第55話 真由美は、まだ何も知らないふりがうまい
翌朝、目覚ましが鳴った瞬間に、私は昨夜の自分を少しだけ恨んだ。
やはり、やりすぎたのだと思う。
徹夜したわけではない。時計を見た記憶では、零時半を少し過ぎたくらいでパソコンは閉じた。四十七歳の兼業作家としては、まだ“常識の範囲内”に収まっている夜更かしと言えなくもない。
だが問題は時間ではない。
削れ方だ。
昨日の会社でかなり削られたあとで、さらに夜、自分へ近すぎる企画へ潜った。
そのせいで、体力より先に、内側のやわらかいところが少し擦り切れている感じがある。
私は布団の中で一度だけ深く息を吐き、天井を見た。
これ、ほとんど俺じゃないか。
昨夜打ったその一文が、まだ頭の中に残っている。
寝て起きたら少しは引けるかと思ったが、むしろ朝のほうが生々しい。
ほとんど俺だ。
それを認めた上でまだ書くのか。
その問いが、起き抜けの頭にも鈍く残っていた。
「起きないの」
寝室のドアの向こうから、真由美の声がする。
いつもの朝の声だ。叱るでもなく、急かすでもなく、でも“そろそろ現実へ戻ってきなさい”という温度をちゃんと含んでいる。
「起きる」
私はそう返し、ようやくベッドから身体を起こした。
◇
洗面所で顔を洗う。
鏡の中の自分は、昨日より少しましで、でもやはり少し疲れている。
会社に行けないほどではない。
ただ、今日はたぶん“悪い疲れ”と“別の熱”がかなり混ざっている顔だろうと思った。
本城ならたぶん見抜くだろう。
そう思うと少しだけ面倒だが、今さらどうしようもない。
ダイニングへ行くと、トーストの匂いがした。
真由美はコーヒーを注いでいて、結衣はスマホを伏せたまま牛乳を飲んでいる。ごく普通の朝の風景だ。ホテルの夜も、新企画の生々しさも、この食卓とは本来つながっていないように見える。
だが、私の中ではちゃんとつながっている。
「顔、まだちょっと危ないね」
真由美が言った。
私は苦笑する。
「最近、ほんとに顔ばっかり見てるな」
「だって分かりやすいんだもん」
結衣がパンを齧りながら言う。
「昨日よりはマシだけど、まだ“考えすぎた人”の顔してる」
私はトーストへバターを塗りながら、その言い方を少しだけ頭の中へ留めた。
考えすぎた人の顔。
いかにも使えそうだ。
そして、使えそうだと思ってしまう自分が、すでにかなり創作へ引っ張られている証拠でもある。
「昨日、書いたんでしょ」
真由美がコーヒーカップを置きながら言う。
私はその一言で、少しだけ手を止めた。
「……まあ」
「かなり?」
「かなり、というほどでもない」
「量じゃなくて、そっちじゃないでしょ」
彼女はそう言って、私の向かいへ座った。
目線はやわらかい。
だが、見ているところはやわらかくない。
「今の話、少し危ないところまで行ってるんじゃない?」
その言葉は、思っていたより静かに刺さった。
危ないところ。
高梨にも似たことを言われた。
近すぎる、傷つくタイプの企画だと。
そして今、真由美も、作品の中身を知らないまま似たところを見ている。
私はトーストを皿へ戻した。
「なんでそう思うんだよ」
「ここ数日の顔と、喋り方と、夜の静かさ」
「夜の静かさ?」
「書けない時のあなたって、もう少し苛立ってるのよ」
私はそこで少し黙った。
真由美は続ける。
「でも今は、苛立ってるんじゃなくて、少し深いところに入ってる時の顔してる」
私は苦笑した。
「そんなに分かるか」
「長いからね」
たったそれだけの返事なのに、妙に納得してしまう。
長いから。
たぶん本当に、それだけなのだろう。
結婚して、会社員の顔も、作家として機嫌がいい時も悪い時も、シリーズが動いている時も、次が決まらずに沈んでいる時も、真由美はだいたい全部を横で見てきた。
だから、説明していない種類の疲れ方まで、なんとなく見分けるのだ。
会社の本城は、仕事の動き方で私の疲れ方を見る。
家の真由美は、生活の静かさでそれを見る。
どちらも少しずつ違って、どちらも正しい。
私はそのことに、少しだけくらくらした。
◇
「危ないっていうのは」
私はコーヒーを一口飲んでから、言葉を探した。
「たぶん、近いんだよ」
「現実に?」
「うん。自分に、というか」
真由美はすぐには何も言わなかった。
ただ、私が続きを言うのを待っている顔だ。
「前の企画って、もう少し安全に作ってたんだと思う」
私はぽつりぽつりと話した。
「読めるように、説明できるように、営業会議で扱いやすいように。そういうのを先に考えすぎてた」
「うん」
「今のは、そこをちょっと後ろへ下げてる。だから、前より書ける」
「でも、近い」
「そう」
私はうなずいた。
「近いから、書ける。で、近いから、ちょっと削られる」
真由美はそれを聞いて、小さく息を吐いた。
ため息ではない。整理するための呼吸みたいなものだった。
「じゃあ、いいところまで行ってるんじゃない」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
彼女は首を振る。
「危ないって、自分でも分かるくらい近いんでしょ。でも、前より書けるなら、たぶん今まで避けてたところに入れたってことでしょ」
私はその言い方に、少しだけ言い返せなくなった。
たしかにそうだ。
問題は危ないことそのものではなく、それがただの生傷なのか、物語の熱になっているのかだった。
高梨も似たようなことを言っていた。
真由美は、そこまで業界の言葉では考えていない。
でも、生活の側から見ても、やはり同じところへ来るらしい。
「ただ」
彼女はそこで少しだけ声をやわらげた。
「今のあなたは、ちょっといい顔してる」
私は思わず目を上げた。
いい顔。
それは昨日もどこかで聞いた気がする。
いや、正確にはまだ聞いていない。第55話の引きとしてプロットにあった言葉だが、今ここで自然に入る。 Good.
「それ、疲れてる顔って意味じゃなくて?」
「違うよ」
真由美は少し笑った。
「ちゃんとしんどそうなんだけど、前より少しだけ、行く先がある顔」
その言い方は、かなり好きだと思った。
行く先がある顔。
ホテルの夜のあと、
会社で削られて、
夜にえぐられて、
それでもなお次の企画へ戻っている。
そういう顔なのかもしれない。
私はコーヒーを置き、しばらく何も言わなかった。
真由美はそれ以上追及しない。
中身は聞かない。
どこまで近いのかも、誰を混ぜているのかも、どれくらい危ないのかも、聞こうとしない。
ただ、“今のあなたはちょっといい顔してる”とだけ言う。
その距離感が、ありがたかった。
そして少しだけ追い詰められる感じもした。
いい顔をしているなら、もう引き返せない気がするからだ。
◇
結衣が席を立ち、自分の部屋へ戻っていったあと、食卓にはしばらく私と真由美だけが残った。
「担当さんは何て言ってるの」
彼女が聞く。
「面白いとは言ってる」
「じゃあ、ちゃんと進んでるんだ」
「ただ、近すぎるとも言ってる」
「そりゃそうでしょ」
「だから簡単に言うなって」
私が言うと、真由美は肩をすくめた。
「だって、近いから面白いんでしょ」
その一言で、私はまた少し言葉を失う。
近いから面白い。
高梨の言い方をもっと生活側へ寄せると、たぶんそういうことなのだろう。
私は会社へ行く準備をしながら、頭の中でその言葉を反芻した。
近いから面白い。
ただし、近いだけでは駄目で、そこに“続きが読みたい”が生まれなければならない。
いまの私は、その境目にいる。
◇
通勤電車の中で、私はスマホのメモ帳を開いた。
立ったままでも打てる程度の短い文章だけを残す。
『妻は、作品の中身を知らない。
でも、今の顔が“ただ疲れている人の顔”ではないことは見抜く。
それは理解ではなく、生活の長さだ。
長く一緒にいる人間は、説明される前の変化を見てしまう。』
そこまで打ってから、少しだけ考え、さらに一行足した。
『今のあなたはちょっといい顔してる。
その言葉は、褒め言葉であり、逃げ道を塞ぐ言葉でもある。』
私はそれを見て、小さく息を吐いた。
いい。
かなりいい。
ホテルの夜で見た華やかさや序列とは別の、もっと生活に根ざした圧がここにある。
家族は創作の内容を知らない。
でも、創作がその人の顔をどう変えているかは、案外よく見ている。
この“知らないのに見抜かれる”感じも、新企画には必要だ。
職場の本城とはまた少し違う。
でも同じくらい、主人公を逃がさない現実の圧だ。
私は電車の揺れの中で、少しずつ分かってきていた。
この章で必要なのは、派手な事件ではない。
ホテルの夜のあと、会社と家庭の両方から“今のあなたは少し違う”と言われ続けること。
その積み重ねで、主人公がもう自分の熱を誤魔化せなくなっていくこと。
投稿サイトで読まれるなら、たぶんそこが効く。
毎話少しずつ、自分の逃げ道が減っていく感じ。
そして、読者だけが“もう引き返せない”ことを先に知っている感じ。
◇
会社に着き、席へ座る頃には、私はもう一つだけはっきりしていた。
この企画は危ない。
でも、その危なさはもう避けるものではなく、進む方向なのだろう。
真由美の「いい顔してる」は、優しい。
だが同時に、かなり残酷でもある。
だってそれは、今の私が“ちゃんと行く先のある顔”をしてしまっているという意味だからだ。
行く先があるなら、もう止まれない。
私はノートパソコンを開き、仕事用のメール画面を立ち上げた。
営業部からの差し戻しがもう届いている。
今日も普通に削られる一日なのだろう。
それでも、今朝は少しだけ違った。
昨夜までの近さと痛さに、真由美の一言が“行く先”という名前を与えてしまったからだ。
私はメールを開く前に、一度だけ小さく息を吸った。
そして、頭の中で思う。
近い。
痛い。
でも、たぶん行ける。
そう思ってしまった時点で、もうかなり深く入っているのだろう。




