第61話 会議の日まで、会社員は普通に働くしかない
企画会議の日程が決まったのは、火曜の昼前だった。
高梨からのメッセージは短かった。
『木曜の午後に出します』
それだけだ。
前置きもなければ、変に気を遣った言い回しもない。
でも、たったそれだけで、その週の時間の流れ方が少し変わるには十分だった。
木曜の午後に出します。
今日は火曜だ。
つまり、あと二日弱。
そのあいだ私は普通に会社へ行き、普通に資料を直し、普通に営業部の期待値を削り、普通に部長の長い確認へ付き合わなければならない。
普通に働くしかない。
だが、頭のどこかではずっと別の時計が動き始めている。
それが、じわじわ落ち着かない。
◇
高梨からのメッセージを見たのは、社内メールの返信を三本終えたあとだった。
営業部から戻ってきた見込み表には、案の定、返答待ち案件へ少しだけ夢が足されている。私はそれを現実的な線まで引き戻し、部長へ投げる前に榎本へ「この注記入れて」と短く言った。
「また強いですか」
榎本が苦笑する。
「また強い」
「いつも通りですね」
「いつも通りだな」
私はそう返しながら、ポケットのスマホが震えたことへ気づいた。
高梨。
短い文章。
木曜の午後に出します。
読んだ瞬間、胃のあたりが少し冷えた。
ついに日付が入った、と思った。
企画会議に出す。
それ自体はもう聞いていた。
だが、日時が入ると途端に現実になる。木曜の午後、その時間に、いま私のパソコンの中にあるあの近すぎる企画を、編集たちが読んで、話して、値踏みする。
私はスマホを伏せた。
「係長?」
榎本が資料を持ったままこちらを見る。
「どうした」
「いや、ちょっと顔が」
「顔?」
「今日は“悪い疲れ”じゃないけど、“嫌な緊張”のほうですね」
私は思わず少しだけ笑ってしまった。
「最近、お前らほんとに顔の診断しかしないな」
「本城さんの影響ですよ」
榎本はさらっと言った。
「係長の疲れ方の分類、だいぶ共有されてきました」
私はそれを聞いて、笑いかけた顔のまま少し止まった。
本城の影響。
疲れ方の分類。
共有。
そこまで大げさなものではないのだろう。
榎本も半分冗談で言っているだけかもしれない。
だが、そう言われると妙に意識してしまう。
私は資料へ目を戻した。
「仕事してくれ」
「してますよ」
榎本が肩をすくめて去っていく。
私はスマホをもう一度だけ見た。
木曜の午後に出します。
そのたった一文のせいで、今日から木曜までのすべてが、少し違う色になってしまった気がした。
◇
それでも会社の一日は止まらない。
火曜の午後には会議が一本あり、部長は資料の見出しの順番に妙なこだわりを見せ、営業部は先方の曖昧な反応を“温度感としてはいけると思う”と言い換え、本城は静かな顔で一覧を差し替え、三浦は「前向きに再確認します」で止まりかけた文面をまた私に戻してきた。
「ここ」
私は画面を指した。
「“前向きに”いらない」
「やっぱりか」
「今はまだただ確認するだけでいい」
「期待値を育てるから、ですよね」
三浦がそう言って苦笑する。
私は一瞬だけ顔を上げた。
「覚えたな」
「係長、最近そのフレーズ多いですもん」
期待値を育てる。
自由に期待したあとで責任だけ現実に戻ってくる。
最近の私は、仕事の言葉がそのまま新企画へ繋がりすぎている。
だが今日は、その繋がり方が少し違った。
企画会議の日まで、
私は仕事でも「期待を育てすぎない」ことばかり言っている。
なのに自分の内側では、新企画に対する期待だけが勝手に育ち始めている。
通るかもしれない。
かなり割れるかもしれない。
でも、ちゃんと誰かに刺さるかもしれない。
それが厄介だった。
仕事では期待を制御する側なのに、自分のことになると途端に難しくなる。
◇
水曜の朝には、待つこと自体に少し疲れ始めていた。
木曜の午後に出す、と聞いてから、まだ一日も経っていない。
それなのにもう、心は先走っている。
高梨はどういう言い方で会議へ出すのだろう。
“主人公にかなり嫌な部分もあるが、それが逆に強い”と押すのか。
“半径数メートルの現実を丁寧にえぐる話です”と説明するのか。
“今の先生だから書ける物語です”と持っていくのか。
編集の言葉一つで、企画の見え方はだいぶ変わる。
そのことを私は、これまでの刊行で何度も知っている。
だからこそ、待っている時間は余計に落ち着かない。
それでも、朝になれば会社は始まる。
「係長、おはようございます」
本城が言う。
「おはよう」
私は席へ座る。
パソコンを開く。
メールを確認する。
営業部からの差し戻し。
部長からの確認依頼。
先方の返信待ち。
今日の会議の資料。
当たり前のことを、当たり前の順番でやるしかない。
それがありがたい時もある。
だが、いまは少しだけ拷問に近い。
頭の中では木曜の午後のことばかり考えているのに、手元では“現時点では判断保留”とか“再確認のうえご連絡します”みたいな言葉を延々と整えている。
私は自分の中のそのズレに、少しだけ笑いそうになった。
企画会議の日まで、会社員は普通に働くしかない。
たぶん、そういうことなのだろう。
◇
「今日は、昨日より悪いですね」
昼前、本城が一覧を持ってきた時に言った。
私は資料を受け取りながら眉を上げる。
「何が」
「待ってる日の顔です」
その一言に、私はほんの少しだけ動揺した。
待ってる日の顔。
そこまで言うのか、この人は。
「そんなのまで分かるのか」
「分かります」
「なんで」
本城は少しだけ考えてから答えた。
「視線が、仕事の画面にないので」
私はそこで、言い返せなくなった。
その通りだったからだ。
メールを見ていても、
見込み表を見ていても、
頭のどこかはずっと木曜の午後へ引っ張られている。
視線だけが手元に残っていて、意識は別の場所へある感じ。
それを、本城はまた、見抜いている。
「……困るな」
私が言うと、本城は少しだけ首をかしげた。
「何がですか」
「そういうの、見抜かれるの」
本城はそこで、ごく小さく口元をやわらげた。
「じゃあ、もう少しうまく隠してください」
それだけ言って、彼女は一覧の説明へ戻った。
私はしばらく、その言葉を頭の中で反芻していた。
もう少しうまく隠してください。
注意でもない。
慰めでもない。
ただ、見えていることを前提にしたうえで、あとはそちらで何とかしてください、という距離の取り方。
その言い方が、妙に新企画の女そのものだった。
私は資料へ目を落としたまま、心の中で思った。
やはり、この人は危ない。
恋愛とかそういう意味ではない。
作品にとって危ない。
近すぎる。
でも同時に、その近さがなければ、今の企画の緊張感は立ち上がらない。
◇
木曜の朝は、起きた瞬間から落ち着かなかった。
今日は出します。
木曜の午後。
その時間が、朝からずっと頭の後ろにある。
真由美がトーストを焼きながら言った。
「今日なんだっけ」
私は一瞬だけ迷ったが、隠す理由もなかった。
「企画会議」
「今日か」
「今日」
「じゃあ、もう朝から顔がそうなんだ」
私は苦笑する。
「最近ほんとに顔しか見てないな」
「顔がいちばん早いからね」
結衣が牛乳を飲みながら言った。
「今日のは、待たされるテスト結果の日の顔」
私は思わず笑った。
「学生っぽい例えだな」
「だってそういう感じじゃん」
そうかもしれなかった。
待たされるテスト結果の日。
たしかに、あの落ち着かなさに近い。
ただ違うのは、今の私はもう四十七歳で、朝から普通に会社へ行かなければならないということだ。
通勤電車でも、
会社のエレベーターでも、
始業前のパソコンの立ち上がり時間でも、
頭のどこかでずっと同じことを考えている。
いまごろ高梨は、どの順番で資料を揃えているのか。
企画の肝をどう言葉にするのか。
社内で誰がどんな顔をするのか。
それでも、仕事は始まる。
榎本は数字を持ってくる。
三浦は文面で悩む。
本城は静かに一覧を整える。
そして私は、何食わぬ顔で係長の返事をしなければならない。
会議の日まで、会社員は普通に働くしかない。
この数日で、それをいやというほど思い知った。
◇
昼休みを少し過ぎた頃、スマホが小さく震えた。
私は反射的に手を伸ばしかけて、すぐに止めた。
まだだ。
まだ高梨から結果が来る時間ではない。
たぶん確認か、別件か、家族か、その程度だ。
だが、どうしても気になって、私は画面をのぞいた。
高梨だった。
短いメッセージ。
『今日、出します』
その一文を見た瞬間、胸の奥が少しだけ強く鳴った。
今日、出します。
いよいよ、本当にそこまで来たのだ。
私はスマホを伏せ、しばらくそのまま動けなかった。
資料の上に置いた手のひらが、わずかに熱い。
今日、出します。
たったそれだけの連絡なのに、一日じゅう引き延ばされていた時間が、急に現実の速度を持った気がした。
私は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
待つしかない。
もう、ここから先は。




