第63話 会議は通らなかった。でも、前とは少し違う
高梨から連絡が来たのは、その日の夜、二十一時を少し回った頃だった。
私はリビングで、真由美が置いていった洗濯物をなんとなく畳んでいた。
自分でも、なぜそんなことをしていたのかよく分からない。別に率先して家事を手伝うような殊勝な気分だったわけではない。ただ、書斎へ直行してスマホを見続けるのがあまりにも落ち着かなくて、何か手を動かしていたかったのだ。
テレビは消えている。
結衣は自室だ。
真由美は風呂に入っているらしく、浴室のほうからかすかに水の音がしていた。
その静かなタイミングで、スマホが震えた。
私はタオルを畳みかけたまま、手を止めた。
画面を見る前に、もう分かっていた。
高梨だと。
そして、たぶん、今日の答えだと。
私は一度だけ深く息を吸った。
それから画面を開く。
『今、少しだけお電話大丈夫でしょうか』
メッセージはそれだけだった。
私はその短さに、胸の奥が少しだけ冷たくなるのを感じた。
良い時も悪い時も、電話は来る。
だが、少なくとも“その場でちゃんと説明したい内容”であることだけは分かる。数行で済ませられる話ではない、ということだ。
私はすぐに返信した。
『大丈夫です』
送信してから、スマホを握ったまま立ち上がる。
リビングのままでは落ち着かない。私は静かに廊下へ出て、書斎の手前まで移動した。そこなら真由美の水音も少し遠く、結衣の気配も薄い。
数秒後、電話が鳴った。
「もしもし」
『お疲れさまです』
高梨の声は、いつも通りに聞こえた。
聞こえたが、その“いつも通り”が今日は少しだけ慎重に感じられた。
「お疲れ」
私はそう返し、壁に軽く背を預けた。
先に何かを言う気にはなれなかった。
高梨のほうから話し始めるのを待つ。
少しだけ間があった。
それから、高梨が言う。
『結論から言うと、今回、企画会議は即通過ではなかったです』
私はその言葉を、かなり静かに受け取った。
即通過ではなかった。
通らなかった、とは少し違う言い方だ。
だが、少なくとも“決まった”ではない。
私は壁にもたれたまま、目を閉じた。
「そっか」
出てきたのは、それだけだった。
落ち込んでいないわけではない。
だが、思っていたより崩れなかった。
それはたぶん、結果そのものより、言い方のせいだろう。
即通過ではなかった。
高梨はそこで一度止めている。
つまり、完全否定ではない。
『ただ』
やはり、高梨はその続きを持っていた。
『かなり前向きな保留、という感じでした』
私はそこで、もう一度だけ目を開けた。
前向きな保留。
それは編集の言葉だ。
そして、高梨はこういう時、無駄に持ち上げるタイプではない。
『方向性は面白い、主人公も立っている、近さも武器になっている、という評価はちゃんとありました』
私は黙って聞いた。
『ただ、一回目の会議でそのまま通すには、何人かが入口の狭さを気にしました』
「入口の狭さ」
『はい。主人公がかなり生々しくて面白いぶん、最初の数話で読者がついてこられるかどうか、という話です』
それは、かなり予想していた指摘でもあった。
主人公は綺麗じゃない。
見栄もあるし、優越感もあるし、少し嫌なところもある。
でも、そのみっともなさが魅力へ変わるはずだと私は信じて書いてきた。
とはいえ、会議でそこを真っ先に懸念されるのも、よく分かる。
投稿サイトなら一話二話で切られる可能性は常にあるし、商業としても読者の入り口は無視できない。
「なるほどな」
私は小さく言った。
『でも、前とは明らかに違います』
高梨の声が、そこで少しだけ強くなった。
『前の“悪くないけど弱い”案の時は、みんなだいたい同じ方向の反応だったんです。ちゃんとしてる、でももう一押しがない、みたいな。今回は違いました』
私は壁から少しだけ身体を起こした。
「割れたのか」
『割れました』
高梨ははっきり言う。
『だから、その場で通らなかったとも言えます。全員受けするタイプじゃないので。でも、その代わり、かなり強く刺さっている人もいました』
私はその一言に、胸の奥で何かが少しだけ戻るのを感じた。
強く刺さっている人もいた。
それは、今までの私が一番欲しかった種類の反応かもしれない。
全員に無難に読まれることではなく、誰かの中へ深く引っかかること。
ホテルの夜で、名前を覚えられる作家と忘れられる作家の違いを見ながら、私はたしかにそこを痛感していた。
「誰か、いたんだな」
『いました』
高梨は少しだけ笑う気配を混ぜた。
『一人、かなり強く推してくれた編集がいました。“この主人公は嫌われるかもしれないけど、今っぽくて、逆に残る”って』
私はその言葉を聞いて、しばらく返せなかった。
嫌われるかもしれないけど、残る。
それはまさに、私がここ数話でようやく自分に許した方向性だった。
“好かれる主人公”ではなく、“見ていたくなる主人公”。
綺麗じゃない。
でも、目を離せない。
その方向を、社内の誰かが同じように読んでくれたのだ。
それだけで、落ちたのに、少しだけ救われる。
◇
「じゃあ」
私はようやく言葉を探し当てた。
「完全に駄目、ではないんだな」
『完全に駄目ではないです。むしろ逆です。再調整してもう一回出したい、という話でした』
再調整。
再提出。
それはたしかに、手応えのある保留だ。
喜ぶにはまだ早い。
だが、落ち込んで閉じる段階でもない。
『いくつか整理が必要です』
高梨が続ける。
『主人公の魅力が出るまでに読者をどう掴むか。
“近すぎる”ことの面白さを、ただの生傷で終わらせずにどう見せるか。
それから、職場の女の立ち位置ですね。あのキャラはかなり効いてるんですけど、今のままだと“察しが良すぎる便利キャラ”に見える危険もあるので』
私はその指摘に、かなり素直にうなずいた。
「たしかに」
『でも、これは“弱いから直す”じゃないです。
“強いから、通る形まで整える”に近いです』
その言い方は、大きかった。
弱いから直す。
それは前の案群で散々味わってきた。
足りないから、薄いから、もう少しフックを、もう少しキャッチーさを、もう少し主人公へ好感を、そういう足し算ばかりをしてきた。
今回は違う。
強いから整える。
もしそれが本当なら、私はようやく別の入り口へ立てたのかもしれない。
「……悔しいけど」
私は壁へもう一度背を預けた。
「前の時とは、たしかに違うな」
『違います』
高梨は間髪入れずに返した。
『先生もたぶん分かると思うんですけど、今回のは“流されなかった”です』
流されなかった。
その一言で、私ははっきりと第三章のホテルの夜を思い出した。
名前を覚えられる作家、忘れられる作家。
会場の中で、会話のあとに人の記憶へ引っかかる人間と、その場限りで薄くほどけていく人間。
そして私は、その違いを“次の作品があるかどうか”の問題としても見ていた。
今回の企画は、少なくとも会議で流されなかった。
全会一致で穏当に落とされるのではなく、ちゃんと誰かの中へ引っかかった。
そのことは大きい。
「そっか」
私はもう一度言った。
だが、今度の“そっか”は、最初のものとは少し違っていた。
悔しい。
もちろん悔しい。
企画会議にそのまま通ってほしかったし、そこで高梨から「いけました」と言われる未来だって、少しは想像していた。
でも同時に、かなり確かな手応えもある。
そして、その手応えは前よりずっと生々しい。
◇
『落ち込んでますか』
高梨が少しだけ慎重に聞く。
私は苦笑した。
「落ち込んではいるよ」
『ですよね』
「でも、前よりはましだな」
『それはよかったです』
「いや、よかったのかはまだ分からないけど」
私は壁から離れ、廊下を少しだけ歩いた。
家の中は静かだ。真由美が風呂から上がった気配もまだない。
「前の案って、落ちた時に“やっぱり弱かったんだな”で終わってたんだよ」
『はい』
「今回は、そこじゃない感じがする」
『そうですね』
「たぶん、ちゃんとぶつかったんだろうな」
高梨は少しだけ間を置いてから言った。
『ぶつかりました。
だから次があるんだと思います』
その言葉は、今夜いちばん深く入ったかもしれない。
ぶつかった。
だから次がある。
もし何も刺さらなければ、そのまま静かに流れて終わる。
だが、今回は違った。
引っかかった。
割れた。
通らなかった。
でも、その割れ方そのものが、企画に熱がある証拠でもあった。
「じゃあ」
私は小さく言った。
「直そう」
『はい』
「入口、もう少し考える。
職場の女の立ち位置も、便利に見えないほうへ寄せる」
『お願いします』
「タイトルも、たぶん少し考え直したほうがいいな」
『そこも含めて、一度また打ち合わせしましょう』
私はうなずいた。
「わかった」
電話を切る前、高梨が最後に言った。
『先生』
「うん」
『今回は、ちゃんと次に繋がる落ち方です』
私はその一言に、少しだけ救われた。
落ち方、という表現がかえってよかった。
通らなかったことをなかったことにしない。
でも、その落ち方には種類があるのだと認めてくれる。
「ありがとう」
私は素直にそう言った。
◇
電話を切ったあと、私はしばらくその場で立っていた。
悔しい。
やはり、悔しい。
通ってほしかった。
即通過の連絡をどこかで期待していた。
でも、それだけではない。
会議で流されなかった。
一人、強く推してくれた編集がいた。
方向性は面白いと言われた。
主人公も立っていると言われた。
再提出の余地が残った。
その全部を思い返すと、落ちたという事実の上に、前とは違う固さが残る。
私はそのまま書斎へ入った。
机の上には、見本誌と会社の手帳と健康診断の紙。
相変わらず雑多で、相変わらずいかにも今の私の机だった。
パソコンを開き、新企画を立ち上げる。
最新稿の最初の数ページを読み返す。
ホテルの夜。
憧れと見栄と惨めさ。
翌朝の電車。
職場で疲れ方を見抜いてくる女。
読める。
ちゃんと読める。
そして、やはり弱くはない。
私はメモ帳を開き、短く打った。
会議は通らなかった。
でも、前とは少し違う。
今回は、ちゃんと誰かの中へ残った。
流されなかった。
そこまで書いて、私は息を吐いた。
大勝利ではない。
でも、敗北だけでもない。
投稿サイトで読者が続きを押したくなるのは、たぶんこういう“完全には終わっていない負け”なのだろう。
悔しさがあり、
手応えがあり、
次が見えている。
私はさらに一行だけ足した。
名前を残す物語は、たぶんこうやって始まる。
それを書いた瞬間、この第四章の終わりが見えた気がした。
勝っていない。
でも、ちゃんと何かは始まっている。
それは、いまの私にとって十分に大きな前進だった。




