、頭の中で新企画の女の立ち位置が、また少しだけ変わるのを感じていた。


 ただ見抜く人ではない。

 結果の良し悪しそのものより、“その人間がもう次を見ているかどうか”を先に見る人。

 それは、かなり大きい。


 私は会議資料を開く前に、メモの端へ小さく書いた。


 終わった顔じゃないです。


 いい。

 かなりいい。

 こういう一言が、主人公をまた少しだけ前へ押す。


     ◇


 午前の仕事は普通に進んだ。


 営業部は相変わらず少し強気で、

 榎本はそれを静かに戻し、

 三浦は文面にまだ余計な温度を足しかけ、

 私はそれを削る。


 だが今日は、昨日までとは違った。

 集中できる。

 頭の奥に別の時計が動いてはいるが、それはもう不安の時計ではない。改稿の時計だ。


 ここを直せば、次に出せる。

 主人公の入口をもう少しだけ開く。

 職場の女の立ち位置を、“便利な察しのよさ”ではなく“逃げ場をなくす静かな近さ”として調整する。

 タイトルも考え直す。


 やることはある。

 かなりある。

 でも、その“かなりある”が今日は少しだけ気持ちいい。


 止まっていないからだ。


 会議に通らなかったのに、

 私はいま普通に次を考えている。

 それが、自分でも少し不思議だった。


     ◇


 昼休み、私は外へ出た。


 近くのコンビニでコーヒーを買い、ビル裏のベンチへ座る。

 曇り空。風は少しだけある。地味な昼だ。

 だが、こういう地味な昼にしか書けないことがある。


 私はスマホを開き、メモ帳へ新しく打った。


 人は、自分の名前が誰かの中へ残ると信じたいから、何度でも書き直す。


 その一文を見た瞬間、私は少しだけぞくりとした。


 たぶん、これが第四章の終わりだ。


 通らなかった。

 でも、引っかかった。

 誰かの中に残った。

 だからまた書き直せる。


 それは勝利ではない。

 でも、敗北だけでもない。

 そして、たぶん物語としてはいちばん“次がある”終わり方だ。


 私はコーヒーを一口飲んだ。

 少し苦い。

 でも、今日はそれが悪くなかった。


     ◇


 夜、書斎へ戻ると、私は迷わず新企画を開いた。


 机の上はいつも通りだ。

 見本誌、会社の手帳、健康診断の紙、メモ帳。

 その雑然とした並びの中に、いまの私の生活全部がある。


 そして、その全部を抱えたまま、私はまた新企画の最初の数ページを読む。


 ホテルの夜。

 憧れ。

 見栄。

 優越感。

 惨めさ。

 朝の電車。

 職場の女。

 終わった顔じゃない、と言われる朝。


 ここからまだ、直せる。

 まだ、強くできる。

 そう思えるだけで、今回の落ち方には意味があったのだろう。


 私は主人公の独白を少しだけ直し、ホテルの夜のあとの朝に一文を足した。


 通らなかった。

 けれど、流されなかった。

 流されなかったものには、まだ次がある。


 それを書いてから、最後にメモ帳へ、昼に打った一文をそのまま移した。


 人は、自分の名前が誰かの中へ残ると信じたいから、何度でも書き直す。


 そこまで打って、私は深く息を吐いた。


 これでいい。

 第四章は、たぶんここで終われる。


 大成功ではない。

 でも、何も始まらなかったわけでもない。

 むしろ、ここから始まるのだ。


 名前を残す物語は、たぶんこうやって始まる。

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