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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第56話 読者が求めるのは、綺麗な主人公じゃないのかもしれない

その週の金曜、私は帰りの電車で珍しく座れていた。


 座れると人は余計なことを考える。

 吊り革につかまっている時は、体勢を保つだけで意識の半分が持っていかれる。だが座ってしまうと、窓に映る自分の顔や、膝の上の鞄の重さや、今日一日の言葉の残り方まで、やけに細かく見えてくる。


 私は窓ガラスの黒い反射の中に、自分の顔を見ていた。


 今週も会社は普通に忙しかった。

 営業部は夢を見たがり、榎本はそれを現実へ戻そうとし、三浦は文面で余計な期待を育てそうになり、本城は静かに人の疲れ方を見抜く。部長は長い。先方は曖昧だ。数字はどこかで必ず膨らみたがる。


 そういう当たり前の週だった。


 でも、その当たり前の中で、新企画は明らかに前へ進んでいた。


 ホテルの夜で見た見栄や憧れ。

 若い受賞者への眩しさ。

 売れていない同業への優越感。

 酔った作家の無神経な一言に刺された痛み。

 そして、会社で自分の疲れ方を見抜いてくる人間と、家で“いい顔してる”と言う妻。


 その全部を混ぜたことで、主人公は急に息をし始めた。

 きれいではない。

 むしろかなりみっともない。


 だが、たぶんそのみっともなさが必要だった。


 私は膝の上のスマホを開き、メモ帳の一番上にある一文を見た。


 これ、ほとんど俺じゃないか。


 数日前は、その一文に少し怯えていた。

 いまは少し違う。


 ほとんど俺だ。

 でも、完全に俺ではない。

 その半歩のずれが、ようやく物語として機能し始めている。


 問題はここからだ。

 この主人公を、どこまで綺麗にしないか。


 私はそこを、今まではずっと怖がっていたのだと思う。


     ◇


 若い頃の私は、主人公を“読者に嫌われないように”作ろうとしていた。


 もちろん、全員に好かれる人間など書けるはずがない。

 そんなことは頭では分かっていた。

 でも、それでもどこかで、“この主人公を応援したい”“この人は少し不器用だけどいい人だ”と思ってもらえる着地を、かなり早い段階から探していた。


 だから、ずるさは薄めた。

 見栄は少しだけきれいにした。

 優越感は反省で早めに中和した。

 嫉妬はもう少し文学的な悩みに見えるよう、言葉を整えた。


 その結果、ちゃんと読めるものにはなる。

 でも、最近の私はその“ちゃんと読める”の壁を越えられずにいた。


 高梨の言葉を借りるなら、

 悪くないけど弱い。

 そこへ何度も戻ってしまっていたのだ。


 いまの新企画が違うのは、そこを少し諦めたからなのかもしれない。


 主人公は見栄っ張りだ。

 若い受賞者を見て、まぶしいだけではなく少し刺される。

 アニメ化作家を見て、純粋な祝福だけではなく羨望も持つ。

 売れていない同業に対して、一瞬だけ自分のほうがまだましだと安心してしまう。

 その安心に、あとでうんざりする。


 つまり、かなり嫌な人間だ。

 少なくとも、綺麗ではない。


 でも、それを書いた時に初めて、この主人公はただの“設定”ではなく、生きた人間の顔をし始めた。


 私はそのことを、今さらながら認めようとしていた。


     ◇


 帰宅後、夕食を済ませ、風呂を出て、書斎へ入る頃にはもう十一時近かった。


 疲れている。

 でも今日は、悪い疲れではなかった。

 本城ならたぶんそう言うだろう。


 私は椅子へ座り、『再構成_危ない案』を開いた。


 主人公の人物メモ。

 ホテルの夜から朝の電車へ続く数ページ。

 職場の同僚の女との会話。

 妻に「今のあなたはちょっといい顔してる」と言われる朝の食卓。


 そこまでを読み返して、私はようやくはっきり分かった。


 この主人公を、私は“好かれるように”整え始めたら駄目なのだ。


 好感はあとからついてくるかもしれない。

 でも、最初に目指すのはそこではない。


 必要なのは、目を離せないことだ。


 みっともない。

 でも、次のページで何を思うのか気になる。

 嫌なところもある。

 でも、なぜそんなふうに揺れるのかを見たい。

 応援したい、ではなく、放っておけない。


 たぶん今の読者が求めているのは、そういう主人公なのかもしれない。


 それは少しだけ、いまの漫画やライト文芸寄りの流れとも重なる気がする。

 世界を救うより先に、自分の中の見栄や孤独や職場の温度差に振り回されている人間。

 半径数メートルの現実の中で、妙に刺さるくらい生々しい人間。


 私はノートの余白に大きく書いた。


 “好かれる主人公”ではなく、“見ていたくなる主人公”


 書いてから、しばらくその文字を見つめる。

 それはかなり重要な方針転換だった。


 若い頃の私なら、そこでまだ少し怖がっただろう。

 読者に嫌われたらどうする。

 共感されなかったらどうする。

 レビューで主人公が不快だと言われたらどうする。


 でも、今の私はもう少しだけ現実的だ。

 全員に綺麗に好かれる主人公など、今の自分には書けないし、たぶん書いても弱い。


 むしろ、多少の引っかかりがあるほうが次を押される。

 投稿サイトで読まれるなら、なおさらそうだろう。

 一話ごとの終わりで“うわ、この主人公めんどくさいな。でも続き気になるな”と思わせるほうが、今のこの物語には向いている。


     ◇


 私は人物メモを更新した。


 主人公

 四十代。会社員。商業作家。

 誠実ではあるが、綺麗ではない。

 憧れも見栄も優越感も持つ。

 それを持ってしまう自分に、少しだけうんざりしている。

 でも、そのうんざりしている感じが、最低限の誠実さ。

 “いい人”ではなく、“目を離せない人”。


 そこまで打ったところで、私はようやく肩の力を抜いた。


 これだ。

 たぶん、これでいい。


 主人公を悪人にしたいわけではない。

 ただ、読者の前に出す時に、先回りして“この人は根はいい人です”という保険をかけすぎない。

 読者が少しだけざらついたまま、この男のことを追えるようにする。

 そのざらつきの中に、いまの私の本音も、ホテルの夜の気配も、会社で削られる平日も、全部ちゃんと残るはずだ。


 私は本文へ戻り、主人公の独白を少しだけ削った。

 反省を早めに入れていたところを遅らせる。

 言い訳を少し減らす。

 そのぶん、見栄や優越感がまだ生のまま残る時間を長くする。


 すると、不思議なくらい文章が立った。

 嫌な時間が長くなったぶんだけ、読んでいる側の呼吸も少し止まる。

 それが悪くない。


 私はその流れのまま、新企画の仮タイトルをノートへ大きく書いた。


 四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のまま


 仮タイトルというより、今のところは作品の正体に近い言葉だ。

 まだ完成形ではない。

 でも、この長くて少し泥臭いタイトルを見ていると、今の主人公と今の自分がようやく同じ方向を向き始めた気がした。


 私はその下へ、もう一行だけ小さく書いた。


 綺麗じゃないから、読まれる。


 そこまで書いてから、さすがに少しだけ笑った。

 断言しすぎだ。

 でも、今夜はそのくらい思い切った言い方のほうがいい。


 ホテルの夜の見栄も、

 若い受賞者への焦りも、

 売れていない同業への優越感も、

 全部、隠さずに持っている主人公。


 読者が求めるのは、きっと“立派な人”ではない。

 少なくとも今の私が読ませたいのは、そういう人ではなかった。


 私はノートを閉じ、パソコンの画面へ戻った。

 この企画はまだ荒い。

 でも、たぶんもう、以前の“悪くないけど弱い”ところへは戻らない。


 そのことだけは、今夜かなり確かだった。

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