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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第52話 現実を混ぜると、企画は急に息をし始める

翌日の朝、私は通勤電車の中で昨夜の文章を読み返していた。


 職場でいちばん怖いのは、正体を知る人間じゃない。

 正体は知らないくせに、自分の疲れ方だけを見抜いてくる人間だ。


 我ながら、少し刺さりすぎていると思う。

 でも、刺さりすぎているくらいで、やっと今の企画にはちょうどいいのかもしれなかった。


 若い頃の私は、現実から少し離れた設定へ逃げることで書ける部分もあった。

 現実に近すぎるものは生々しすぎて、かえって扱えなかった。

 だが四十七歳にもなると、逆らしい。現実から少し離した途端に、会話の温度も人物の呼吸も薄くなる。むしろ危ないのは、現実が近すぎる時のほうではなく、現実をうまく避けすぎた時のほうなのだ。


 ホテルの夜の見栄も、

 若い受賞者への焦りも、

 本城の「悪い疲れじゃないですね」も、

 全部、現実のままだと少し危ない。


 でも、その危なさを薄めてしまうと、今度はこの企画の心臓が止まる。


 私は画面を閉じ、スマホを胸ポケットへ戻した。


 今日も会社へ行く。

 営業部の見込みは相変わらず強気で、三浦は文面に悩み、榎本は現実的な線へ戻そうとするだろう。本城は静かな顔で一覧を揃え、そのついでみたいに、たぶん私の疲れ方まで見ている。


 その日常を、今夜はもう少しだけ大胆に混ぜてみようと思っていた。


     ◇


 始業前、営業管理課の島にはいつもの空気が流れていた。


 榎本がすでに数字を見ていて、三浦は受信メールを開いたまま顎へ手を当てている。本城は会議用の一覧の見出しを整えていて、部長はまだ来ていない。


「おはようございます」


 本城の声。

 私はいつも通り「おはよう」と返した。


 それ以上は何もない。

 昨日の“今日は後者だよ”も、“何か、書けそうなんですか”も、表面上は何も引きずっていない。


 その距離感が、やはり少しだけうまい。


 会社というのは、知っていても知らないふりをする技術で持っているところがある。

 本城はたぶん、その技術を生まれつきの気質として持っているタイプなのだろう。


 私はパソコンを立ち上げ、朝のメールを順に開いた。


 案の定、営業部はまた少し夢を見ている。

 先方の返答はまだ曖昧なのに、見込み表だけが先に前のめりだ。

 三浦の下書きは、相変わらず誠実すぎて少し危うい。

 榎本はその間で、数字を現実へ寄せようとしている。


 私は仕事を片づけながら、頭のどこかで新企画の人物配置を考えていた。


 主人公はもうかなり固まっている。

 問題は、“職場で自分を見抜いてくる女”の立ち位置だ。


 恋愛へ寄せすぎると違う。

 露骨な秘密共有の関係にしても違う。

 必要なのは、もっと薄いのに、なぜか逃げ場のない距離感。


 上司と部下。

 毎日顔を合わせる。

 仕事の癖も疲れ方も分かる。

 でも、決定的なことは言わないし、言えない。


 その関係を書くには、もう少しだけ現実を混ぜたほうがいい。

 私はそれを、今日の昼までに自分へ許可しようと思っていた。


     ◇


 午前の会議前、本城が一覧を持ってきた。


「この順番で大丈夫だと思います」


 私は受け取り、ざっと目を通す。

 見出しの並びも、数字の流れも、前提条件から結果へ向かう順番もきれいだ。仕事としては本当に助かる。


「いいと思う」


 私が言うと、本城は小さくうなずいた。

「よかったです」


 その“よかったです”が、昨夜の原稿の中でかなり生きていた。

 嬉しいです、ではなく、よかったです。

 自分の働きが役に立った時に、感情を前へ出しすぎない人の言い方。


 私はその時、かなり危ういことを考えていた。


 この人の気配を、もう少しだけそのまま企画へ入れたい。

 声の大きさではなく、

 言葉の引き方でもなく、

 “仕事の空気のまま人の内側へ半歩だけ触れてくる感じ”を、そのまま。


 それは創作としては正しい。

 でも現実の人間を使いすぎるのは危うい。


 私はその危うさを感じながらも、止まれなかった。


「係長」


 本城が、資料を持ったまま少しだけ言葉を探す顔をした。


「はい?」


「昨日の午後より、今日のほうがたぶん進んでますよね」


 私はそこで、わずかに笑った。

 進んでますよね。

 彼女はやはり、具体的な名前をつけない。

 書くとも、創作とも、企画とも言わない。

 でも“何かが進んでいる”ことは見ている。


「何が」


 私は一応そう返した。


 本城は、ほんの少しだけ口元をやわらげる。

「そこまで言わなくてもいいです」


 私はその返事に、少しだけやられたと思った。


 見抜いている。

 でも、踏み込まない。

 そして、こちらがとぼける余地も残す。


 ずるいくらい、ちょうどいい距離だ。


「……たぶん、少しだけな」


 私は小さくそう答えた。

 本城はまた小さくうなずいた。

「それならよかったです」


 やはりその言い方だ。


 私は彼女が席へ戻ったあと、自分のメモ帳へ、かなり速い字で一行だけ書いた。


『そこまで言わなくてもいいです。』


 これだ、と私は思った。

 この一言だけで、その女の立ち位置が決まる気がした。


 知っている。

 でも、相手の口から言わせるほど野暮ではない。

 そして、その野暮でなさが逆に逃げ場をなくす。


 現実を混ぜると、企画は急に息をし始める。

 まさにこういうことなのだろう。


     ◇


 昼休み、私は珍しく一人で近くのコンビニへ行った。


 気分転換もあったが、本当は数分でもいいから一人でメモを見返したかったのだ。社内の共有スペースでは、本城や三浦や榎本の気配が近すぎる。


 コンビニでサンドイッチと缶コーヒーを買い、ビル裏の小さなベンチへ座る。

 人通りはあるが、職場の目線ほど近くはない。


 私はスマホを開き、昨夜の原稿と今朝のメモを並べて見た。


『正体は知らないくせに、自分の疲れ方だけを見抜いてくる人間だ。』

『そこまで言わなくてもいいです。』


 ぞくり、と少しだけした。

 これはかなり近い。

 近すぎる。


 だが、その近さのせいで、会話が急に生きている。

 今までの企画案では、人物を立たせようとして設定を足しすぎていたのかもしれない。癖、口調、背景、役割。そういうものをあらかじめ用意して、そこへ血を通わせようとしていた。


 でも本当は逆なのだ。

 まず、目の前の現実の人間の“距離感”だけを拾う。

 言葉の温度、

 踏み込み方、

 引き方、

 目の合わせ方、

 そういうものが先にあって、設定はあとからついてくる。


 私はベンチの上で缶コーヒーを一口飲み、それからメモ帳へ新しく書いた。


『現実の人間をそのまま写すのではない。

 その人間との距離感だけを盗む。

 距離感が本物なら、人物はあとから勝手に呼吸を始める。』


 そこまで打って、ようやく少しだけ落ち着いた。


 そうだ。

 私は本城という人間をそのまま書きたいわけではない。

 私がいま欲しいのは、**“職場で自分の変化に気づいてくる人間との距離感”**なのだ。

 その距離だけが本物なら、人物は別人として立ち上がる。


 そう思えた瞬間、怖さが少しだけ減った。


     ◇


 午後の仕事は忙しかった。


 部長から急ぎの確認が二本、

 営業部から見込み修正の押し返しが一件、

 三浦の文面差し戻し、

 榎本の数字再整理。

 いつも通りと言えばいつも通りだが、今日は頭の中が二重に動いているせいで少し疲れた。


 それでも、私は仕事をしながら何度も思った。


 この疲れ方ごと企画へ入れればいいのだ、と。


 ホテルの夜で得た見栄や惨めさだけでは足りない。

 それを翌朝の電車へ持ち込み、昼の会議へ持ち込み、午後の差し戻しに削られながらもまだ頭のどこかで別の話が進んでいる感じまで含めて、ようやく今の主人公になる。


 それはかなり投稿サイト向きだろうとも思った。

 派手な事件は起きない。

 でも、読者は“この男、今日も削られてるな”“でも何か少し進んでるな”を毎話見たくなるはずだ。

 ホテルの夜から会社の昼へ、

 憧れから現実へ、

 それでも少しだけ次へ向かっている感じ。


 その細い推進力が、今のこの物語の武器なのだろう。


     ◇


 夜、書斎へ入ると、私は迷わず新企画を開いた。


 今日は本文へ入る前に、人物メモを少しだけ更新する。


 女・仮名:未定

 職場の同僚。

 主人公が何者かは知らない。

 だが、疲れ方の種類だけは見分ける。

 踏み込まない。

 でも、気づいていないふりもしない。

 「そこまで言わなくてもいいです」と言える距離。

 怖いのは秘密を知っていることではなく、秘密の輪郭だけをなぞれること。


 私はそこまで書いてから、本文へ戻った。


 会話を一つ足す。

 主人公が自分でも隠しきれない“少し違う日”を、同僚の女が見抜く場面。


 男はとぼける。

 女は追及しない。

 でも、その追及しなさがかえって逃げ場をなくす。


 いい。

 かなりいい。


 私は数段落を書き進めた。

 すると、本当に驚くくらい自然に、次の台詞、その次の間、その次の視線まで出てくる。


 現実を混ぜると、企画は急に息をし始める。


 それはもう仮説ではなく、今夜は実感だった。


 私は書き終えた部分を読み返し、背もたれへ深くもたれた。


 前の企画群との違いがはっきり分かる。

 悪くない、ではない。

 弱くもない。

 ちゃんと危うくて、ちゃんと続きを見たい。


 私は小さく息を吐いて、メモ帳へ最後に一行だけ残した。


『これは前より明らかに違う。

 そのぶん、書くのは怖い。

 でも、怖いほうがたぶん当たりだ。』

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