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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第58話 本城は、どこまで知っているのか

会議室で完成した台詞は、その日の終業までずっと胸の奥で熱を持っていた。


 自由に期待したあとで責任だけ現実に戻ってくるのが、いちばん面倒なんです。


 仕事の言葉としても成立している。

 だが、新企画の主人公の中へ入れた瞬間、あれは単なる仕事の台詞ではなくなるはずだった。ホテルの夜の見栄も、朝の電車の疲れも、会社で削られる平日の鈍さも、全部がそこへ流れ込む。


 だから本当なら、その熱が冷めないうちに早く家へ帰って書きたかった。

 だが現実はそううまくいかない。


 会議のあとにも仕事は普通に続く。

 営業部からは修正版の見込み表が戻り、三浦は先方への返信文を再調整し、榎本は「だから最初からこうなると思ったんですよ」と言いたげな顔で数字を揃え、本多部長は“この表現はまだ強い”と別の資料へ赤を入れる。


 私は係長として、結局最後まで係長だった。

 そのあいだも頭のどこかではさっきの台詞が鳴っている。

 だが、仕事の顔を崩すわけにはいかない。


 それなのに、本城だけは、その“崩れかけた瞬間”をちゃんと見ていた。


 仕事の時の顔じゃなかったです。


 その一言が、会議の台詞よりも別の意味であとを引いていた。


     ◇


 夕方の営業管理課は、昼より少し静かだ。


 静かと言っても、仕事が減るわけではない。むしろ日中に動いた案件の整理が集まり、メールも電話も地味に増える。ただ、人間の声量だけが少し落ちるのだ。みんな疲れてくるからだろう。三浦の語尾の勢いも朝より弱くなり、榎本の独り言も少なくなる。本城は最初から最後まであまり変わらないが、キーボードを打つリズムだけは時間帯で少し変わる。


 私は画面へ向かったまま、今日三度目の資料修正をしていた。


 営業部の表現を少し下げ、

 部長の意図を読み替え、

 先方へ見せても問題ない温度へ整える。


 そういう作業は慣れている。

 慣れているが、今日は自分の意識がどこか二重だった。


 仕事をしながら、頭の片隅で本城の言葉を何度も反芻している。


 仕事の時の顔じゃなかったです。

 やっぱり。

 不便なほうです。


 どこまで知っているのだろう。

 いや、知っているという表現が正しいのかも分からない。

 正体を断定しているわけではないのかもしれない。

 だが、少なくとも“この人の中には仕事ではない別の熱がある”ことは、かなり明確に見えている。


 それだけでも十分に近すぎた。


「係長」


 三浦がこちらを向く。

「この文面、先方に送る前にもう一回だけ見てもらっていいですか」


 私は椅子を少し寄せた。

「どれ」


「最後のここです。“前向きに協議を継続します”でいいかどうか」


 画面を見た瞬間、私は首を横に振る。


「“前向きに”は消そう」


「やっぱりか」


「協議を継続する、だけで十分」


「最近ほんと、そのへん一文字単位で見ますね」


「一文字で期待が育つ時あるからな」


 三浦が笑う。

「それ、今日の会議でも言ってましたよね」


 私は曖昧にうなずいた。

「言ってたかもな」


 その時だった。


「期待を育てるのが嫌いなんですね」


 本城が、画面から目を離さないまま言った。


 私はほんの一瞬だけ、指を止めた。


 嫌いなんですね。


 何気ない言い方だ。

 でも、そこには観察の温度がある。

 ただの仕事の癖として見ているだけではない気がする。


「嫌いというか」


 私はできるだけ自然に返した。

「後で回収できない期待は面倒だから」


「仕事では、ですね」


 本城が言う。


 仕事では。


 その一言で、私は今度こそ彼女のほうを見た。

 本城はようやく視線を上げ、こちらを見る。表情は静かだ。だが、その静かさの中に、わずかに探るような色がある。


 仕事では。

 つまり、その外では違うのか、と言っているようにも聞こえる。


 私は一拍だけ遅れて答えた。

「仕事では、な」


 本城はそれ以上何も言わず、資料へ目を戻した。


 その一連のやり取りは、外から見ればただの会話にしか見えないだろう。

 三浦も榎本も、そこへ特に注意を向けてはいない。

 だが、私の内側ではかなり大きく残った。


 仕事では。

 あの人は、やはりどこかで線を引いている。

 こちらが“仕事の時の顔じゃない”瞬間を見てしまった以上、仕事だけの人間ではないと感じ始めているのかもしれない。


 それがどこまで正確なのかは分からない。

 だが、怖いのは正確さではなく、その曖昧さのほうだった。


     ◇


 終業間際、榎本が営業部へ数字を返しに行き、三浦が先方へ文面を送って、島に少しだけ空白ができた。


 本多部長は別の会議へ出ている。

 電話も鳴っていない。

 フロア全体の音が、ほんの少しだけ落ちる時間。


 私はその隙に、自席のメモへさっきのやり取りを走り書きした。


 期待を育てるのが嫌いなんですね。

 仕事では、ですね。


 書いてから、思わず息を止めた。


 強い。

 かなり強い。


 この二往復だけで、その女がどこまで踏み込んでいるか、どこで止まるか、かなり見える。

 しかも主人公のほうは、完全に受け身だ。

 相手の問いの角度だけで、自分の中の線がずれるのを感じている。


 私はそこで、ようやく認めた。


 本城の存在は、もう新企画の中で“使える”とか“モデルになる”とか、そういう段階を越え始めている。

 いまの私は、彼女との距離そのものに少し緊張している。

 そしてその緊張が、作品の推進力になっている。


 創作としては、かなり当たりだ。

 現実としては、少しまずい。


 私はその両方を理解したまま、メモ帳を閉じた。


     ◇


 帰りの電車では座れなかった。


 ドア脇に立ち、窓に映る自分の顔を見る。

 仕事の疲れはある。

 でも、今夜はそれより別のざわつきのほうが強い。


 どこまで知っているのか。

 その問いが、ずっと残っていた。


 本城は、私が作家だと断定しているのか。

 それとも、“仕事ではない別の何か”があると感じているだけなのか。

 あるいは、もっと曖昧に、“この人は自分の知らない顔を持っている”と思っているだけなのか。


 答えは出ない。

 出ないからこそ、気になる。


 私はふと気づいた。

 こういう状態がいちばん物語に向いているのだ。


 完全に秘密を知っている相手なら、話は早い。

 だが、それでは緊張が単純になる。

 逆に何も知らない相手なら、こちらが勝手に怯えているだけだ。


 いまの本城はその中間にいる。

 知っているわけではない。

 でも、気づいている。

 そして、その気づきを自分の中で整理しきらないまま、こちらへ半歩だけ投げてくる。


 それが、たまらなく危うい。


 私はスマホを取り出し、吊り革につかまりながらメモ帳を開いた。


『正体を知っている相手は、対処できる。

 いちばん怖いのは、正体の輪郭だけを触ってくる相手だ。

 その人間は、秘密を暴こうとしているわけじゃない。

 ただ、見えてしまっている。

 だから逃げ場がない。』


 そこまで打ってから、私は小さくうなずいた。


 これだ。

 かなり核心に近い。


 ホテルの夜で得たのは、作家の見栄や序列の痛みだった。

 会社へ戻って得たのは、もっと身近で、もっと静かな怖さだ。


 そして投稿サイトで読者を引っ張るなら、たぶん後者のほうが強い。

 毎話少しずつ、「この人はどこまで気づいているんだ?」を積み上げる。

 でも決定的なことは起きない。

 そのじれったさの中で、主人公だけがどんどん逃げ場を失っていく。


 私はその構図に、ようやく手応えを感じ始めていた。


     ◇


 夜、書斎へ入ると、私はほとんど迷わず本文を開いた。


 今日はもう仕事の疲れを言い訳にしなかった。

 むしろ、このざわつきがあるうちに書くしかない。


 主人公。

 職場。

 疲れ方を見抜く女。

 その女は、男の秘密を知らない。

 だが、秘密の周辺にある空気だけは正確に触る。


 私は新しく一場面を書いた。


 仕事の会議で、男がふいに“仕事の時の顔じゃない”瞬間を見せる。

 女はそれを見逃さない。

 会議のあと、二人きりの短いやり取り。

 女は「期待を育てるのが嫌いなんですね」と言う。

 男は仕事の話として処理しようとする。

 女は「仕事では、ですね」と返す。


 そこまで書いたところで、私は手を止めた。


 いい。

 かなりいい。


 言いすぎていない。

 でも、確実に近い。

 主人公の中の防御だけが削られていく感じが出ている。


 私はさらに一行だけ、主人公の独白を足した。


 この女は、秘密を暴かない。

 暴かないまま、秘密の形だけを毎日少しずつ確かめてくる。

 それがいちばん厄介だった。


 打ってから、深く息を吐く。


 投稿サイトで読まれるなら、たぶんこういう引きだ。

 誰かが主人公の正体を暴くわけではない。

 でも、“この人はどこまで気づいているのか”という不安が、毎話少しずつ積み上がる。


 しかも、それが単なる秘密バレのサスペンスではない。

 主人公が自分でもまだ整理しきれていない“書くことの熱”を、先に誰かに見抜かれてしまう怖さだ。


 それはかなり、いまの私に近い。

 そして近いからこそ、ちゃんと面白い。


 私は最後にメモ帳へ短く残した。


 本城は知っているのではない。

 でも、知らないまま近すぎる。

 そのほうがずっと怖い。

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