第49話 ホテルの夜が、朝の電車まで残っている
ホテルの夜は終わったはずなのに、翌朝の電車の窓には、まだあのシャンデリアの光が少しだけ残っている気がした。
もちろん、気のせいだ。
東西線の車内はいつも通りで、眠そうなサラリーマンと、スマホを見下ろす学生と、吊り革の角度に無言で身体を合わせている人間たちで埋まっている。広告は昨日と同じように頭上で揺れ、車内アナウンスは平板で、窓に映る私の顔は相変わらずくたびれた中年会社員のそれだった。
ホテルの華やかさなど、ここには一欠片もない。
でも、それでも、頭の中にはまだ昨夜の光景が残っていた。
アニメ化作家の周囲だけ少し空気が変わる感じ。
若い受賞者の、未来をまだ使い切っていない顔。
営業が人の“格”を数字で見る目。
酔った同業の無神経な一言。
書店員の「戻ってくる読者さんがいる本」という評価。
そして、ホテルの廊下で少しだけ本音を見せた成功者の疲れ。
その全部が、寝て起きても消えていなかった。
むしろ、朝になったぶんだけ、少し整理されて頭の中へ沈んでいる。
私は吊り革につかまりながら、昨夜の最後に打った一文を思い出していた。
人は、憧れと見栄と惨めさの全部を持ったまま、それでも次の朝にはネクタイを締める。
あれはたしかに、今夜の核だった。
そしてたぶん、新企画『再構成_危ない案』の核でもある。
私は胸ポケットのスマホを取り出した。
画面には通勤電車の時間つぶしに開きかけたニュースアプリや、会社の予定表や、昨夜の高梨とのやり取りが並んでいる。
そのどれもではなく、私はまっすぐメモ帳を開いた。
カーソルが白い画面の上で点滅している。
電車が少し揺れる。
私は片手だけで、できるだけ早く打ち始めた。
『ホテルの夜を出たあとでしか、本当の顔は出ない。
シャンデリアの下では少し立派に見えた人間が、駅へ向かう夜道で急にただの疲れた大人へ戻る。その戻り方に、その人間の本当がある。』
そこまで打って、私は少しだけ息を止めた。
いい。
かなり、いい。
昨夜までの新企画は、人物の輪郭と会話の温度が立ち上がってきた段階だった。
そこへ今朝は、ホテルの夜という外側の出来事が一気に主人公の内面へ流れ込んできている。
私はさらに打ち足した。
『人は、成功者を見て眩しいと思う。
若い才能に刺される。
自分より下だと思える誰かに少し安心し、あとでその安心の醜さにうんざりする。
その全部を抱えたまま、翌朝にはまた同じ電車へ乗る。』
電車が少し大きく揺れ、親指が変なところを触って一文字だけ余計な変換が入った。
私は舌打ちしそうになるのをこらえ、消して打ち直した。
朝の満員電車で、四十七歳の会社員が、自分の別の人生の心臓みたいな一文を必死で打っている。
その光景を自分で想像すると、少しだけ可笑しい。
でも同時に、いかにも自分らしいとも思う。
若い頃なら、夜通し机の前にいたかもしれない。
いまの私はそうではない。
寝て、起きて、ネクタイを締めて、それでも通勤電車の中で続きを拾う。
それが、いまの私の書き方なのだろう。
◇
門前仲町を過ぎたあたりで、私はスマホを一度閉じた。
さすがにここから先は、立ったまま書くには少し集中が要る。
それでも、今朝すでに二つか三つ、かなり大きいものを拾えている感覚があった。
ホテルの夜は終わった。
でも、その夜に受け取った感情は、朝の電車の揺れの中でようやく文章になる。
こういうことがあるから、私はまだこの生活を嫌いきれないのかもしれない。
会社員の一週間は創作に向いていない。
それは何度も痛感してきた。
だが同時に、通勤電車の疲れた空気や、朝の自分の顔や、“昨日の非日常を抱えたまま日常へ戻る感じ”は、まさにいまの私にしか書けないものでもある。
ホテルの夜から、朝の電車へ。
その落差。
その落差を、若い頃の私なら単なる敗北だと思ったかもしれない。
いまは違う。
そこにしかない温度があると、ようやく少し思える。
私は窓ガラスに映る自分を見た。
相変わらず、地味だ。
ホテルで名札をつけていた男には見えない。
オリコンに入るシリーズを出している作家にも見えない。
ただ、眠そうな会社員だ。
でも、その顔の下で、今朝は新企画の主人公がはっきりし始めている。
会社員で、
中年で、
見栄もあり、
憧れもあり、
少しだけ惨めで、
それでもまだ“途中だ”と思いたがっている男。
それはもう、かなり危ないところまで自分に近い。
高梨が言った通り、これはたぶん書けば書くほど自分を削るタイプの企画だ。
だが、それでも今朝の私は、怖さより先に前のめりになっていた。
なぜなら、この主人公の中に、昨夜の自分の醜さまでちゃんと入れられる気がしたからだ。
アニメ化作家への憧れを、綺麗な向上心として処理しない。
若い受賞者への眩しさを、爽やかな嫉妬だけにしない。
売れていない作家への優越感も、酔った同業へ刺された痛みも、ちゃんとそのまま残す。
そうしないと、この企画はまた“悪くないけど弱い”側へ戻る。
私は、そのことを今朝かなりはっきり分かっていた。
◇
会社の最寄り駅へ着く少し前、もう一度だけスマホを開いた。
今度は、本文ではなくメモ欄に、短く台詞だけを置く。
『あの夜、彼は成功者に憧れた。
若い才能に刺された。
売れていない同業に少し安心した。
その全部が嫌だった。
でも、その嫌さごと抱えてネクタイを締める人間のほうが、たぶん本当だと思った。』
私はそこまで打ってから、最後に一行足した。
『これ、かなり危ないな。』
その“危ない”には、二つ意味があった。
一つは、企画としてだ。
主人公を綺麗にしない。
見栄も優越感も惨めさも、そのまま混ぜる。
投稿サイトで読者がどこまでついてきてくれるか、簡単には読めない。
もう一つは、自分自身にとってだ。
これは、かなり自分へ近い。
近すぎるものは、書いていてしんどい。
でも近すぎるからこそ、前よりずっと“自分の熱”が出る。
私はスマホをしまい、電車が止まるのを待った。
扉が開く。
人が動く。
私はその流れに混じってホームへ降りた。
今日も会社へ行く。
営業部の見込みは相変わらず強気だろうし、三浦は先方の文面の語尾で悩み、本城は静かな顔で一覧を揃えているだろう。
でも、今日の私の中にはもう昨夜のホテルの夜が別の形で残っている。
ただの余韻ではない。
新しい話の輪郭として。
駅の階段を上がりながら、私は少しだけ胸が熱くなるのを感じた。
受賞していない。
デビューし直すわけでもない。
人生がいきなり変わるわけでもない。
それでも、ホテルの夜を抜けた朝の電車の中で、こうして次の話の輪郭がはっきりしていく。
そのこと自体が、いまは十分に前進だった。




