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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第57話 職場で、その台詞はふいに完成する

 会議というのは、だいたい人の創造性に向いていない。


 少なくとも私はそう思っている。

 会社の会議で必要なのは、発想よりも整理だ。曖昧なものを曖昧なまま共有せず、誰が何をどこまで引き受けるのかを言葉で固定すること。見込みを見込みのままにせず、期待値を必要以上に育てず、あとで揉めないように文面と温度を揃えること。


 そういう仕事は嫌いではない。

 嫌いではないが、創作とはだいぶ違う。

 少なくとも、物語の台詞が生まれる場所ではないはずだった。


 その日の午後までは。


     ◇


 営業管理課の会議室は、相変わらず少しだけ寒かった。


 空調が効きすぎているのか、あるいは会議というものそのものが人の体温を奪うのかは分からない。細長いテーブル、少しだけくすんだホワイトボード、会議資料をめくる音。窓の外は曇りで、時間のわりに空が暗い。


 私は部長の斜め向かいに座り、営業部から上がってきた見込み資料へ目を落としていた。

 榎本は私の隣で数字のズレをメモし、三浦は少し離れた席で先方とのやり取りの履歴を画面に出している。本城は一覧表と補足資料の束を揃えたまま、たぶんこの会議がどこで長引くかをすでに読んでいる顔をしていた。


「この案件ですが」


 営業部の課長が資料の一点を指す。


「先方の反応は悪くないので、ここはもう一段、前向きに見てもいいんじゃないかと思うんですよ」


 私はその一文を聞いた瞬間、ああ始まった、と思った。


 先方の反応は悪くない。

 それ自体は事実だろう。

 だが、そこから“もう一段、前向きに見ていい”へ飛ぶのは、営業部のいつもの癖だ。悪くないを、好感触へ。好感触を、ほぼ決まりへ。そうやって期待値を自分で一段ずつ育てていく。


「いや」


 部長が先に首を振る。


「それはまだ早いだろう。返答が曖昧なままだ」


「ただ、感触としては」


「感触は感触だろう」


 営業部の課長が食い下がる。

 部長も引かない。

 会議の空気が少しだけ硬くなる。


 私はそのやり取りを聞きながら、資料の数字ではなく、言葉の置き方のほうへ意識が行っていた。


 悪くない。

 前向き。

 感触。

 早い。

 曖昧。


 いつもの言葉だ。

 でも、その時ふいに、頭のどこかで別の線がつながった。


 新企画の主人公。

 ホテルの夜から帰ってきて、

 若い受賞者への眩しさも、

 売れていない同業への優越感も、

 自分より上からの雑な一言に刺された痛みも、

 全部抱えたまま職場へ戻る男。


 その男が、もし会議室でこんなやり取りを聞いたら、何と言うか。


 私は資料の端を見つめたまま、気づく。

 来る。

 台詞が来る。


「佐伯さん」


 部長が私を見る。

「どう思う」


 私は一瞬だけ現実へ戻った。

 会議だ。

 いまは企画ではない。

 でも、頭の中ではまだ言葉が動いている。


「そうですね」


 私は資料を見たまま答えた。


「先方の反応が悪くないのは事実だと思います。ただ、悪くない、はまだ前進の入口でしかないので」


 営業部の課長が少しだけ口を挟む。

「でも、そこをもう少し前向きに」


「前向きに見るのは自由です」


 私はそこまで言って、ふいにその先が完成するのを感じた。


 自由だ。

 でも。


「ただ、自由に期待したあとで責任だけ現実に戻ってくるのが、いちばん面倒なんです」


 会議室が、一瞬だけ静かになった。


 私は言ってから、自分でも少しだけ驚いた。

 仕事の言葉としても間違ってはいない。

 だが、どこか妙に生々しい。営業管理課係長の発言であると同時に、新企画の主人公の独白としてもそのまま通る種類の言葉だった。


 部長が先にうなずいた。


「……まあ、そうだな」


 営業部の課長は苦笑する。

「言い方がいやに刺さりますね」


「刺さるようにしか、最近言えないので」


 私は反射的にそう返した。

 榎本が隣で少しだけ吹き出しそうになっているのが視界の端に見えた。


 会議はそのまま進んだ。

 数字は少しだけ下がり、

 文言は少しだけ丸くなり、

 誰も完全には満足しないまま、でも会社の会議としては妥当な着地へ向かう。


 だが、私の頭の中ではもう、さっきの一言が反響していた。


 自由に期待したあとで責任だけ現実に戻ってくるのが、いちばん面倒なんです。


 これだ。

 これだ、と私は思った。


 ホテルの夜の憧れも、

 仕事の会議室のうんざりも、

 中年の諦めきれなさも、

 全部この一言に入っている。


 私は会議を続けながらも、心臓のあたりが少しだけ熱くなるのを感じていた。


     ◇


 会議が終わり、ぞろぞろと人が席を立つ。


 資料をまとめる音。

 椅子を引く音。

 部長の「じゃあ午後の修正版で」という声。

 営業部の課長の、まだ少し納得していない「了解です」。


 私は資料を閉じながら、頭の中で何度もさっきの一文を反芻していた。

 忘れたくない。

 でも、会議室を出るまではメモが取れない。


 こういう時の数十秒は長い。


 会議室を出たところで、私は社用のメモ帳を開こうとした。

 その瞬間だった。


「今、何か掴みましたよね」


 本城の声が、すぐ横からした。


 私は止まった。


 本当に、ぴたりと止まったと思う。

 歩く足も、メモ帳へ伸びかけた手も。


「……何が」


 振り向くと、本城が資料の束を抱えたままこちらを見ていた。

 表情は大きく動いていない。だが、その目は少しだけ確信を持っている。


「さっきの会議で」


 彼女は静かに言った。


「途中から、係長だけ少し違う顔になってたので」


 私はうまく返せなかった。


 違う顔。

 またそれだ。

 本城は本当に、人の疲れ方や、顔のほんのわずかな切り替わりを見ている。


「会議、してただけだよ」


 私はどうにかそう返した。


 本城は首を横に振るわけでも、食い下がるわけでもなかった。

 ただ、いつものあの少しだけ近すぎる距離感で言う。


「仕事の時の顔じゃなかったです」


 私はその一言に、胸の奥を軽く押された気がした。


 仕事の時の顔じゃなかった。


 それはたぶん、かなり正しい。

 私は会議の途中で一瞬、完全に書き手のほうへ寄っていた。

 営業部の言葉も、部長の返しも、会議室の寒さも、全部が“企画の材料”へ変わるあの感じ。

 それを、本城は顔つきだけで見抜いたのだ。


「……そう見えたなら」


 私は少しだけ視線を外して言った。


「たぶん、そうなんだろうな」


 本城は、それを聞いてほんの少しだけ口元をやわらげた。


「やっぱり」


 その“やっぱり”が、妙に静かに刺さる。


 私はメモ帳を握りしめたまま、少しだけ笑った。

「ほんとに、よく見てるな」


「見えるので」


「便利なのか、不便なのか分からない能力だな」


「たぶん、係長にとっては不便なほうです」


 私はそこで、思わずちゃんと笑ってしまった。

「そうかもな」


 本城はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。

 資料を抱えた後ろ姿は相変わらず静かで、ただ仕事へ戻る人のものにしか見えない。


 でも、私はしばらくその背中を見て動けなかった。


 いまの一連のやり取りは、もうほとんど新企画の中の場面そのものだった。


 仕事の時の顔じゃなかったです。

 やっぱり。

 不便なほうです。


 台詞だけではない。

 距離感も、間も、相手が一歩だけ引いてくれる感じも、そのまま使える。

 いや、使いたいと思ってしまう。


 現実が近すぎる。

 でも、その近さが、やはり一番強い。


     ◇


 私はようやく社用メモ帳を開き、会議メモの端へ急いで書いた。


 自由に期待したあとで責任だけ現実に戻ってくるのが、いちばん面倒なんです。


 それから、少しだけ考えて、その下へさらに書く。


 仕事の時の顔じゃなかったです。


 字が少し荒れていた。

 だが、それでよかった。

 今の熱のまま残っていたほうが、夜に見返した時にちゃんと立ち上がる気がしたからだ。


 自席へ戻ると、榎本がこちらを見て言った。


「係長、さっきの会議、ちょっと名言出てましたね」


「何が」


「自由に期待したあとで責任だけ現実に戻ってくる、ってやつ」


 三浦まで画面の向こうで苦笑している。

「それ、営業にいちばん刺さるやつですね」


 私は肩をすくめた。

「刺さるように言わないと届かないだろ」


「今日、切れてますねえ」


 榎本がそう言う。

 私はその言葉に、内心で少しだけ違う意味を重ねていた。


 切れている。

 たしかにそうかもしれない。

 会議の言葉が、そのまま物語の心臓へ繋がる感じ。

 それは、仕事としては少し危ない。

 でも、書き手としてはかなり当たりだ。


 私は午後の資料へ目を落としながら、胸の奥に残っている熱を意識していた。


 この台詞は、たぶん今夜の原稿の真ん中に来る。

 いや、もしかすると、この企画全体のどこかかなり重要な場所へ入るかもしれない。


 ホテルのシャンデリアの下ではなく、

 出版社の会議室でもなく、

 会社の、いつもの少し寒い会議室で、

 主人公の核心みたいな台詞が完成する。


 そのことが、いかにもこの物語らしいと思えた。

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