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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第51話 その質問は、職場では少し近すぎる

 本城の「何か、書けそうなんですか」は、その日の午後じゅう、妙に頭の奥へ残っていた。


 別に、決定的な言葉ではない。

 会社で上司の機嫌がよさそうな日、あるいは表情が少し軽い日に、「何かいいことでもあったんですか」と聞くくらいの距離感なら、そこまで珍しくもないのかもしれない。


 けれど、本城のあの聞き方は少し違った。


 書けそうなんですか。


 仕事がうまくいきそうですか、ではない。

 今日の会議、いけそうですか、でもない。

 書けそうなんですか。


 その一語だけが、私の中の“会社員”ではなく“夜のほう”へまっすぐ触れてきた。


 昼休みが終わっても、会議が一本終わっても、営業部から強気の見込みが戻ってきても、その違和感は薄れなかった。


 私は午後一番の資料確認をしながら、自分に言い聞かせていた。

 考えすぎだ、と。

 本城はただ、私の機嫌の良さか、疲れ方の違いを見て、言葉を選びそこねただけかもしれない。

 最近の私が少し顔に出やすくなっているのは、家でも指摘されていることだ。

 だったら、本城が同じように変化へ気づいても不思議ではない。


 問題は、その変化を彼女がどんな名前で認識しているかだ。


 私はそこが分からない。


     ◇


「係長、ここ確認お願いします」


 榎本が営業部から戻ってきた数字を持ってくる。

 私は画面へ向き直った。


「どれ」


「この案件。先方の返答が曖昧なんで、営業がまたちょっと夢見てます」


「夢見るのは自由だけど、見込み表に書くと現実のふりをし始めるからな」


 榎本が苦笑する。

「その言い方、今日なんか切れ味ありますね」


「そうか?」


「あります」


 私は資料を見ながら、少しだけ胸の奥で苦笑した。

 今日の自分が少し違うことは、どうやら職場の人間にはわりと分かりやすいらしい。


 ホテルの夜が、まだどこか残っている。

 朝の電車で拾った新企画の一文も、会議の言葉も、本城の問いも、全部が頭の中で少し熱を持ったままだ。

 それは疲れとは違う。

 でも、仕事の顔から完全に切り離せるほど軽くもない。


「ここは上げないほうがいい」


 私は榎本へ言った。

「先方が曖昧な時に、こっちだけ確信した顔をするのは危ない」


「了解です」


「営業には“現時点では判断保留”で返して」


「わかりました」


 榎本が去っていく。

 私はその背中を見送りながら、ふと今の自分の言い方が新企画の主人公にかなり近づいていることに気づく。


 先方が曖昧な時に、こっちだけ確信した顔をするのは危ない。


 それは仕事の話としてもその通りだが、人間関係にもそのまま通じる気がした。

 本城の問いに対して、私が今できるのも、たぶんそこまでだ。

 相手が何をどこまで知っているのか曖昧な時に、こちらだけ確信した顔で動くのは危ない。


 だが、その“危ない”が、妙に新企画の血になる。

 私は机の端のメモ欄へ、ごく小さくその一文を書いた。


     ◇


 午後三時前、三浦がまた文面を持ってきた。


「係長、先方返信これでどうですか」


 私はモニターをのぞき込む。

 文面はだいぶよくなっていた。だが最後の一文だけがまだ少し熱い。


「ここ、“できるだけ早くご期待に添えるよう”は削ろう」


「やっぱそこですか」


「相手の期待を勝手に育てる言い方になる」


「育てるって、なんか怖いな」


「怖いんだよ。仕事で変な期待が育つとろくなことない」


 三浦は笑いながら修正に戻った。


 私はそこで、自分の言葉に一瞬だけ引っかかった。


 期待を育てる。


 その表現は、今の私の中で二つの意味を持っていた。


 一つは、仕事の上での期待。

 先方の期待値、営業の期待、部長の見込み、そういうもの。


 もう一つは、本城との距離だ。


 本城は何を知っているのか。

 どこまで察しているのか。

 私の“夜のほう”にどこまで気づいているのか。


 そこが曖昧なまま、私が変に答えたり、余計な反応を見せたりすれば、相手の中で何かを育ててしまう可能性がある。

 それはたぶん、職場ではよくない。


 だが同時に、そういう緊張感があるからこそ、私の新企画の中の“正体を知っているのに言わない女”の輪郭が、急に濃くなってきていた。


 ホテルの夜で見た見栄や惨めさとはまた別の意味で、これは危うい。

 現実が近すぎる。

 でも、近すぎるからこそ会話が立ち上がる。


 私はそのことに、自分でも少しだけ怯えていた。


     ◇


 午後の会議を終えて席へ戻ると、本城が一覧を抱えて立っていた。


「午後版、差し替えておきました」


「ありがとう」


 私は受け取った。

 紙の並びはいつも通りきれいで、見出しも順番も無駄がない。

 仕事の上では、こういう“整える力”を持った人間は本当に助かる。


「係長」


 本城が、紙の束を持ったまま言う。


「さっきの件ですけど」


 私は一瞬だけ呼吸を浅くした。

「さっきの件?」


「書けそうなんですか、って聞いたの」


 彼女はそこまで言ってから、ごく小さく目を伏せた。


「ちょっと、変な聞き方でしたよね」


 私はその反応に、思っていなかった方向から少しだけ救われた。


 つまり、本城自身もあの一言が少し職場の会話からはみ出していたと分かっているのだ。

 分かっていて、いまこうして少しだけ引き取ろうとしている。


「いや」


 私はできるだけ穏やかに言った。

「変というほどでもないよ」


「でも、仕事の話じゃない聞き方だったので」


「……まあ、そうだな」


 本城は小さくうなずいた。

 それから、紙の端を親指で揃えながら続ける。


「最近、係長、仕事で削れてる時と、別のことで頭が動いてる時の違いが分かるので」


 私はそこでまた少しだけ黙った。


 違いが分かる。

 この人はそう言う。


 見ている。

 かなり見ている。

 でも、それ以上は踏み込まない。


 その距離感が、やはりぎりぎりだった。


「そう見えるなら」


 私は少し考えてから答えた。

「今日は、後者だよ」


 後者。

 別のことで頭が動いている時。

 それ以上は言わない。

 でも、完全な否定もしない。


 本城はその答えを聞いて、ほんの少しだけ表情をやわらげた。


「じゃあ、よかったです」


「よかった、のか?」


「悪い疲れの時よりは」


 私は小さく笑った。

「そういう基準なんだな」


「そういう基準です」


 彼女はそれだけ言って、自分の席へ戻っていった。


 私はしばらく、その後ろ姿を見ていた。


 そこに恋愛めいたものがあるわけではない。

 少なくとも今は、そういう単純な話ではない。


 ただ、この人は、私の“仕事ではない熱”の気配にすでにかなり近いところまで来ている。

 しかも、無遠慮に踏み込まず、けれど気づいていることを隠しもしない。


 その感じが、新企画の人物にそっくりだった。

 いや、逆か。

 新企画の人物を、私は本城の気配で書き始めてしまっているのだ。


 それが危ない。


 でも、たぶん、その危なさがないと今の企画は死ぬ。


     ◇


 定時を少し過ぎた頃には、私はもうかなり疲れていた。


 体力的にはいつもの平日と大差ない。

 だが今日は、頭のどこかがずっと二重に動いていた。係長として仕事の温度を調整しながら、書き手としてその温度差を拾い続けていたからだろう。


 帰り際、榎本が「お先です」と言い、三浦が「明日の朝イチ、先方返してきそうですね」とぼやき、本城は最後の一覧を共有フォルダへ上げていた。


「お先に」


 私が言うと、本城が顔を上げた。

「お疲れさまでした」


 そのやり取りは、見た目にはごく普通の終業時の会話だ。

 でも私の中では、昼の「今日は後者だよ」がまだ少し残っている。


 彼女はそこまでしか聞かなかった。

 それがありがたい。

 そして同時に、少しだけ怖い。


 職場では、知らないふりをすることが礼儀になる場面がある。

 本城はたぶん、その礼儀をかなり自然にできる人なのだろう。


 だからこそ、こちらが勝手に意味を足してしまう余地も大きい。


     ◇


 帰宅して、夕食を済ませ、風呂に入ったあと、私は書斎へ入った。


 今日は現行シリーズの原稿ではなく、迷わず『再構成_危ない案』を開いた。

 開いた瞬間に、もう分かる。

 今夜は書ける。


 ホテルの夜。

 朝の電車。

 会議室の言葉。

 本城の問い。


 その全部が、今日はかなり濃い温度で繋がっている。


 私は椅子へ座り、まずメモ帳を開いた。


『彼女は、彼が何を書いているのか知らない。

 でも、彼の疲れ方の種類だけは見分けてしまう。

 それは恋でも理解でもない。

 ただ、近くで働いている人間だけが持ってしまう、少し危険な観察だ。』


 そこまで打って、私は少しだけ息を止めた。


 いい。

 これはかなりいい。


 危ない。

 でも、これを入れた瞬間に、新企画の“職場で自分を見抜いてくる女”が急に生きる。


 私は本文へ移った。

 主人公が会社で削れている時と、別の熱を持っている時を見抜く同僚。

 その同僚は、主人公が何者かは知らない。

 でも、仕事ではない何かがその男の中で動いていることだけは、日々の細かな違いで感じ取ってしまう。


 その距離感を書く。

 踏み込まない。

 でも、気づいている。

 そして、その気づきが男の中では少し近すぎる。


 私は数段落を書いては戻し、語尾を削り、視線の向きだけを足した。


 現実を混ぜると、企画は急に息をし始める。

 たぶん、本当にそうなのだ。


 危険だ。

 でも、面白い。

 その両方を感じながら書いている今の自分の手は、ここ数週間でいちばん素直に動いていた。


 最後に、主人公の独白として一行を置く。


『職場でいちばん怖いのは、正体を知る人間じゃない。

 正体は知らないくせに、自分の疲れ方だけを見抜いてくる人間だ。』


 私はその一文を読み返してから、小さく笑った。


 やはり、かなり危ない。

 でも、この危なさの先にしか、たぶん今の企画の熱はない。

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