第62話 結果はまだ来ない。だから余計に、仕事が手につかない
結果が来ない日のほうが、たぶん人は疲れる。
悪い結果なら悪い結果で、まだ処理のしようがある。
落ち込むなり、腹を括るなり、次を考えるなり、とにかく感情に形がつく。
良い結果ならなおさらだ。嬉しい、やるしかない、整えよう、進めよう、そうやって人は前へ動ける。
だが、何も来ない日は違う。
何も決まっていないのに、
何かが決まりかけている前提で、
一日を普通に過ごさなければならない。
その曖昧さが、じわじわと神経を削る。
企画会議当日の朝、私は通勤電車の中で、そのことを嫌というほど実感していた。
高梨から前夜のうちに短いメッセージが来ていた。
『今日、出します』
たった四文字に近いその報告が、逆に厄介だった。
今日。
出します。
つまり、いまこの電車が門前仲町を過ぎる頃かもしれないし、昼の会議のあとかもしれないし、夕方かもしれない。どの時間帯かは分からない。だが今日のどこかで、あの企画が、私の知らない会議室で、私の知らない温度の人間たちに読まれ、値踏みされ、面白いだの危ないだの弱いだの言われる。
その想像だけで、喉の奥が少し乾く。
私はスマホを取り出しかけてやめた。
まだ何も来ていないことを確認するだけなら、見ないほうがましだ。
それでも結局、次の駅に着く前にはもう一度だけ画面を開いてしまう。
何も来ていない。
当たり前だ。
朝だ。
会社員でも、編集でも、会議前にいちいち連絡などしている暇はない。
分かっている。
でも、人は分かっていても無意味な確認をする。
私はスマホをしまい、窓に映る自分の顔を見た。
眠そうだ。
だが、ただ眠い顔ではない。
どこかでずっと別の時計を見ている顔だ。
たぶん今日は、本城にかなり見抜かれるだろうと思った。
◇
出社すると、営業管理課の島は相変わらずいつも通りだった。
榎本は朝一の見込み表を開いていて、三浦は先方から返ってきたメールの“今後ともよろしくお願いいたします”に何か裏があるのではないかという顔をしている。本城は一覧の差し替えを始めていて、部長はまだ来ていない。
その普通さが、今日は少しだけ腹立たしかった。
いや、腹立たしいというより、自分だけが別の緊張を抱えていることが妙に浮いて感じるのだ。
世界は普通に進んでいる。
営業部は数字の夢を見る。
三浦は語尾で悩む。
本城は静かな顔で仕事を整える。
私だけが、ポケットの中の見えない会議室をずっと意識している。
「おはようございます」
本城がいつもの声で言う。
「おはよう」
私は返したつもりだった。
だが、自分でも少しだけタイミングが遅れたのが分かった。
本城はそれ以上何も言わない。
だが、席へ座る前のほんの一瞬だけこちらの顔を見た。
たぶんもう、かなり分かっている。
私はパソコンを開き、社内メールを順に処理し始めた。
数字を見て、
返信案を見て、
会議資料の更新点を確認する。
作業はできる。
判断もできる。
だが集中が浅い。
一つ処理するたびに、頭のどこかが「まだ来ていない」と確認している。
それが自分でもうんざりするほど分かった。
◇
「係長、ここ先方への返し、どうします?」
三浦がモニターを向ける。
私は椅子を少し寄せて画面を見た。
悪くない文面だ。だが、最後の一行にまた余計な期待が混ざっている。
「“前向きに”は削ろう」
「やっぱりですか」
「“再確認のうえ改めて”でいい」
「最近ほんと、“前向きに”嫌いですね」
私はそこで少しだけ答えが遅れた。
前向きに。
その言葉が今日の自分に刺さったからだ。
会議がどう転ぶか分からない日に、
こちらだけ前向きな顔をするのはたしかに危ない。
期待値は育つ。
育った期待は、結果が来ない時間の中で勝手に膨らむ。
そして、膨らんだぶんだけ自分を食う。
「嫌いというより」
私は少し考えてから言った。
「今日みたいな日は、とくに危ない」
三浦は首を傾げた。
「今日みたいな日?」
「何も決まってないのに、こっちだけ決まりかけた気になる日」
言ってから、少しだけまずいと思った。
だが、もう遅い。
榎本が横で顔を上げる。
「それ、仕事の話ですか?」
私は苦笑するしかなかった。
「仕事の話だよ」
本城がそこで、静かに言った。
「今日は、かなり待ってる顔です」
私はモニターから目を上げた。
本城は手元の一覧を整えたまま、こちらを見てはいない。
だが、たしかに聞こえるように言った。
待ってる顔。
昨日も言われた。
だが今日は、そこへさらに別の温度がある。
「そんなに分かるか」
私が言うと、本城は小さくうなずく。
「昨日は“悪い想像が育ってる待ち方”でしたけど、今日はそれに“もう始まってるかもしれない”が混ざってます」
私は返事に詰まった。
始まってるかもしれない。
それが、まさに今日の私の内心そのものだったからだ。
企画会議は今日だ。
高梨がそう言った。
なら、もうどこかで始まっていてもおかしくない。
その“始まってるかもしれない”を、本城は顔つきだけで言い当てる。
「……見すぎだろ」
どうにかそれだけ返す。
本城はそこで少しだけ口元をやわらげた。
「今日はかなり分かりやすいので」
それ以上は言わない。
だが、その言葉だけで十分だった。
私は自席へ戻りながら、頭の中でその一文をもうメモにしていた。
もう始まってるかもしれない。
いい。
かなりいい。
だが今日は、それを喜ぶ余裕すら少ない。
◇
午前の会議は短かった。
短かったのに、私は妙に疲れた。
理由は簡単だ。
部長の声を聞きながらも、頭のどこかで別の会議室を想像していたからだ。
いま頃、高梨は資料を広げているのかもしれない。
編集が何人かいて、営業寄りの人間もいて、たぶん私の名前ではなく企画の内容のほうが先に話される。
主人公が綺麗じゃないこと。
近すぎること。
でも、その近さが面白さになっていること。
そういう話が、いまどこかでされているかもしれない。
想像するだけで、仕事の会議への集中が少し薄くなる。
そしてその薄くなり方に、自分でも腹が立つ。
四十七歳にもなって、
営業管理課係長までやっていて、
まだこんなふうに一つの結果待ちへ持っていかれるのか、と。
だが、持っていかれるのだから仕方がない。
会議が終わり、自席へ戻ると、私物のスマホを確認した。
何も来ていない。
分かっていた。
分かっていたが、やはり少しだけ肩が落ちる。
何も来ていない、ということ自体に意味はない。
まだ終わっていないだけかもしれないし、終わっていてもすぐ言えないだけかもしれない。
でも、人はそこへ勝手に悪い意味を足してしまう。
反応が悪いのかもしれない。
割れたのかもしれない。
高梨も言葉を選んでいるのかもしれない。
その想像が、またじわじわと育つ。
結果が来ない日というのは、本当にそういう意味で厄介だ。
◇
昼休み、私は外へ出ずに自席でおにぎりを食べていた。
食欲はない。
だが、何か口へ入れておかないと午後の仕事で確実に頭が落ちる。
榎本が隣でサンドイッチを開けながら言う。
「係長、今日ほんと変ですよ」
「何がだ」
「仕事はしてるんですけど、してるだけって感じ」
私は苦笑した。
「それ、だいぶ悪口だな」
「悪口じゃないですよ。なんか、半分別のこと考えてる時のやつだなって」
また、それだ。
最近の営業管理課は本当に人の顔と間を見すぎる。
三浦までうなずく。
「朝からずっと、返事一拍遅いですし」
私はおにぎりを持ったまま少しだけ目を細めた。
「そんなに分かりやすいか」
「今日はかなり」
そう言ったのは本城だった。
彼女は味噌汁のカップを持ったまま、静かな声で続ける。
「でも、朝よりは少し悪いほうです」
悪いほう。
また疲れ方の分類だ。
私は少しだけ笑った。
「待つのに失敗してるってことか」
本城はほんの少しだけ考えてから言う。
「たぶん、“何も来てない”の意味を自分で足し始めてる時の顔です」
私はその一言で、完全におにぎりを置いた。
そこまで当てるのか。
あるいは、そこまで見えてしまうのか。
「……怖いな」
私がそう言うと、本城は平然と返した。
「そうだと思います」
榎本も三浦も、その会話の細い意味までは拾っていないらしい。ただ少しだけ笑っている。
だが、私の内側ではかなり響いていた。
何も来てない、の意味を自分で足し始めてる時の顔。
これだ。
これもそのまま使える。
いや、使えるどころか、今日の主人公の中心そのものだ。
結果はまだ来ない。
だから人は、来ていないこと自体へ勝手な意味を足す。
その勝手な意味が、自分を削る。
私はその一文を頭の中へ強く残した。
午後の仕事が終わるまで、絶対に忘れたくないと思った。
◇
だが、午後はさらに集中できなかった。
仕事の量が多いわけではない。
普段通りだ。
それなのに、一つひとつの作業の合間に、どうしてもスマホのことを考えてしまう。
いま来ているかもしれない。
いや、まだ来ていないかもしれない。
来ないなら来ないで、どんな顔で高梨が言葉を選んでいるのか想像してしまう。
それが本当にまずい。
人は、何も来ていない時間のほうが勝手に消耗する。
五時を過ぎる頃には、私の疲れ方はかなりひどかった。
本城の言葉を借りるなら、“かなり悪いほう”であることは自分でも分かる。
終業間際、榎本が営業部への最終返しを終え、三浦が「今日はちょっと疲れましたね」と椅子へもたれ、本城は静かに一覧の最終版を保存していた。
「係長」
本城が席を立ちながら言う。
「今日は、たぶん帰ってもすぐ結果見ないほうがいいです」
私は思わず顔を上げた。
「まだ何も来てないって前提か」
「たぶん、来てないからこうなってるので」
彼女はそう言ってから、少しだけ間を置いた。
「今日の顔だと、何が来てもすぐ悪いほうへ解釈しそうです」
私はそこで、小さく笑った。
笑うしかなかった。
「ひどい言いようだな」
「かなり、当たってると思います」
当たっている。
かなり、当たっている。
だからこそ言い返しづらい。
私は息を吐いた。
「……そうかもな」
本城はそれ以上言わず、「お疲れさまでした」とだけ残して帰っていった。
その背中を見送りながら、私は思った。
この人はどこまで知っているのだろう。
いや、もう“知っているかどうか”ではない。
知らないまま、ここまで来ている。
そのこと自体が、かなり危うい。
◇
会社を出て駅へ向かう途中、私はとうとう我慢できずにスマホを見た。
高梨からは、まだ何も来ていない。
私は歩きながら、少しだけ笑ってしまった。
乾いた笑いだ。
やはり、今日はそういう日なのだ。
結果が来ない。
だから余計に、仕事が手につかない。
そして、何も来ていないこと自体へ意味を足して、自分で自分を削る。
ホームで電車を待ちながら、私はスマホのメモ帳を開いた。
結果が来ない日は、悪い知らせが来たわけじゃない。
でも、人は“何も来ていない”に勝手に悪い意味を足してしまう。
その想像力の使い方だけは、たいてい異様に上手い。
そこまで打ってから、さらに一行。
待っている時に仕事が手につかないのではない。
仕事をしていても、待っていることがずっと手を離れないのだ。
保存する。
それだけで少しだけ落ち着く。
今日の結果はまだ来ない。
でも、その“まだ来ない”の苦しさはかなり正確に拾えた。
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大事件ではない。
でも、分かる人にはものすごく分かる。
私は電車へ乗り込み、ドア脇に立った。
窓へ映る自分の顔は、たしかにかなり悪い。
そして、その悪い顔ごと、今日の原稿へ入れられる気がした。




