第54話 会社で消耗し、夜にえぐられる
月曜日の朝から、嫌な予感はあった。
嫌な予感というのは、たいてい具体的な根拠があるわけではない。だが、会社員を長くやっていると、フロアへ入った瞬間の空気の硬さとか、榎本のキーボードを叩く速さとか、三浦の椅子の座り方とか、そういう細部で「今日は削られる日だな」と分かることがある。
その日が、まさにそうだった。
営業管理課の島は、始業前から少しだけ張っていた。
榎本は朝一で営業部から戻ってきた見込み表を見て、まだパソコンも立ち上がりきらないうちから眉間に皺を寄せていた。三浦は受信トレイを開いたまま、画面の前で一度だけ深く息を吐いている。本城は相変わらず静かだが、手元の一覧の差し替え速度がいつもより少し早い。
私は席へ座るなり、まだ温かいままのノートパソコンを開いて社内チャットを確認した。
嫌な予感は、やはりすぐ形になった。
月内の見込み修正が想定より大きい。
先方の返答待ち案件が二つ滞留。
部長から午前中に追加の資料要求。
営業部は例によって前向きな数字を残したがっている。
午後には急遽の短い会議が一本増えるらしい。
私は画面を見ながら、小さく息を吐いた。
まだ始業五分前だというのに、もうだいぶ面倒くさい。
「係長」
榎本が自席から言う。
「これ、今日かなり面倒です」
「見ればわかる」
「営業がまた夢見てます」
「夢は個人の自由だけど、表に書くなって毎回言ってるだろ」
榎本が苦笑する。
「ほんとに毎回ですね」
「毎回だから毎回言うんだよ」
私はそう返しながらも、頭の片隅で別のことも考えていた。
昨夜、高梨から返ってきた言葉。
近いから悪い、ではない。
生傷に見えるか、魅力に変わっているか。
その整理はかなり大きかった。
だからこそ、本当は今日、もう一歩だけ新企画を進めたかった。
本城の気配を借りたあの女の場面を、もう少しだけ深く掘るつもりだった。
でも朝の時点で、今日はそういう日に向いていないことがもう分かる。
会社で削られる日だ。
そして、会社で強く削られた日の夜に、自分へ近すぎる企画へ向かうのは、たいていろくなことにならない。
それも分かっている。
分かっているのに、止まれる気があまりしなかった。
◇
午前の会議は、案の定長引いた。
営業部の課長は「この案件、もう少し強く見ていいと思うんですよね」と何度も言い、本多部長は「いや、返答が見えない以上、そこは慎重に」と押し返す。私はその間で、言い方と数字のどちらにも少しずつブレーキをかける役目だった。
「“好感触”はまだ早いと思います」
私は資料を見ながら言った。
「せめて“反応あり”くらいで止めたほうがいいかと」
営業部の課長が不満そうに眉を動かす。
「でも、先方の空気は悪くなかったですよ」
「悪くない、は前進ですけど、好感触、まで行くと期待値が上がります」
「いつも慎重ですねえ」
「慎重なのは、後で面倒になるのが見えるからです」
その言い方に、自分でも少しだけ引っかかった。
最近の私は、仕事の言葉がそのまま新企画の主人公の声へ流れ込んでいく頻度が高い。
後で面倒になるのが見えるから。
いかにも今の主人公が言いそうだった。
だが会議中の私は、当然それをメモする余裕などない。
今日は余白が少なすぎる。
部長が次の資料を要求し、営業部が数字を守ろうとし、私はまたその中間へ立つ。
同じことの繰り返しだ。
同じことの繰り返しなのに、毎回少しずつ消耗する。
若い頃は、こういう会議のあとでも夜に創作へ向かう体力が残っていた気がする。
いまは違う。
午後二時を回る頃には、もう肩の奥がじわじわ重い。
それでも、その重さの中でふと思ってしまう。
この疲れ方ごと書けたら、あの主人公はもっと本物になるのではないか、と。
それが厄介なのだ。
創作が本気で動き始めると、人は消耗そのものまで材料に見えてしまう。
◇
昼休み、私は食堂へ行かず、自席でカロリーメイトを齧っていた。
本当は外へ出て少しでも頭を切り替えたかった。
だが、午後一番で必要な資料の修正があるし、部長から追加で見たい数字が来るのも分かっていた。こういう日は、昼休みすらちゃんと休みにならない。
「係長、それで昼ですか」
三浦がコンビニのパスタを持ちながら言う。
「今日はこれでいい」
「それ、絶対夕方に顔へ出ますよ」
「最近みんな顔ばっかり言うな」
「分かりやすいんで」
本城が自席で味噌汁の蓋を開けながら、何でもない声で言った。
「今日はかなり、悪いほうです」
私は思わず本城のほうを見た。
彼女は私と目を合わせないまま、おにぎりのフィルムを静かに剥がしている。
悪いほう。
そういう言い方をするのか。
昨日は“悪い疲れじゃない”と言った。
今日は“かなり、悪いほう”。
この人は本当に、疲れ方に名前をつける。
「そんなにか」
私が言うと、本城はようやく少しだけ視線を上げた。
「メール開く前に二回止まりました」
私は思わず笑いかけて、それがほとんど笑えないくらい疲れていることにも気づいた。
「回数まで見てるのか」
「今日はかなり分かりやすいです」
「それ、うれしくないな」
「でしょうね」
そう言って本城は味噌汁を啜る。
そのやり取りはごく短いのに、妙に残る。
分かりやすい。
悪いほう。
二回止まった。
私はその言葉を頭の中で転がしながら、カロリーメイトの残りを口へ入れた。
味がしない。
いや、正確にはするのだが、疲れている時の昼食はだいたいそういう感じだ。
今日はかなり、悪いほう。
その言い方を、今夜きっと私は使うだろう。
使いたい。
使いたいと思ってしまう。
それがもう、創作へかなり引っ張られている証拠だった。
◇
午後はさらに面倒だった。
営業部が数字を再度差し戻してきて、部長は“この表現だと強すぎる”と細かく止め、三浦は先方からの返信に余計な含みを読み取りすぎて空回りしそうになり、榎本は「だから最初からこう言ったのに」という顔をしながら黙って数字を戻す。
私はその全部へ返事をし、修正を入れ、会議の時間をずらし、説明の順番を整え続けた。
夕方近くには、頭の芯が平たくなる感じがした。
言葉はまだ出る。
判断もできる。
でも、“何かを生み出す”側の柔らかい部分が、もうかなり擦り減っている。
普通なら、こういう日は夜に無理して創作をしないほうがいい。
それは経験的に分かっている。
仕事で削られた日ほど、夜の原稿は防御的になる。
安全な言い回しへ逃げるか、
逆に、自分に近い部分をえぐりすぎて変に暗くなるか、
そのどちらかだ。
だから本当は、今日は現行シリーズの軽い直しだけにして、新企画は閉じておくのが賢いやり方なのだろう。
でも、賢いやり方ばかりしていて今の企画群は死にかけていた。
それもまた、この数週間で思い知ったばかりだった。
私は残業を終えて会社を出る頃には、もうかなり消耗していた。
駅までの道でスマホを開く気力もない。
電車の中では立ったままぼんやりと窓に映る自分を見た。
顔はたしかに悪い。
本城が“かなり、悪いほう”と言ったのも無理はない。
だが、その疲れた顔を見ながら、私はどこかで思っていた。
今夜はたぶん、書かなきゃ駄目だ。
書きたい、ではなく、書かなきゃ駄目だ、という感じ。
あまり健全ではない。
でも、そういう夜がある。
◇
帰宅して、夕食を食べている時も、私はずっと少し上の空だった。
「今日きつかった?」
真由美が聞く。
「きつかった」
「顔がもう仕事に殴られてるもん」
私は少し笑った。
「表現が雑だな」
「でもそうでしょ」
そうかもしれなかった。
結衣はスマホから顔も上げずに言う。
「そういう日って、書くのやめたほうがいいんじゃないの」
私は箸を持つ手を少しだけ止めた。
「なんでそう思うんだよ」
「だって、しんどい時って変な方向に行きそうじゃん」
妙に正しい。
家族というのは時々、こちらが言葉にする前のことを雑な精度で言い当てる。
「まあ、そういう時もある」
「今日はそういう日っぽい」
私は返せなかった。
そういう日っぽい。
その通りだと思ったからだ。
だが同時に、そういう日だからこそ書けるものもある気がしていた。
ホテルの夜の見栄や惨めさではなく、今日はもっと平たい、会社員として消耗したあとの鈍い疲れ。
その疲れの上にしか乗らない言葉が、たぶんある。
それを今夜逃したくなかった。
◇
風呂を済ませ、書斎へ入った時には、もう十一時半を回っていた。
遅い。
眠い。
肩も重い。
頭の回転も、万全からはほど遠い。
それでも私は、『再構成_危ない案』を開いた。
画面には、ここ数日で書き足した十数ページ分の本文がある。
ホテルの夜。
朝の電車。
仕事の言葉。
疲れ方を見抜く女。
そのどれもが、かなり生っぽく、かなり危うい。
私はカーソルを置いたまま、しばらく動けなかった。
今日はもうやめたほうがいいのではないか。
その声はかなり正しかった。
明日の仕事もある。
無理をすれば朝の自分に返ってくる。
でも、もう一つ別の声もある。
今日のこの削れ方ごと入れないと、
この主人公はまだ本物になりきらないのではないか。
私はメモ帳を開いた。
『今日はかなり、悪いほう。』
まず、その一行を打つ。
続ける。
『頭が平たくなっている。
メールの前で二回止まる。
言葉はまだ出る。でも、柔らかいところはもうだいぶ削れている。』
そこまで書いた時、私はぞくりとした。
これはかなり自分に近い。
近い、どころではない。
ほとんど今日の私だ。
高梨の言葉が頭をよぎる。
先生ご自身がかなり傷つくタイプの企画ですよね。
その通りだ。
これは、書いていてちゃんとえぐられる。
見栄や憧れだけではない。
会社員として平日に削られる感じまで、かなりそのまま掘り返している。
それでも、今日は止まれなかった。
私はそのまま本文へ移り、主人公が会社で一日じわじわ削られ、夜の机の前で“今日は書くべきじゃない”と分かっていながら、なお原稿を開いてしまう場面を書き足した。
書けば書くほど、自分へ近づいていく。
いや、近づくというより、もうほとんど重なっている。
主人公が画面を見て思う。
これ、ほとんど俺じゃないか。
私はその一文を打った瞬間、背中にもたれて目を閉じた。
かなり危ない。
かなり、いい。
そしてかなり、しんどい。
これまでの私は、たぶんこういうところで逃げていた。
距離を置いた。
キャラクターを少し綺麗にした。
自分の削れ方をもう少し整えて、“読めるが弱い”ほうへ戻していた。
でも今夜は違う。
違ってしまった。
私は目を開け、もう一度その一文を見た。
これ、ほとんど俺じゃないか。
たぶん、この怖さの先にしか、今の企画の強さはないのだろう。




