第47話 帰りの夜景に、次の話の輪郭が浮かぶ
ホテルを出ると、夜の空気は思ったより普通だった。
一流ホテルの回転ドアを抜けた瞬間、もう少しだけ世界が変わって見えるかと思っていた。シャンデリアの余韻とか、アニメ化作家の輪のまぶしさとか、そういうものが夜の都心の景色まで少し違う色に染めるのではないかと、どこかで期待していたのかもしれない。
だが実際には、車道を走るタクシーのライトがあり、歩道にはスーツ姿の人間がいて、コンビニの白い看板が少し冷たく光っているだけだった。
つまり、世界はいつも通りだった。
その“いつも通り”が、今夜の私にはむしろちょうどよかった。
ホテルの中では、作家という肩書きが少しだけ濃くなる。
アニメ化作家は空気を変え、若い受賞者は未来の顔をしていて、営業は数字の目で人を見る。そこでは、名前や実績や序列が、ホテルの照明に照らされて少しだけ立派に見える。
でも、一歩外へ出れば、夜の都内はそんなことと無関係に流れていく。
その温度差が、いまは少しだけ救いだった。
私は駅へ向かって歩き出した。
ネクタイはまだ締めたまま。
上着の内ポケットには、会社の名刺と、さっき外した作家の名札が並んで入っている。
どちらも自分だ。
そう思えた夜だった。
◇
歩きながら、私は今夜見たものを一つずつ思い返していた。
アニメ化作家の輪。
人の視線がそちらへ揃う感じ。
営業の“格”を見る目。
売れていない作家の早口の焦り。
酔った同業の無神経な一言。
若い受賞者の、まだ使っていない未来を残した顔。
そして、ホテルの廊下で少しだけ本音を見せた成功者の疲れ。
憧れた。
焦った。
少し優越感も持った。
少し惨めにもなった。
そして、それら全部を抱えたまま会場へ戻った。
綺麗ではない夜だった。
でも、だからこそ書ける気がした。
私はポケットの中のスマホを取り出し、歩きながらメモ帳を開いた。
さすがに立ち止まらないと打ちにくいので、街路樹の脇で一度だけ足を止める。
白い画面に、指で打ち込む。
『人は、成功者を羨む。
若い才能に刺される。
自分より下だと思える相手に少し安心し、少し軽蔑し、あとでその醜さにうんざりする。
それでも翌朝にはネクタイを締める。』
そこまで打って、私は少しだけ息を吐いた。
これだ。
少なくとも、今夜の私はこれを書きたかったのだ。
アニメ化作家への憧れ“だけ”では足りない。
売れていない作家への優越感“だけ”でも足りない。
若い受賞者への眩しさ“だけ”でも、まだ綺麗すぎる。
その全部が一人の中で混ざり合っている感じ。
見栄も、焦りも、惨めさも、少しの誇りも、全部残ったまま大人として歩いて帰る感じ。
それが、いまの私にはいちばん生っぽかった。
◇
駅までの道の途中、高架下のガラスに自分の姿が映った。
ホテル帰りの男。
少しだけいいスーツ。
でも顔は、たぶんただの会社員だ。
少なくとも、通りすがりの人間にはそう見えるだろう。
私はそのことが少し可笑しかった。
さっきまで一流ホテルの宴会場で、作家として名札をつけて立っていた。
アニメ化作家と名刺を交換し、若い受賞者に敬意を向けられ、営業の口から自分のシリーズの“位置”を聞いた。
それなのに、夜の街ではまた、ただの中年サラリーマンに見える。
いや、だからこそいいのかもしれない。
作家の夜を生きて、そのまま会社員の顔へ戻れる。
その落差そのものが、たぶん私の物語の燃料なのだ。
若い頃は、その落差を不幸だと思ったこともある。
専業じゃないこと。
会社を辞められないこと。
ホテルのパーティーから帰っても、明日の朝にはまた通勤電車へ乗ること。
でも、今夜の私は少し違う。
華やかな場を見たあとで、それでも普通の夜景の中を歩く人間にしか書けないものもあるのではないか。
そう思えたのだ。
◇
改札へ入る前、私は最後にもう一度だけスマホを開いた。
新企画『再構成_危ない案』のメモ欄。
そこへ、今夜の象徴みたいな一場面を書き足す。
『ホテルの照明の下では、成功者も敗者も少しだけ立派に見えた。
でも、駅へ向かう夜道では、みんなただの疲れた大人に戻る。
その戻り方にこそ、その人間の本当がある。』
私はその文章を見て、小さくうなずいた。
たぶん次の話は、この夜から始まる。
アニメ化作家でもなく、
受賞した若者でもなく、
売れていない作家でもなく、
その全部を見たあとで駅へ向かう中年男から。
それが、今夜ホテルを出て見えた輪郭だった。




