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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第50話 本城は、係長の疲れ方の種類を見分ける

 ホテルの夜を抜けた朝の電車で新企画の輪郭を拾えたのは、たしかに少し嬉しかった。


 だが、嬉しいからといって、そのまま一日が軽くなるわけではない。

 会社という場所は、個人の内心の追い風などほとんど考慮しない。通勤電車の中でどれだけ胸が熱くなっていようが、始業時刻になれば営業部の見込み表は届くし、客先の返信は妙な温度で返ってくるし、部長は相変わらず長めの確認をしたがる。


 私は会社のビルへ入り、エレベーターを上がり、営業管理課の島へ着いた時点で、かなり自然に係長の顔へ戻っていた。


 鞄を置く。

 ノートパソコンを開く。

 社内チャットを立ち上げる。

 今日いちばん先に片づけるべき案件を頭の中で並べる。


 そういう動作はもう身体に入っている。

 作家であることと会社員であることを切り替える、などという大げさな感覚は最近あまりない。最近はもう、切り替えるというより、必要なほうの顔が勝手に前へ出るだけだ。


「おはようございます」


 本城が先に声をかけてきた。


 いつものように静かな声だ。

 手元にはすでに一覧表と会議用の下準備らしい資料が揃っていて、始業前だというのに彼女はもう半分仕事の流れへ入っているように見える。


「おはよう」


 私は返事をしながら席へ座った。


 榎本は営業部の見込みの件で朝から少し不機嫌そうで、三浦は客先への返信文の下書きを画面に出したまま、たぶん一つの言い回しで止まっている。本多部長はまだ来ていない。営業管理課の朝としては、だいたいいつも通りの立ち上がりだった。


 私は社内メールを開いた。

 今日の案件を順に確認する。

 数字は少し強い。

 文面は少し緩い。

 会議は午前に一本、午後に一本。


 やはり、いつも通りだ。


 けれど、いつも通りの画面を見ながらも、私の頭のどこかでは今朝の電車のメモがまだ熱を持っていた。


 ホテルの夜を出たあとでしか、本当の顔は出ない。

 憧れと見栄と惨めさの全部を持ったまま、それでも次の朝にはネクタイを締める。


 悪くない。

 いや、かなりいい。

 この感触を忘れないうちに、夜まで持っていきたい。


 そう思った瞬間だった。


「係長」


 本城が、モニターから顔も上げずに言った。


「今日は“悪い疲れ”じゃないですね」


 私はマウスを持ったまま、一瞬だけ止まった。


 悪い疲れじゃない。


 その言い方があまりに自然で、しかも妙に正確だったからだ。


「……何だそれ」


 私はできるだけ普通の調子で返したつもりだった。

 だが、自分でも少しだけ声が遅れたのが分かる。


 本城はそこで初めてこちらを見た。

 相変わらず大きく表情を動かすタイプではない。だが、ほんの少しだけ口元に“思った通りでした”みたいな気配がある。


「昨日までの疲れ方と違うって意味です」


「そんなに分かるか」


「分かります」


 即答だった。


 私は苦笑するしかなかった。

「最近、みんな顔のこと言うな」


「顔だけじゃないです」


 本城はそう言って、手元の資料の順番を少しだけ揃え直した。


「動き方も違います」


「動き方?」


「悪い疲れの時は、最初のメール開く前に一回だけ止まるので」


 私は思わず、ほんの少し笑ってしまった。

 見ている。

 この人は、そういうところを見ている。


 係長の仕事ぶりを観察している部下、と言えばそれまでだ。

 だが、そこまで細かい“止まり方”の違いを言われると、少しだけ距離が近すぎる気もする。


「よく見てるな」


「見えるので」


 それだけ言って、本城はまた資料へ目を落とした。


 私はその横顔を見ながら、胸の奥に小さなざわつきが起きるのを感じていた。


 ホテルの夜では、若い受賞者の未来の顔や、アニメ化作家の疲れた目元や、営業の数字の視線に削られていた。

 いま職場で私を刺しているのは、まったく別の種類の正確さだ。


 この人は、私の疲れ方の種類を見分けている。

 それも、昨日より“少しまし”とか、“今日は悪くない”とかいう曖昧な言い方ではなく、かなり具体的に。


 不思議なものだ。

 ホテルのパーティーでは作家として見られ、会社へ戻ると今度は係長としての疲れ方を見抜かれる。


 どちらも、自分の顔なのだろう。


     ◇


「係長、ここだけ見てもらっていいですか」


 三浦が画面をこちらへ向ける。

 私は席を少しずらしてモニターをのぞき込んだ。


 先方への返信文。

 案の定、“前向きに”が一つ多い。


「ここ」


 私は指先でその一文を示した。

「“前向きに再検討します”は、少し期待を上げすぎる」


「やっぱそうですか」


「“再確認のうえ改めてご連絡します”くらいでいい」


「うわ、夢がない」


「仕事に夢を入れると後で面倒なんだよ」


 三浦が苦笑する。

「係長、その言い方ほんと好きですよね」


 私はそのまま返そうとして、少しだけ止まった。


 仕事に夢を入れると後で面倒なんだよ。


 また、使える。

 いや、かなりいい。

 今朝からそういうものばかり拾っている。


 私は自分の席へ戻りながら、頭の中でその台詞を新企画の主人公へ言わせてみる。

 疲れていて、慎重で、それでも諦めたわけではない男。

 うん、悪くない。かなり生っぽい。


 私は社用のメモ帳を開くふりをして、端に小さく書いた。


『仕事に夢を入れると後で面倒なんだよ。』


 会社で使うメモなのか、創作の断片なのか、自分でも最近はかなり曖昧だ。

 でも、今日はその曖昧さが悪くない。


 ホテルの夜を見たあとで、会社のいつもの会話が少し違う角度で響いてくる。

 たぶん今の私は、その状態が必要なのだろう。


     ◇


 午前の会議は予想より長引いた。


 営業部は相変わらず強気の見込みを残したがり、部長は現実的な線へ引き戻そうとする。私はその間で、どの数字なら“まだ言い過ぎではない”か、どの表現なら“期待を上げすぎない”かを一つずつ選んでいった。


「ここ、“概ね良好”でいいのか」


 部長が資料を見ながら言う。


 私は少し考えてから答えた。

「“良好”だとまだ強いかもしれません。“安定的に推移”くらいがいいと思います」


「同じようなものじゃないのか」


 営業部の課長が言う。


「違います」


 私はかなりきっぱり言った。

「良好だと上振れの期待が入ります。安定的なら、今の位置の説明に近いです」


 部長がうなずく。

「じゃあそっちにしよう」


 会議は進む。

 私は資料をめくりながら、不意に思う。


 これだ。

 こういう感じだ。


 “良好”と“安定的に推移”のあいだにある、少しだけ中年の疲れた現実感。

 それを分かってしまう人間。

 そして、分かってしまうから夢を言い切れない人間。


 新企画の主人公は、たぶんまさにそういう人間なのだ。


 私は会議のメモの余白へ、また小さく書いた。


『良好だと、まだ希望が混ざる。安定的に推移、のほうが中年の言葉だ。』


 自分でも少し可笑しかった。

 会議をしながら、内心では完全に書き手へ寄っている。


 だが、これは集中していないのではない。

 むしろ逆だ。

 ちゃんと仕事をしているからこそ、こういう温度差が拾える。


 会社の会議でしか出ない言葉がある。

 ホテルの夜の華やかさより、むしろこの地味な会議室のほうが、新企画の人物には血を通わせやすいのかもしれない。


     ◇


 会議が終わって自席へ戻ると、本城が一覧を持ってきた。


「午前の修正版、共有に上げてあります」


「助かる」


 私は受け取ってざっと目を通す。

 順番も見出しもきれいだ。こういう“整え方”のうまさは、本城のかなり大きな強みなのだろう。


「悪い疲れじゃない、ね」


 私は資料から目を上げずに言った。


 本城は少しだけ首を傾げる。

「はい」


「そう見えるなら、今日はたぶん当たりなんだろうな」


「当たりですか」


「悪い疲れじゃない日は、たぶん何か拾えてる日だから」


 そこまで言ってから、私は少しだけ言いすぎた気がした。

 だが、取り消すには遅い。


 本城は私を見た。

 まっすぐではない。

 でも、ちゃんと見ている視線だった。


「何か、書けそうなんですか」


 私はその一言で、今度こそはっきりと息を止めた。


 書けそうなんですか。


 職場の会話としては、少し近すぎる。

 少なくとも、単なる係長と部下のやり取りの温度ではない。


 しかも本城は、それを変に探るようにも、冗談めかしてもいない。ただ、ごく自然に聞いてきた。自然すぎるからこそ、余計にこちらが動揺する。


「……まあ、少しだけ」


 私は結局、それくらいしか返せなかった。


 本城は小さくうなずいた。

「それなら、よかったです」


 それだけ言って、資料の束を持ち直す。

 踏み込まない。

 でも、引きもしない。


 その距離感が、ひどく危うかった。


 私は本城が去ったあと、しばらく画面を見たまま動けなかった。

 書けそうなんですか。

 その問い方が、頭の中に残る。


 ホテルの夜で見た憧れや見栄や惨めさとは、また別の危うさだった。

 職場の現実の中に、自分の“書く側”が少しだけ見えかけている。

 それを相手も、ぼんやりとだが気づいている気配がある。


 私は小さく息を吐き、もう一度だけ手元のメモ帳を見た。


 ホテルの夜。

 朝の電車。

 会議室の言葉。

 本城の「悪い疲れじゃないですね」。

 そして、「何か、書けそうなんですか」。


 今日だけで、すでにかなりのものを拾っている。


 この日常をそのまま入れたら、新企画はかなり危ない。

 でも、面白くなる。

 たぶん間違いなく。


 私は心の中でそう思いながら、午後の仕事へ戻った。

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