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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第60話 通るかもしれない企画は、急に怖い

 企画会議に出してください、と送ったあとの夜は、妙に静かだった。


 高梨からすぐに返信が来るわけでもない。

 企画会議の日程がその場で決まるわけでもない。

 出版社というのは、こういう時だけやけに現実的な速度で動く。こちらの内心がどれだけ前のめりになっていても、社内の会議体は社内の会議体の速度でしか回らない。


 だから本来なら、その静けさに少し安心してもよさそうなものだった。


 だが実際の私は、安心どころか、別の種類の怖さにじわじわ包まれ始めていた。


 決まらない苦しさには、ずっと慣れている。

 悪くないけど弱い。

 読めるけど刺さりきらない。

 高梨に見せても「方向はいいんですが」が先に来る。

 コンテストでも中間までは行くが、その先へ残れない。


 そういう“決まらない側の痛み”は、この数年でかなり身体に入ってしまっている。

 嫌だが、見慣れた痛みだ。


 でも、今夜の怖さはそれとは違った。


 通るかもしれない。


 その可能性が、ここへ来て急に重くなっている。


 通るかもしれないということは、書くことになるということだ。

 商品として立ち上がるかもしれないということだ。

 営業や宣伝や会議の言葉の中で、“この主人公のどこを押し出すか”を説明される立場になるということだ。


 そして何より、今のこの近すぎる企画を、逃げずに最後まで書くことになる。


 私は書斎の椅子に座ったまま、そのことをかなり現実的に想像していた。


     ◇


 『再構成_危ない案』を開く。


 画面の中には十数ページ分の本文。

 ホテルの夜。

 若い受賞者。

 アニメ化作家。

 酔った同業。

 会社の会議室。

 疲れ方を見抜く女。

 「今のあなたはちょっといい顔してる」と言う妻。


 読み返すと、やはり前より明らかに強い。

 そこはもう認めていいと思う。


 だが、強いということは、安全ではないということでもある。


 もしこの企画が会議を通ったら、高梨は次の稿を求めるだろう。

 主人公をもっと立てたいと言うかもしれない。

 女の距離感を調整したいと言うかもしれない。

 ホテルの夜の場面を、読者の入口としてどう見せるかを詰めるかもしれない。

 つまり私は、この主人公の見栄も、優越感も、惨めさも、さらに掘ることになる。


 書くたびに自分へ近づく。

 そして、その近さを魅力へ変えるところまで責任を持つ。


 それは、正直かなりしんどい。


 私はふと、以前の自分がなぜ安全な企画ばかり作っていたのか、ようやく実感として分かった気がした。


 通らないからつらいのではない。

 通った時に引き受けるものが怖いから、最初から通りにくい安全な案へ逃げていたのだ。


 そのことに気づいた瞬間、妙に息が浅くなった。


 悪くないけど弱い案。

 整っているけど、決め手に欠ける案。

 それらはただの失敗ではなかったのかもしれない。

 もしかすると、私自身が“本当に通ったら困るくらい近い企画”を、どこかで避け続けていただけなのではないか。


 だとしたら、いまの怖さは、ようやくそこへ来てしまった証拠だ。


     ◇


 私は立ち上がって、書斎の本棚の前へ行った。


 自分の見本誌が並んでいる。

 一巻で終わったもの。

 思ったより長く続いたもの。

 いまも動いている現行シリーズ。

 どれも、自分で書いた本だ。

 それなのに、今夜の私はそれらを眺めながら妙に他人行儀な気持ちになっていた。


 この本たちは、通った企画の結果だ。

 会議を通り、営業の言葉を通り、締切をくぐり抜けて、本になったものだ。


 だが正直に言えば、その中のいくつかは“通ってもそこまで怖くなかった企画”でもある。

 もちろん苦労はした。

 でも、今みたいな“これはほとんど俺じゃないか”という怖さは、ここまで強くなかった。


 いまの新企画は違う。

 違うからこそ、初めて“通るかもしれない”が重く感じる。


 私は一冊、現行シリーズの一巻を手に取った。

 表紙を眺める。

 発売週、オリコンに入った本。

 高梨から「動いてます」と連絡が来て、夜の食卓で少しだけ誇らしい顔をしてしまったあの本だ。


 それでも私は専業になれなかった。

 会社も辞めていない。

 家計も、税金も、健康診断の紙も、現実のままだった。


 なのに、まだ次で何かが変わるかもしれないと思っている。


 そのみっともなさを、いまの企画はかなり正面から書こうとしている。

 だから怖いのだろう。


     ◇


 リビングへ行くと、真由美がソファでタブレットを見ていた。


「まだ起きてたの」


 彼女が顔を上げる。


「うん」


「書いてる?」


「いや、今日はちょっと違う」


「違う?」


 私はキッチンから水を注いで戻り、ダイニングの椅子へ座った。

 真由美はタブレットを伏せる。

 こういう時、彼女はちゃんと“聞く側の姿勢”になる。


「企画会議に出るかもしれない」


 私はそう言った。


 真由美は少しだけ目を細めた。

「それは、かなり進んだんじゃないの」


「進んだ」


「じゃあ、いいことじゃん」


「……いいことなんだけどな」


 私はそこで言葉を止めた。

 真由美は急かさない。

 だから、こちらも少しずつ本音を出しやすくなる。


「怖くなってきた」


 私が言うと、彼女は驚かなかった。

「通りそうだから?」


「うん」


 彼女は小さくうなずいた。

「そうだと思った」


「わかるのか」


「わかるよ」


 真由美は少しだけ笑う。


「通らないかもしれない時のあなたと、通るかもしれない時のあなた、顔が違うから」


 私はその一言に苦笑した。

「また顔か」


「顔」


「ほんとに顔ばっかりだな」


「見えるからね」


 それは本城も似たようなことを言った。

 見えるので。

 最近、私はどうも自分が思っている以上に顔へ出るらしい。


「何が怖いの」


 真由美は静かに聞く。


 私は少し考えてから答えた。


「通ったら、本当にこれを書くことになるから」


「うん」


「今までみたいに、悪くないけど弱い、で止まるなら、どこかでまだ逃げられたんだと思う」


「逃げられた」


「整えれば整えるほど弱くなるって、結局、安全なところで止めてたってことかもしれない」


 そこまで言って、私は水を一口飲んだ。

 冷たい。

 でも喉の奥は少し熱い。


「今のは、たぶん逃げられない」

「近いから?」


「近いし、嫌なところまで入ってるから」


 真由美はそれを聞いて、すぐには何も言わなかった。

 少しだけ考えてから、静かに言う。


「じゃあ、やっと“通って困るもの”を作れたんじゃない」


 私はその言い方に、一瞬だけ言葉を失った。


 通って困るもの。

 たしかにそうだ。

 通らなければ悔しい。

 でも通ったら、本当に書かなきゃいけなくて困る。

 そこまで行って、ようやく企画として本物なのかもしれない。


「困るって、ひどい言い方だな」


 私が言うと、真由美は少し笑った。

「でも、ぴったりでしょ」


 ぴったりだった。


     ◇


 書斎へ戻ったあと、私はメモ帳を開いた。


『通らない企画はつらい。

 でも、通るかもしれない企画はもっと怖い。

 通ったら、自分の嫌なところまで責任を持って最後まで書かなきゃいけないから。』


 そこまで打って、しばらく画面を見つめる。


 そうだ。

 これが今夜の本音なのだ。


 コンテストの中間選考で止まる苦しさとも違う。

 新シリーズが決まらない焦りとも違う。

 これはもっと静かで、もっと大人の怖さだ。


 引き受ける怖さ。


 いままでは、決まらないことを嘆けばよかった。

 編集や市場やタイミングのせいにもできた。

 だが、いまは違う。

 高梨は前向きだ。

 企画は前より明らかに強い。

 会議に出すという話まで来ている。


 つまり、ここからはもう“通らなかったら外部要因、通ったらおめでとう”では済まない。

 通ったら、私がこの企画の近さと痛さを、最後まで引き受ける番になる。


 それが怖い。

 かなり、怖い。


 私は『再構成_危ない案』へ戻り、主人公の独白へ新しく一段落を足した。


『決まらない時は、世の中のせいにできた。

 編集の温度が悪い、時代に合っていない、売り方が難しい、タイミングが合わない。

 だが決まりそうになった瞬間、急に全部が自分へ戻ってくる。

 本当にこの男を書くのか。

 本当にこのみっともなさを、自分の名前で世に出すのか。』


 書いていて、背中が少しだけぞくりとした。


 これはかなり、いまの私そのままだ。

 だが、そのままだからこそ強い。


 私はさらに一行を加える。


『通るかもしれない企画は、夢ではなく責任の顔でこちらを見る。』


 そこまで打って、思わず息を吐いた。


 いい。

 かなりいい。

 そして、かなり重い。


 投稿サイトで読まれるなら、ここは強いはずだと思う。

 新企画が前進する高揚感と、そのぶんだけ増す主人公の恐怖。

 読者はきっと、そこで“いけるかもしれない”と“いや、ここからが地獄だろ”の両方を感じる。


 私は最後に、高梨へ送った短いメッセージを思い出した。


 お願いします。会議に出してください。


 あれは、ただの送信ではなかった。

 たぶん、今の私はその一言で、かなり大きく引き返せないところまで来てしまったのだ。


 でも、それでいいのかもしれない。

 少なくとも、“悪くないけど弱い”安全な案へ戻るよりは。


 私はメモ帳へ最後にもう一行だけ残した。


『決まりそうになると、夢は急に義務の顔をする。

 でも、その顔から逃げたら、たぶんもう次はない。』


 そこまで書いて、私はようやくパソコンを閉じた。

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