第64話 名前を残す物語は、たぶんこうやって始まる
翌朝の目覚めは、思っていたより静かだった。
企画会議が通らなかった夜のあとは、もっと分かりやすく沈むものだと思っていた。布団の中で何度も高梨との電話を反芻して、通らなかった、でも前向きな保留だった、一人は強く推してくれた、そういう言葉を繰り返し噛みしめながら、どこかで半端な悔しさに引きずられる朝になるのだろうと。
だが、実際には違った。
悔しさはある。
ちゃんとある。
でも、それだけではない。
通ってほしかった。
それは本音だ。
けれど、前の案のように「やっぱり弱かったんだな」で静かに沈んでいく感じが、今回はあまりない。
むしろ、どこかでまだ続いている感覚がある。
会議で流されなかった。
一人、強く推した編集がいた。
方向性は面白いと言われた。
再提出の余地がある。
その事実が、完全な敗北の気分を許してくれない。
悔しいくせに、少しだけ前を向いてしまう。
そういう朝だった。
私はベッドから起き上がり、窓の外を見た。
曇っている。
晴天ではない。
でも、昨日みたいな重たい灰色でもなかった。
中途半端な空だな、と思う。
そして、今の自分に少し似ているとも思った。
◇
ダイニングへ行くと、真由美はもうコーヒーを淹れていた。
「おはよう」
「おはよう」
結衣はまだ眠そうな顔で牛乳を飲んでいる。
家の朝はいつも通りだ。ホテルの夜も、企画会議も、この食卓の上には乗っていない。そういう当たり前が、今日は少しありがたかった。
「どうだったの」
真由美が、トーストを皿へ置きながら聞いた。
聞き方が自然すぎて、一瞬だけ何のことか分からないふりができそうな気もしたが、やめた。
「通りはしなかった」
私は席へ座りながら言った。
真由美は小さくうなずいた。
「そっか」
それ以上すぐには何も言わない。
残念だったね、とも、惜しかったね、とも言わない。
その間の取り方が、妙にちょうどいい。
「でも」
私はバターを塗る手を少しだけ止めた。
「前と違って、完全に駄目ではないらしい」
「再提出?」
「そういう感じ」
「じゃあ、終わってないんだ」
結衣が牛乳のコップを置きながら言った。
終わってない。
その雑な言い方が、やけに本質に近かった。
「終わってはない」
私はうなずく。
真由美がコーヒーを自分の前へ寄せた。
「じゃあ、よかったじゃない」
私は少しだけ苦笑した。
「そこ、そんな簡単でいいのか」
「簡単じゃないよ。でも、前みたいに“弱いから直す”じゃないんでしょ」
私は目を上げた。
「高梨にも似たようなこと言われた」
「ならそうなんでしょ」
真由美はそれだけ言って、パンへジャムを塗る。
生活の側から見ても、やはりそこへ落ちるらしい。
弱いから直すのではない。
強いから、通る形まで整える。
昨夜、高梨に言われたその整理が、朝の食卓で少しだけ現実の言葉になる。
それだけで、企画会議の結果も少しだけ別のものに見えた。
「悔しいは悔しいけどな」
私が言うと、結衣が即答した。
「それは当たり前でしょ」
私は笑った。
「そうだな」
悔しい。
でも、流されなかった。
それは今の自分にはかなり大きい。
◇
通勤電車の中で、私は久しぶりに少しだけ気持ちが整理されているのを感じていた。
吊り革につかまり、窓に映る自分を見る。
疲れてはいる。
だが、昨日の“結果待ちで勝手に悪い意味を足し始めている顔”ではない。
本城が見れば、たぶんそこは分かるだろう。
私はスマホを取り出し、メモ帳を開いた。
書きたいことは、もうはっきりしていた。
通らなかった。
でも、流されなかった。
その違いは大きい。
まず、その三行を打つ。
そして、その下へ続けた。
会議で一度落ちることは、敗北かもしれない。
でも、誰かの中へ引っかかったまま落ちるなら、それは次の入口でもある。
全部に受け入れられなくても、誰かに強く残るもののほうが、たぶん名前は残る。
そこまで打って、私は一度だけ目を閉じた。
これだ、と思う。
第三章のホテルの夜で私は、“名前を覚えられる作家と忘れられる作家”の違いを痛いほど見た。
会話のあとで輪が続く人と、静かに流れていく人。
アニメ化や受賞のような大きな記号がある人。
じわじわと忘れられにくくなっていく人。
そして昨夜の会議は、そのテーマが作品の外側でそのまま返ってきたみたいだった。
新企画は通らなかった。
でも、誰か一人の中へかなり強く残った。
それは、小さい。
だが決定的でもある。
名前を残す物語というのは、たぶんこういうところから始まるのかもしれない。
全員に好かれることではなく、
まず誰かの中へ引っかかることから。
◇
会社へ着いて、営業管理課の島へ入ると、やはり本城が最初にこちらを見た。
「おはようございます」
「おはよう」
私は返事をしながら席へ座る。
榎本は数字を見ていて、三浦は受信メールを開いている。いつもの朝だ。
だが、本城だけは私の顔を一瞬だけ長く見た。
「今日は、昨日よりましですね」
やはり言う。
私は少しだけ笑った。
「そう見えるか」
「悪い想像で削れてる顔じゃないです」
その分類の仕方も、もうだいぶ慣れてきた。
いや、慣れていいのかは分からないが、少なくとも驚きはしなくなった。
「結果、出たんですね」
本城は資料を揃えながら、ほとんど独り言みたいに言った。
私はほんの一拍だけ黙った。
どこまで返すべきか考える。
職場の会話としては、まだ少し近い。
だが、もう完全にとぼけるのも不自然だった。
「出たよ」
私は短く言った。
「悪かったですか」
視線は資料のままだ。
でも、たしかに聞いている。
「良くはなかった」
そう答えると、本城は小さくうなずいた。
「でも、終わった顔じゃないです」
私はそこで、少しだけ本気で感心した。
終わった顔じゃない。
それはかなり正確だった。
「よく分かるな」
「昨日より、少しだけ前を見てるので」
本城はそれだけ言って、一覧を私の机に置いた。
「午前の会議、これで大丈夫だと思います」
「ありがとう」
彼女は自席へ戻る。
私はその背中を見ながら、頭の中で新企画の女の立ち位置が、また少しだけ変わるのを感じていた。
ただ見抜く人ではない。
結果の良し悪しそのものより、“その人間がもう次を見ているかどうか”を先に見る人。
それは、かなり大きい。
私は会議資料を開く前に、メモの端へ小さく書いた。
終わった顔じゃないです。
いい。
かなりいい。
こういう一言が、主人公をまた少しだけ前へ押す。
◇
午前の仕事は普通に進んだ。
営業部は相変わらず少し強気で、
榎本はそれを静かに戻し、
三浦は文面にまだ余計な温度を足しかけ、
私はそれを削る。
だが今日は、昨日までとは違った。
集中できる。
頭の奥に別の時計が動いてはいるが、それはもう不安の時計ではない。改稿の時計だ。
ここを直せば、次に出せる。
主人公の入口をもう少しだけ開く。
職場の女の立ち位置を、“便利な察しのよさ”ではなく“逃げ場をなくす静かな近さ”として調整する。
タイトルも考え直す。
やることはある。
かなりある。
でも、その“かなりある”が今日は少しだけ気持ちいい。
止まっていないからだ。
会議に通らなかったのに、
私はいま普通に次を考えている。
それが、自分でも少し不思議だった。
◇
昼休み、私は外へ出た。
近くのコンビニでコーヒーを買い、ビル裏のベンチへ座る。
曇り空。風は少しだけある。地味な昼だ。
だが、こういう地味な昼にしか書けないことがある。
私はスマホを開き、メモ帳へ新しく打った。
人は、自分の名前が誰かの中へ残ると信じたいから、何度でも書き直す。
その一文を見た瞬間、私は少しだけぞくりとした。
たぶん、これが第四章の終わりだ。
通らなかった。
でも、引っかかった。
誰かの中に残った。
だからまた書き直せる。
それは勝利ではない。
でも、敗北だけでもない。
そして、たぶん物語としてはいちばん“次がある”終わり方だ。
私はコーヒーを一口飲んだ。
少し苦い。
でも、今日はそれが悪くなかった。
◇
夜、書斎へ戻ると、私は迷わず新企画を開いた。
机の上はいつも通りだ。
見本誌、会社の手帳、健康診断の紙、メモ帳。
その雑然とした並びの中に、いまの私の生活全部がある。
そして、その全部を抱えたまま、私はまた新企画の最初の数ページを読む。
ホテルの夜。
憧れ。
見栄。
優越感。
惨めさ。
朝の電車。
職場の女。
終わった顔じゃない、と言われる朝。
ここからまだ、直せる。
まだ、強くできる。
そう思えるだけで、今回の落ち方には意味があったのだろう。
私は主人公の独白を少しだけ直し、ホテルの夜のあとの朝に一文を足した。
通らなかった。
けれど、流されなかった。
流されなかったものには、まだ次がある。
それを書いてから、最後にメモ帳へ、昼に打った一文をそのまま移した。
人は、自分の名前が誰かの中へ残ると信じたいから、何度でも書き直す。
そこまで打って、私は深く息を吐いた。
これでいい。
第四章は、たぶんここで終われる。
大成功ではない。
でも、何も始まらなかったわけでもない。
むしろ、ここから始まるのだ。
名前を残す物語は、たぶんこうやって始まる。




