第59話 高梨が初めて“企画会議に出せる”と言う
月曜の夕方、営業管理課のフロアは、昼間とは違う種類の疲れに包まれる。
朝の忙しさは、まだ体力で押せる。
昼の会議は、言葉と数字でどうにか持ちこたえられる。
だが夕方の疲れは違う。判断の回数が積み重なり、説明の言い換えが何度も重なり、人の期待を上げすぎないように、でも下げすぎないようにと気を使い続けたあとの疲れは、身体より先に頭の表面をざらつかせる。
その日も、私はかなりそういう顔をしていたのだと思う。
榎本は営業部へ数字を戻しに行き、三浦は先方への返信を送ったあとで、机に伏したくなるのをこらえるみたいに両肩を回している。本城は共有フォルダの最終確認をしながら、いつもの静かなペースを崩していない。私は部長から戻ってきた赤の入った資料を見下ろし、どこをどの順番で直せば最短で終わるかだけを考えていた。
その時、スマホが震えた。
机の右奥、私物のほう。
社用ではない、小さな振動。
私はすぐには見なかった。
最近の私は、その振動に対してほんの少し身構える癖がついている。家族からかもしれないし、高梨かもしれない。どちらにせよ、仕事の顔のままでは受け取れない種類のものが入っていることがあるからだ。
だが、数秒後、どうしても気になって画面をのぞいた。
高梨だった。
『今、少しだけいいですか』
その短さに、胸の奥が少しだけ熱を持つ。
仕事の進捗確認なら、もっと別の書き方をする。現シリーズの締切や原稿の連絡なら、要件が先に来る。これは違う。たぶん、新企画のほうだ。
私は社内チャットを閉じるふりをして、スマホを手に取った。
『まだ会社です。短くなら大丈夫です』
送信する。
数秒で既読がつき、すぐ返信が来た。
『新企画の件です。
これ、企画会議に一度出したいです』
私は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
企画会議に一度出したい。
たったそれだけの文章だ。
でも、それが意味するところは大きい。
ラフのまま褒めるのとは違う。
「続きが読みたい」と言うのとも違う。
それはもう、編集個人の感想ではない。出版社の中で、商品候補として、タイトルも主人公も市場の目にさらされる段階へ行く、という意味だ。
私は無意識に、机の上の資料へ視線を落とした。
数字。
見込み。
期待値。
回収。
そういう現実の上に、これから自分の“かなり近すぎる企画”が載せられる。
嬉しい。
かなり、嬉しい。
でも同時に、急に怖くなった。
企画会議に出るということは、私だけの熱だったものが、他人の言葉で解体されるということでもある。
“これは売りやすいのか”
“主人公が弱くないか”
“近すぎて私小説っぽく見えないか”
“タイトルが長すぎないか”
“読者の入口が狭くないか”
そういうことを、たぶん言われる。
言われて当然だ。
でも、いざそこまで来ると、急に胃のあたりが冷える。
「係長」
声をかけてきたのは本城だった。
私は反射的に画面を伏せた。
遅かったかもしれない。
でも、そうするしかなかった。
「ここの数字、先方返答待ちのままなら注記入れておいたほうがいいですか」
いつもの仕事の声だ。
私はすぐに呼吸を整えた。
「……ああ、入れておいて」
「わかりました」
本城はそれだけ言って、自分の席へ戻る。
だが、去り際に一瞬だけこちらを見た気がした。
見た、というより、気配を測るみたいに。
私はその一瞬に、また少しだけざわつく。
仕事の時の顔じゃなかったです。
仕事では、ですね。
あのやり取り以来、彼女のほんの少しの視線まで気になるようになってしまっている。
だが今はそれより、高梨のメッセージだ。
企画会議に出せる。
その一歩が、私の中で嬉しさと怖さを同じ重さで立ち上げている。
◇
定時を少し過ぎた頃、私はようやく仕事を切り上げた。
部長への最終確認を送り、榎本へ翌朝の注意点だけ伝え、三浦の返信案をもう一度だけ見てからパソコンを閉じる。いつも通りの終業動作だ。だが、今日の私はその“いつも通り”の内側で、まったく別の熱を抱えていた。
ロッカーで上着を取る。
エレベーターを待つ。
ビルの外へ出る。
ようやくスマホを開き、高梨へ返事を打つ。
だが、指が止まる。
ありがとうございます。
お願いします。
嬉しいです。
どれも本音だ。
でも、それだけでは足りない気もする。
今の私は、嬉しいだけではない。
企画会議に出すという現実が、一気にこの企画を“傷つくかもしれないもの”として立ち上がらせている。
私は駅へ向かう途中の歩道で立ち止まり、短く打った。
『ありがとうございます。
かなりうれしいです。
その分、少し怖くなってきました。』
送信。
すぐには返ってこない。
私は歩き出した。
駅前の信号が変わり、人が横断歩道を渡っていく。スーツ姿の人間、買い物袋を持った人、スマホを見ながら歩く若い男。誰も、私の新企画がいま企画会議の入口へかかり始めていることなど知らない。
その匿名性に少しだけ救われる。
数十秒後、高梨から返信が来た。
『怖くなるのは正しいです。
でも、怖くなるくらいのものじゃないと、前の案群には戻ると思います。
いまの案は、そこを越えてる気がします』
私はその一文を見て、駅の入口の前で一度だけ足を止めた。
怖くなるのは正しい。
その一言が、かなり大きかった。
前の私は、企画が決まらないことに苦しんでいた。
悪くないけど弱い。
読めるけど刺さりきらない。
そういう案ばかりを、無難に整えて作っていた。
今は違う。
違うから怖い。
自分へ近すぎるし、読者に嫌われる可能性もあるし、社内で割れるのも分かる。
でも、その怖さがあるということ自体が、前とは違う証拠なのだろう。
◇
帰りの電車では座れなかった。
ドア脇に立ち、窓へ映る自分の顔を見る。
疲れている。だが今日は、“悪い疲れ”だけではない。本城ならたぶん、そう言うだろう。
私はスマホのメモ帳を開き、新しく一行だけ打った。
『決まりそうになると、急に怖い。
決まらない苦しさより、決まりそうなものを自分の名前で引き受ける怖さのほうが、たぶん大人には重い。』
そこまで書いて、少しだけ笑った。
いかにも今の私らしい言い方だ。
でも、かなり本音でもある。
若い頃なら、企画会議に出ると聞いた瞬間、もっと素直に浮かれていたかもしれない。
いける。
ようやく来た。
これで何か変わるかもしれない。
そういう熱だけで前へ行けた。
いまは無理だ。
企画会議に出るということは、その先に編集の温度差も、営業の目線も、社内の“売れるかどうか”も待っていると知ってしまっている。
通らないかもしれない。
通っても変な方向へ整えられるかもしれない。
何より、自分に近すぎるものを他人の言葉で触られること自体がしんどい。
つまり、私はようやく“作品が商品になる怖さ”へ本気で立ったのだろう。
それは、書けないこととは別の種類の苦しさだった。
そしてたぶん、兼業作家の四十七歳には、そのほうがずっと重い。
◇
家へ帰り、夕食を済ませ、風呂を出て、書斎へ入る頃には、嬉しさと怖さはまだ半分ずつ残っていた。
机の上には、見本誌と会社の手帳と健康診断の紙。
そしてパソコンの中には、『再構成_危ない案』の十数ページ。
私は椅子へ座り、しばらく何も開かなかった。
企画会議に出せる。
それは前進だ。
でも、その前進は、同時に“自分だけのものではなくなる”ことでもある。
いままで私は、この企画を守ってきた。
高梨には見せたが、それでもまだごく限られた温度の中にあった。
そこから先へ出すなら、もっと冷たい目線にも耐えなければならない。
主人公が綺麗じゃない。
見栄がある。
優越感もある。
でも、そのみっともなさが魅力に変わるはずだと信じて、私はここまで書いてきた。
それを、商品候補として他人へ見せる。
そこまで来たのだ。
私はパソコンを開き、最新稿を最初からゆっくり読み返した。
ホテルの夜。
アニメ化作家への憧れ。
若い受賞者への眩しさ。
売れていない同業への優越感。
酔った作家の一言に刺され、ホテルのトイレで少し惨めになる中年作家。
そこから朝の電車へ戻り、職場で自分の疲れ方を見抜く女に怯え、なお夜には机へ戻る男。
読める。
前より明らかに読める。
しかも、自分でも続きを読みたくなる。
私はそのことを確認してから、ようやく高梨へ改めて短いメッセージを送った。
『お願いします。
会議に出してください。』
送信して、しばらく画面を見ていた。
この一文は、簡単なようでいて、今の私にはかなり重かった。
お願いします。
会議に出してください。
それは単なる了承ではない。
この企画で、自分のみっともなさや近さや危うさごと、商業の場へ出る覚悟を少しだけ決める、という意味だった。
返信はまだ来ない。
当然だ。
高梨も今ごろは別の原稿や会議や社内調整に追われているのだろう。
でも、もういい。
今夜必要だったのは、この送信そのものだった。
私はメモ帳を開き、最後に一行だけ残した。
『決まりそうになると怖い。
でも、怖いから引いたら、また前の安全な弱い案へ戻る。
それだけは、もう分かってしまった。』
そこまで書いて、私は静かに息を吐いた。
企画会議へ出る。
通るかどうかはまだ分からない。
むしろ割れるだろう。
高梨もたぶんそう思っている。
でも、いまはそれでいい。
少なくとも、止まってはいない。
自分の名前で、自分に近すぎる企画を、次の場所へ押し出した。
それだけで、今夜の私には十分に大きな前進だった。




