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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第61話 会議の日まで、会社員は普通に働くしかない

 企画会議の日程が決まったのは、火曜の昼前だった。


 高梨からのメッセージは短かった。


『木曜の午後に出します』


 それだけだ。


 前置きもなければ、変に気を遣った言い回しもない。

 でも、たったそれだけで、その週の時間の流れ方が少し変わるには十分だった。


 木曜の午後に出します。


 今日は火曜だ。

 つまり、あと二日弱。

 そのあいだ私は普通に会社へ行き、普通に資料を直し、普通に営業部の期待値を削り、普通に部長の長い確認へ付き合わなければならない。


 普通に働くしかない。

 だが、頭のどこかではずっと別の時計が動き始めている。


 それが、じわじわ落ち着かない。


     ◇


 高梨からのメッセージを見たのは、社内メールの返信を三本終えたあとだった。


 営業部から戻ってきた見込み表には、案の定、返答待ち案件へ少しだけ夢が足されている。私はそれを現実的な線まで引き戻し、部長へ投げる前に榎本へ「この注記入れて」と短く言った。


「また強いですか」


 榎本が苦笑する。


「また強い」


「いつも通りですね」


「いつも通りだな」


 私はそう返しながら、ポケットのスマホが震えたことへ気づいた。


 高梨。

 短い文章。

 木曜の午後に出します。


 読んだ瞬間、胃のあたりが少し冷えた。

 ついに日付が入った、と思った。


 企画会議に出す。

 それ自体はもう聞いていた。

 だが、日時が入ると途端に現実になる。木曜の午後、その時間に、いま私のパソコンの中にあるあの近すぎる企画を、編集たちが読んで、話して、値踏みする。


 私はスマホを伏せた。


「係長?」


 榎本が資料を持ったままこちらを見る。


「どうした」


「いや、ちょっと顔が」


「顔?」


「今日は“悪い疲れ”じゃないけど、“嫌な緊張”のほうですね」


 私は思わず少しだけ笑ってしまった。

「最近、お前らほんとに顔の診断しかしないな」


「本城さんの影響ですよ」


 榎本はさらっと言った。

「係長の疲れ方の分類、だいぶ共有されてきました」


 私はそれを聞いて、笑いかけた顔のまま少し止まった。


 本城の影響。

 疲れ方の分類。

 共有。


 そこまで大げさなものではないのだろう。

 榎本も半分冗談で言っているだけかもしれない。

 だが、そう言われると妙に意識してしまう。


 私は資料へ目を戻した。

「仕事してくれ」


「してますよ」


 榎本が肩をすくめて去っていく。


 私はスマホをもう一度だけ見た。

 木曜の午後に出します。


 そのたった一文のせいで、今日から木曜までのすべてが、少し違う色になってしまった気がした。


     ◇


 それでも会社の一日は止まらない。


 火曜の午後には会議が一本あり、部長は資料の見出しの順番に妙なこだわりを見せ、営業部は先方の曖昧な反応を“温度感としてはいけると思う”と言い換え、本城は静かな顔で一覧を差し替え、三浦は「前向きに再確認します」で止まりかけた文面をまた私に戻してきた。


「ここ」


 私は画面を指した。

「“前向きに”いらない」


「やっぱりか」


「今はまだただ確認するだけでいい」


「期待値を育てるから、ですよね」


 三浦がそう言って苦笑する。

 私は一瞬だけ顔を上げた。


「覚えたな」


「係長、最近そのフレーズ多いですもん」


 期待値を育てる。

 自由に期待したあとで責任だけ現実に戻ってくる。

 最近の私は、仕事の言葉がそのまま新企画へ繋がりすぎている。


 だが今日は、その繋がり方が少し違った。


 企画会議の日まで、

 私は仕事でも「期待を育てすぎない」ことばかり言っている。

 なのに自分の内側では、新企画に対する期待だけが勝手に育ち始めている。


 通るかもしれない。

 かなり割れるかもしれない。

 でも、ちゃんと誰かに刺さるかもしれない。


 それが厄介だった。

 仕事では期待を制御する側なのに、自分のことになると途端に難しくなる。


     ◇


 水曜の朝には、待つこと自体に少し疲れ始めていた。


 木曜の午後に出す、と聞いてから、まだ一日も経っていない。

 それなのにもう、心は先走っている。


 高梨はどういう言い方で会議へ出すのだろう。

 “主人公にかなり嫌な部分もあるが、それが逆に強い”と押すのか。

 “半径数メートルの現実を丁寧にえぐる話です”と説明するのか。

 “今の先生だから書ける物語です”と持っていくのか。


 編集の言葉一つで、企画の見え方はだいぶ変わる。

 そのことを私は、これまでの刊行で何度も知っている。

 だからこそ、待っている時間は余計に落ち着かない。


 それでも、朝になれば会社は始まる。


「係長、おはようございます」


 本城が言う。


「おはよう」


 私は席へ座る。

 パソコンを開く。

 メールを確認する。

 営業部からの差し戻し。

 部長からの確認依頼。

 先方の返信待ち。

 今日の会議の資料。


 当たり前のことを、当たり前の順番でやるしかない。


 それがありがたい時もある。

 だが、いまは少しだけ拷問に近い。


 頭の中では木曜の午後のことばかり考えているのに、手元では“現時点では判断保留”とか“再確認のうえご連絡します”みたいな言葉を延々と整えている。


 私は自分の中のそのズレに、少しだけ笑いそうになった。


 企画会議の日まで、会社員は普通に働くしかない。

 たぶん、そういうことなのだろう。


     ◇


「今日は、昨日より悪いですね」


 昼前、本城が一覧を持ってきた時に言った。


 私は資料を受け取りながら眉を上げる。

「何が」


「待ってる日の顔です」


 その一言に、私はほんの少しだけ動揺した。


 待ってる日の顔。

 そこまで言うのか、この人は。


「そんなのまで分かるのか」


「分かります」


「なんで」


 本城は少しだけ考えてから答えた。


「視線が、仕事の画面にないので」


 私はそこで、言い返せなくなった。


 その通りだったからだ。

 メールを見ていても、

 見込み表を見ていても、

 頭のどこかはずっと木曜の午後へ引っ張られている。

 視線だけが手元に残っていて、意識は別の場所へある感じ。

 それを、本城はまた、見抜いている。


「……困るな」


 私が言うと、本城は少しだけ首をかしげた。


「何がですか」


「そういうの、見抜かれるの」


 本城はそこで、ごく小さく口元をやわらげた。


「じゃあ、もう少しうまく隠してください」


 それだけ言って、彼女は一覧の説明へ戻った。


 私はしばらく、その言葉を頭の中で反芻していた。


 もう少しうまく隠してください。


 注意でもない。

 慰めでもない。

 ただ、見えていることを前提にしたうえで、あとはそちらで何とかしてください、という距離の取り方。


 その言い方が、妙に新企画の女そのものだった。


 私は資料へ目を落としたまま、心の中で思った。

 やはり、この人は危ない。

 恋愛とかそういう意味ではない。

 作品にとって危ない。

 近すぎる。


 でも同時に、その近さがなければ、今の企画の緊張感は立ち上がらない。


     ◇


 木曜の朝は、起きた瞬間から落ち着かなかった。


 今日は出します。

 木曜の午後。

 その時間が、朝からずっと頭の後ろにある。


 真由美がトーストを焼きながら言った。


「今日なんだっけ」


 私は一瞬だけ迷ったが、隠す理由もなかった。

「企画会議」


「今日か」


「今日」


「じゃあ、もう朝から顔がそうなんだ」


 私は苦笑する。

「最近ほんとに顔しか見てないな」


「顔がいちばん早いからね」


 結衣が牛乳を飲みながら言った。

「今日のは、待たされるテスト結果の日の顔」


 私は思わず笑った。

「学生っぽい例えだな」


「だってそういう感じじゃん」


 そうかもしれなかった。

 待たされるテスト結果の日。

 たしかに、あの落ち着かなさに近い。

 ただ違うのは、今の私はもう四十七歳で、朝から普通に会社へ行かなければならないということだ。


 通勤電車でも、

 会社のエレベーターでも、

 始業前のパソコンの立ち上がり時間でも、

 頭のどこかでずっと同じことを考えている。


 いまごろ高梨は、どの順番で資料を揃えているのか。

 企画の肝をどう言葉にするのか。

 社内で誰がどんな顔をするのか。


 それでも、仕事は始まる。

 榎本は数字を持ってくる。

 三浦は文面で悩む。

 本城は静かに一覧を整える。


 そして私は、何食わぬ顔で係長の返事をしなければならない。


 会議の日まで、会社員は普通に働くしかない。

 この数日で、それをいやというほど思い知った。


     ◇


 昼休みを少し過ぎた頃、スマホが小さく震えた。


 私は反射的に手を伸ばしかけて、すぐに止めた。

 まだだ。

 まだ高梨から結果が来る時間ではない。

 たぶん確認か、別件か、家族か、その程度だ。


 だが、どうしても気になって、私は画面をのぞいた。


 高梨だった。


 短いメッセージ。


『今日、出します』


 その一文を見た瞬間、胸の奥が少しだけ強く鳴った。


 今日、出します。


 いよいよ、本当にそこまで来たのだ。


 私はスマホを伏せ、しばらくそのまま動けなかった。

 資料の上に置いた手のひらが、わずかに熱い。


 今日、出します。

 たったそれだけの連絡なのに、一日じゅう引き延ばされていた時間が、急に現実の速度を持った気がした。


 私は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。


 待つしかない。

 もう、ここから先は。

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