第58話 本城は、どこまで知っているのか
会議室で完成した台詞は、その日の終業までずっと胸の奥で熱を持っていた。
自由に期待したあとで責任だけ現実に戻ってくるのが、いちばん面倒なんです。
仕事の言葉としても成立している。
だが、新企画の主人公の中へ入れた瞬間、あれは単なる仕事の台詞ではなくなるはずだった。ホテルの夜の見栄も、朝の電車の疲れも、会社で削られる平日の鈍さも、全部がそこへ流れ込む。
だから本当なら、その熱が冷めないうちに早く家へ帰って書きたかった。
だが現実はそううまくいかない。
会議のあとにも仕事は普通に続く。
営業部からは修正版の見込み表が戻り、三浦は先方への返信文を再調整し、榎本は「だから最初からこうなると思ったんですよ」と言いたげな顔で数字を揃え、本多部長は“この表現はまだ強い”と別の資料へ赤を入れる。
私は係長として、結局最後まで係長だった。
そのあいだも頭のどこかではさっきの台詞が鳴っている。
だが、仕事の顔を崩すわけにはいかない。
それなのに、本城だけは、その“崩れかけた瞬間”をちゃんと見ていた。
仕事の時の顔じゃなかったです。
その一言が、会議の台詞よりも別の意味であとを引いていた。
◇
夕方の営業管理課は、昼より少し静かだ。
静かと言っても、仕事が減るわけではない。むしろ日中に動いた案件の整理が集まり、メールも電話も地味に増える。ただ、人間の声量だけが少し落ちるのだ。みんな疲れてくるからだろう。三浦の語尾の勢いも朝より弱くなり、榎本の独り言も少なくなる。本城は最初から最後まであまり変わらないが、キーボードを打つリズムだけは時間帯で少し変わる。
私は画面へ向かったまま、今日三度目の資料修正をしていた。
営業部の表現を少し下げ、
部長の意図を読み替え、
先方へ見せても問題ない温度へ整える。
そういう作業は慣れている。
慣れているが、今日は自分の意識がどこか二重だった。
仕事をしながら、頭の片隅で本城の言葉を何度も反芻している。
仕事の時の顔じゃなかったです。
やっぱり。
不便なほうです。
どこまで知っているのだろう。
いや、知っているという表現が正しいのかも分からない。
正体を断定しているわけではないのかもしれない。
だが、少なくとも“この人の中には仕事ではない別の熱がある”ことは、かなり明確に見えている。
それだけでも十分に近すぎた。
「係長」
三浦がこちらを向く。
「この文面、先方に送る前にもう一回だけ見てもらっていいですか」
私は椅子を少し寄せた。
「どれ」
「最後のここです。“前向きに協議を継続します”でいいかどうか」
画面を見た瞬間、私は首を横に振る。
「“前向きに”は消そう」
「やっぱりか」
「協議を継続する、だけで十分」
「最近ほんと、そのへん一文字単位で見ますね」
「一文字で期待が育つ時あるからな」
三浦が笑う。
「それ、今日の会議でも言ってましたよね」
私は曖昧にうなずいた。
「言ってたかもな」
その時だった。
「期待を育てるのが嫌いなんですね」
本城が、画面から目を離さないまま言った。
私はほんの一瞬だけ、指を止めた。
嫌いなんですね。
何気ない言い方だ。
でも、そこには観察の温度がある。
ただの仕事の癖として見ているだけではない気がする。
「嫌いというか」
私はできるだけ自然に返した。
「後で回収できない期待は面倒だから」
「仕事では、ですね」
本城が言う。
仕事では。
その一言で、私は今度こそ彼女のほうを見た。
本城はようやく視線を上げ、こちらを見る。表情は静かだ。だが、その静かさの中に、わずかに探るような色がある。
仕事では。
つまり、その外では違うのか、と言っているようにも聞こえる。
私は一拍だけ遅れて答えた。
「仕事では、な」
本城はそれ以上何も言わず、資料へ目を戻した。
その一連のやり取りは、外から見ればただの会話にしか見えないだろう。
三浦も榎本も、そこへ特に注意を向けてはいない。
だが、私の内側ではかなり大きく残った。
仕事では。
あの人は、やはりどこかで線を引いている。
こちらが“仕事の時の顔じゃない”瞬間を見てしまった以上、仕事だけの人間ではないと感じ始めているのかもしれない。
それがどこまで正確なのかは分からない。
だが、怖いのは正確さではなく、その曖昧さのほうだった。
◇
終業間際、榎本が営業部へ数字を返しに行き、三浦が先方へ文面を送って、島に少しだけ空白ができた。
本多部長は別の会議へ出ている。
電話も鳴っていない。
フロア全体の音が、ほんの少しだけ落ちる時間。
私はその隙に、自席のメモへさっきのやり取りを走り書きした。
期待を育てるのが嫌いなんですね。
仕事では、ですね。
書いてから、思わず息を止めた。
強い。
かなり強い。
この二往復だけで、その女がどこまで踏み込んでいるか、どこで止まるか、かなり見える。
しかも主人公のほうは、完全に受け身だ。
相手の問いの角度だけで、自分の中の線がずれるのを感じている。
私はそこで、ようやく認めた。
本城の存在は、もう新企画の中で“使える”とか“モデルになる”とか、そういう段階を越え始めている。
いまの私は、彼女との距離そのものに少し緊張している。
そしてその緊張が、作品の推進力になっている。
創作としては、かなり当たりだ。
現実としては、少しまずい。
私はその両方を理解したまま、メモ帳を閉じた。
◇
帰りの電車では座れなかった。
ドア脇に立ち、窓に映る自分の顔を見る。
仕事の疲れはある。
でも、今夜はそれより別のざわつきのほうが強い。
どこまで知っているのか。
その問いが、ずっと残っていた。
本城は、私が作家だと断定しているのか。
それとも、“仕事ではない別の何か”があると感じているだけなのか。
あるいは、もっと曖昧に、“この人は自分の知らない顔を持っている”と思っているだけなのか。
答えは出ない。
出ないからこそ、気になる。
私はふと気づいた。
こういう状態がいちばん物語に向いているのだ。
完全に秘密を知っている相手なら、話は早い。
だが、それでは緊張が単純になる。
逆に何も知らない相手なら、こちらが勝手に怯えているだけだ。
いまの本城はその中間にいる。
知っているわけではない。
でも、気づいている。
そして、その気づきを自分の中で整理しきらないまま、こちらへ半歩だけ投げてくる。
それが、たまらなく危うい。
私はスマホを取り出し、吊り革につかまりながらメモ帳を開いた。
『正体を知っている相手は、対処できる。
いちばん怖いのは、正体の輪郭だけを触ってくる相手だ。
その人間は、秘密を暴こうとしているわけじゃない。
ただ、見えてしまっている。
だから逃げ場がない。』
そこまで打ってから、私は小さくうなずいた。
これだ。
かなり核心に近い。
ホテルの夜で得たのは、作家の見栄や序列の痛みだった。
会社へ戻って得たのは、もっと身近で、もっと静かな怖さだ。
そして投稿サイトで読者を引っ張るなら、たぶん後者のほうが強い。
毎話少しずつ、「この人はどこまで気づいているんだ?」を積み上げる。
でも決定的なことは起きない。
そのじれったさの中で、主人公だけがどんどん逃げ場を失っていく。
私はその構図に、ようやく手応えを感じ始めていた。
◇
夜、書斎へ入ると、私はほとんど迷わず本文を開いた。
今日はもう仕事の疲れを言い訳にしなかった。
むしろ、このざわつきがあるうちに書くしかない。
主人公。
職場。
疲れ方を見抜く女。
その女は、男の秘密を知らない。
だが、秘密の周辺にある空気だけは正確に触る。
私は新しく一場面を書いた。
仕事の会議で、男がふいに“仕事の時の顔じゃない”瞬間を見せる。
女はそれを見逃さない。
会議のあと、二人きりの短いやり取り。
女は「期待を育てるのが嫌いなんですね」と言う。
男は仕事の話として処理しようとする。
女は「仕事では、ですね」と返す。
そこまで書いたところで、私は手を止めた。
いい。
かなりいい。
言いすぎていない。
でも、確実に近い。
主人公の中の防御だけが削られていく感じが出ている。
私はさらに一行だけ、主人公の独白を足した。
この女は、秘密を暴かない。
暴かないまま、秘密の形だけを毎日少しずつ確かめてくる。
それがいちばん厄介だった。
打ってから、深く息を吐く。
投稿サイトで読まれるなら、たぶんこういう引きだ。
誰かが主人公の正体を暴くわけではない。
でも、“この人はどこまで気づいているのか”という不安が、毎話少しずつ積み上がる。
しかも、それが単なる秘密バレのサスペンスではない。
主人公が自分でもまだ整理しきれていない“書くことの熱”を、先に誰かに見抜かれてしまう怖さだ。
それはかなり、いまの私に近い。
そして近いからこそ、ちゃんと面白い。
私は最後にメモ帳へ短く残した。
本城は知っているのではない。
でも、知らないまま近すぎる。
そのほうがずっと怖い。




