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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第46話 係長の名刺と、作家の名札のあいだで

 パーティーが終わりへ向かう空気には、独特の緩みがある。


 最初の一時間ほどの張りつめた社交は少しずつほどけ、会場の輪は大きいものから小さいものへ変わっていく。最初は名刺交換と挨拶で埋まっていた会話が、終盤になると少しだけ本音寄りになる。編集はネクタイをわずかに緩め、営業はグラスの持ち方が少し雑になり、作家たちも“今日はこのくらいでいいか”という顔をし始める。


 都内一流ホテルの宴会場は相変わらずきれいだったが、空気のほうはずいぶん人間らしくなっていた。


 私は会場の端で、三杯目のウーロン茶を飲んでいた。

 結局最後まで酒は飲まなかった。こういう場では、飲んで気持ちを誤魔化すより、素面のまま全部を持ち帰りたい夜がある。今日はたぶん、その夜だった。


 高梨は少し離れたところで営業と話している。

 アニメ化作家の輪はまだ残っているが、最初ほどの熱量ではない。

 若い受賞者は、さっきより少し疲れた顔で、それでもまだちゃんと笑っている。

 売れていない作家の姿は、もう見えない。

 どこか別の輪へ溶けたのか、先に帰ったのか、それは分からない。


 人の位置も、

 空気の濃さも、

 この数時間で少しずつ見えてきた。


 アニメ化作家への憧れも、

 若い受賞者への焦りも、

 売れていない作家への優越感も、

 酔った同業の一言に刺された痛みも、

 全部がひと通り自分の中を通ったあとで、私はようやく少し静かになっていた。


 その静けさの中で、不意にポケットの存在を思い出した。


 右の内ポケット。

 そこには今日、この会場では一度も取り出していないものが入っている。


 会社の名刺だ。


 私はグラスをテーブルへ置き、誰も見ていないことを確認してから、そっと名刺入れを取り出した。


 黒い革の、使い慣れた名刺入れ。

 営業管理課係長として、取引先との会議や社内外の打ち合わせで何度も出してきたもの。

 そこに入っているのは本名で、会社名で、部署名で、内線番号の記された名刺だ。


 私はそれを開き、一枚だけ指でずらした。


 白地に黒い文字。

 見慣れたレイアウト。

 少しだけ角が柔らかくなっているのは、何度も持ち歩いているせいだろう。


 今日この宴会場で、私はこの名刺を一度も使っていない。

 使うわけがない。

 ここで配っているのはペンネーム入りの作家用名刺であり、胸元には作家名の名札がついている。


 でも、明日になれば私はまたこの会社の名刺を持って働く。


 朝、通勤電車に乗って、

 営業部の見込みを現実へ戻し、

 三浦の文面の語尾を削り、

 本城の一覧を見て、

 榎本の数字へ頷き、

 部長の長い確認をどうにか短くする。


 その時の私は、胸に名札などつけていない。

 そこにあるのは係長という立場だけだ。


 私は会社の名刺を見ながら、妙に不思議な気持ちになった。


 昔は、この二つの顔のどちらが本当なのかを、ずっとどこかで気にしていた。


 会社員が仮の顔で、作家が本当なのか。

 それとも、作家が夜だけの別人格で、昼の会社員こそが現実なのか。


 若い頃は、たぶんその問いに答えがあると思っていた。

 どちらかが“本当”で、どちらかが“仮”なのだと。


 でも今夜、このホテルの照明の下で、私はようやく少し違うことを思っていた。


 どちらも本当なのだ。


 係長の名刺も。

 作家の名札も。


 どちらかが嘘ではなく、どちらかだけが本物でもなく、その両方を持ったままここまで来てしまった。

 それが今の私の形なのだろう。


     ◇


 私は名刺を名刺入れへ戻し、代わりに胸元の名札へ目を落とした。


 作家名。

 白いカード。

 ホテルの照明の下で、まだ少しだけ立派に見える。


 この名札は、会社の名刺よりずっと軽い。

 紙の厚みの問題ではない。

 背負っているものの種類が違うのだ。


 会社の名刺には、部署も役職も責任も、あらかじめ印字されている。

 渡した瞬間に、“この人は何者で、どこに連絡すればいいか”が明確になる。

 社会の中での位置が、かなりはっきりしている。


 対して作家の名札は、名前しかない。

 書いた人間の名前だけ。

 それがどれくらい売れているか、

 何巻まで出ているか、

 賞を取ったのか、

 アニメ化しているのか、

 そういうことは、知っている人の頭の中にしかない。


 その曖昧さが、私は昔から少し好きだった。

 同時に少し怖かった。


 作家の名前は、自由だ。

 でも、その自由さのぶんだけ不安定でもある。


 会社の名刺は、守ってくれる。

 でも、その代わりに、どこかで私を“係長”の枠へ固定する。


 私は今日、この二つの間を何度も行き来していたのだと、今になってようやく分かった。


 アニメ化作家を見て憧れたのは、作家の側の私だ。

 営業の数字の視線に現実を感じたのも、作家の側の私だ。

 酔った同業の無神経な一言を、大人として笑って流せたのは、たぶん会社員としての私の訓練がかなり役に立っている。

 若い受賞者へ少しだけ落ち着いて話せたのも、会社で人を見る時間が長かったからかもしれない。


 そう考えると、昼と夜は思っているほど分離していない。

 むしろ、かなり深いところで互いに混ざっている。


 会社員だから書けるものがあり、

 作家だから会社で見えるものがあり、

 その両方が今日のホテルの夜にもちゃんと出ていた。


 だったら、どちらかを“仮”にする必要はないのかもしれない。


     ◇


「もうお帰りになりますか」


 声をかけてきたのは、書店関係者らしい年配の女性だった。

 短いやり取りだけした相手で、名前は辛うじて覚えている。地方の大型書店で文芸寄りの棚を長く担当している人だと、高梨が言っていた気がする。


「そろそろかなと思っていました」


 私は名刺入れをポケットへ戻しながら答えた。


「今日はご挨拶できてよかったです」


 女性はそう言って、小さく笑った。


「佐伯先生の本、うちでは派手な棚替えの時にも一冊だけ残すことが多いんですよ」


 私は少しだけ目を上げた。

 そういう言い方は、書店の人ならではだと思った。


「ありがとうございます」


「爆発的、ではないんですけどね」


 その一言に、私はほんの少しだけ苦笑した。

 今日は本当に、その表現をいろんな角度から聞く夜だ。


 だが、彼女の言い方には酔った作家の無神経さとは違うものがあった。

 判断の言葉だ。

 現場で棚を見てきた人間の、少し冷たいが誠実な評価。


「でも、ちゃんと戻ってくる読者さんがいる本って、棚を作る側からするとありがたいんです」


 私はその言葉を、静かに受け取った。


 ちゃんと戻ってくる読者さんがいる本。


 華やかではない。

 アニメ化ほどの眩しさもない。

 受賞歴のような分かりやすさもない。

 でも、それはたぶん、書店の現場でしか見えない強さだ。


 私は今夜、いろんな立場から自分の本の見え方を聞いてきた。

 営業には“いい位置”。

 若い受賞者には“ちゃんと続いている人”。

 書店の人には“戻ってくる読者さんがいる本”。


 どれも、若い頃の私が夢見た勝ち方とは少し違う。

 でも、どれも完全に軽んじていいものでもない。


「それ、うれしいです」


 私はそう言った。

 たぶん、かなり本音だった。


 女性はうなずき、

「よかったです」

 と言って、別の相手へ移っていった。


 私はその後ろ姿を見送りながら、胸元の名札へもう一度触れた。

 作家の名前。

 そしてポケットの中の会社の名刺。


 どちらも、今夜は少しだけ好きになれそうな気がした。


     ◇


 パーティーがお開きの空気を濃くし始めた頃、私は会場の隅へ移動した。


 ホテルスタッフがテーブルの空いたグラスを片づけ始める。

 編集たちは最後の挨拶をし、作家たちも少しずつ出口の方向へ意識を向けている。


 私はその流れの中で、胸元の名札を外した。


 安全ピンを外し、白いカードを手のひらに乗せる。

 ホテルの光を受けて、それはさっきまでより少し頼りなく見えた。


 この数時間、この名札は確かに私を“作家”としてこの場へ立たせてくれた。

 でも外してしまえば、ただの紙だ。

 明日の朝には私はまた会社の名刺を持って通勤電車へ乗る。


 そう考えると、少しだけ可笑しい。

 作家というのは、思ったよりも“外せる”顔なのかもしれない。

 だが、外せるからといって嘘ではない。

 むしろ外してもまだ残るものだけが、本当の意味で自分の中にあるのだろう。


 私は名札を見つめながら、静かに思った。


 会社の名刺と、作家の名札。

 そのあいだを行ったり来たりして生きるのが、いまの私だ。


 どちらか一つへすっきり寄り切れないことを、私はずっと少しだけ不満に思っていた。

 でも、今夜みたいな場を経ると、むしろその曖昧さが自分の書くものを支えている気もする。


 係長として人の言葉を整え、

 作家として人の揺れを書き、

 ホテルの夜で見栄や惨めさまで拾って、

 また明日の朝にはネクタイを締める。


 そういう人間だから書けるものが、たぶんある。


 私は名札を丁寧に畳み、上着の内ポケットへしまった。

 会社の名刺のすぐ近くに。


 その並び方が、今夜は妙に正しい気がした。

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