第46話 係長の名刺と、作家の名札のあいだで
パーティーが終わりへ向かう空気には、独特の緩みがある。
最初の一時間ほどの張りつめた社交は少しずつほどけ、会場の輪は大きいものから小さいものへ変わっていく。最初は名刺交換と挨拶で埋まっていた会話が、終盤になると少しだけ本音寄りになる。編集はネクタイをわずかに緩め、営業はグラスの持ち方が少し雑になり、作家たちも“今日はこのくらいでいいか”という顔をし始める。
都内一流ホテルの宴会場は相変わらずきれいだったが、空気のほうはずいぶん人間らしくなっていた。
私は会場の端で、三杯目のウーロン茶を飲んでいた。
結局最後まで酒は飲まなかった。こういう場では、飲んで気持ちを誤魔化すより、素面のまま全部を持ち帰りたい夜がある。今日はたぶん、その夜だった。
高梨は少し離れたところで営業と話している。
アニメ化作家の輪はまだ残っているが、最初ほどの熱量ではない。
若い受賞者は、さっきより少し疲れた顔で、それでもまだちゃんと笑っている。
売れていない作家の姿は、もう見えない。
どこか別の輪へ溶けたのか、先に帰ったのか、それは分からない。
人の位置も、
空気の濃さも、
この数時間で少しずつ見えてきた。
アニメ化作家への憧れも、
若い受賞者への焦りも、
売れていない作家への優越感も、
酔った同業の一言に刺された痛みも、
全部がひと通り自分の中を通ったあとで、私はようやく少し静かになっていた。
その静けさの中で、不意にポケットの存在を思い出した。
右の内ポケット。
そこには今日、この会場では一度も取り出していないものが入っている。
会社の名刺だ。
私はグラスをテーブルへ置き、誰も見ていないことを確認してから、そっと名刺入れを取り出した。
黒い革の、使い慣れた名刺入れ。
営業管理課係長として、取引先との会議や社内外の打ち合わせで何度も出してきたもの。
そこに入っているのは本名で、会社名で、部署名で、内線番号の記された名刺だ。
私はそれを開き、一枚だけ指でずらした。
白地に黒い文字。
見慣れたレイアウト。
少しだけ角が柔らかくなっているのは、何度も持ち歩いているせいだろう。
今日この宴会場で、私はこの名刺を一度も使っていない。
使うわけがない。
ここで配っているのはペンネーム入りの作家用名刺であり、胸元には作家名の名札がついている。
でも、明日になれば私はまたこの会社の名刺を持って働く。
朝、通勤電車に乗って、
営業部の見込みを現実へ戻し、
三浦の文面の語尾を削り、
本城の一覧を見て、
榎本の数字へ頷き、
部長の長い確認をどうにか短くする。
その時の私は、胸に名札などつけていない。
そこにあるのは係長という立場だけだ。
私は会社の名刺を見ながら、妙に不思議な気持ちになった。
昔は、この二つの顔のどちらが本当なのかを、ずっとどこかで気にしていた。
会社員が仮の顔で、作家が本当なのか。
それとも、作家が夜だけの別人格で、昼の会社員こそが現実なのか。
若い頃は、たぶんその問いに答えがあると思っていた。
どちらかが“本当”で、どちらかが“仮”なのだと。
でも今夜、このホテルの照明の下で、私はようやく少し違うことを思っていた。
どちらも本当なのだ。
係長の名刺も。
作家の名札も。
どちらかが嘘ではなく、どちらかだけが本物でもなく、その両方を持ったままここまで来てしまった。
それが今の私の形なのだろう。
◇
私は名刺を名刺入れへ戻し、代わりに胸元の名札へ目を落とした。
作家名。
白いカード。
ホテルの照明の下で、まだ少しだけ立派に見える。
この名札は、会社の名刺よりずっと軽い。
紙の厚みの問題ではない。
背負っているものの種類が違うのだ。
会社の名刺には、部署も役職も責任も、あらかじめ印字されている。
渡した瞬間に、“この人は何者で、どこに連絡すればいいか”が明確になる。
社会の中での位置が、かなりはっきりしている。
対して作家の名札は、名前しかない。
書いた人間の名前だけ。
それがどれくらい売れているか、
何巻まで出ているか、
賞を取ったのか、
アニメ化しているのか、
そういうことは、知っている人の頭の中にしかない。
その曖昧さが、私は昔から少し好きだった。
同時に少し怖かった。
作家の名前は、自由だ。
でも、その自由さのぶんだけ不安定でもある。
会社の名刺は、守ってくれる。
でも、その代わりに、どこかで私を“係長”の枠へ固定する。
私は今日、この二つの間を何度も行き来していたのだと、今になってようやく分かった。
アニメ化作家を見て憧れたのは、作家の側の私だ。
営業の数字の視線に現実を感じたのも、作家の側の私だ。
酔った同業の無神経な一言を、大人として笑って流せたのは、たぶん会社員としての私の訓練がかなり役に立っている。
若い受賞者へ少しだけ落ち着いて話せたのも、会社で人を見る時間が長かったからかもしれない。
そう考えると、昼と夜は思っているほど分離していない。
むしろ、かなり深いところで互いに混ざっている。
会社員だから書けるものがあり、
作家だから会社で見えるものがあり、
その両方が今日のホテルの夜にもちゃんと出ていた。
だったら、どちらかを“仮”にする必要はないのかもしれない。
◇
「もうお帰りになりますか」
声をかけてきたのは、書店関係者らしい年配の女性だった。
短いやり取りだけした相手で、名前は辛うじて覚えている。地方の大型書店で文芸寄りの棚を長く担当している人だと、高梨が言っていた気がする。
「そろそろかなと思っていました」
私は名刺入れをポケットへ戻しながら答えた。
「今日はご挨拶できてよかったです」
女性はそう言って、小さく笑った。
「佐伯先生の本、うちでは派手な棚替えの時にも一冊だけ残すことが多いんですよ」
私は少しだけ目を上げた。
そういう言い方は、書店の人ならではだと思った。
「ありがとうございます」
「爆発的、ではないんですけどね」
その一言に、私はほんの少しだけ苦笑した。
今日は本当に、その表現をいろんな角度から聞く夜だ。
だが、彼女の言い方には酔った作家の無神経さとは違うものがあった。
判断の言葉だ。
現場で棚を見てきた人間の、少し冷たいが誠実な評価。
「でも、ちゃんと戻ってくる読者さんがいる本って、棚を作る側からするとありがたいんです」
私はその言葉を、静かに受け取った。
ちゃんと戻ってくる読者さんがいる本。
華やかではない。
アニメ化ほどの眩しさもない。
受賞歴のような分かりやすさもない。
でも、それはたぶん、書店の現場でしか見えない強さだ。
私は今夜、いろんな立場から自分の本の見え方を聞いてきた。
営業には“いい位置”。
若い受賞者には“ちゃんと続いている人”。
書店の人には“戻ってくる読者さんがいる本”。
どれも、若い頃の私が夢見た勝ち方とは少し違う。
でも、どれも完全に軽んじていいものでもない。
「それ、うれしいです」
私はそう言った。
たぶん、かなり本音だった。
女性はうなずき、
「よかったです」
と言って、別の相手へ移っていった。
私はその後ろ姿を見送りながら、胸元の名札へもう一度触れた。
作家の名前。
そしてポケットの中の会社の名刺。
どちらも、今夜は少しだけ好きになれそうな気がした。
◇
パーティーがお開きの空気を濃くし始めた頃、私は会場の隅へ移動した。
ホテルスタッフがテーブルの空いたグラスを片づけ始める。
編集たちは最後の挨拶をし、作家たちも少しずつ出口の方向へ意識を向けている。
私はその流れの中で、胸元の名札を外した。
安全ピンを外し、白いカードを手のひらに乗せる。
ホテルの光を受けて、それはさっきまでより少し頼りなく見えた。
この数時間、この名札は確かに私を“作家”としてこの場へ立たせてくれた。
でも外してしまえば、ただの紙だ。
明日の朝には私はまた会社の名刺を持って通勤電車へ乗る。
そう考えると、少しだけ可笑しい。
作家というのは、思ったよりも“外せる”顔なのかもしれない。
だが、外せるからといって嘘ではない。
むしろ外してもまだ残るものだけが、本当の意味で自分の中にあるのだろう。
私は名札を見つめながら、静かに思った。
会社の名刺と、作家の名札。
そのあいだを行ったり来たりして生きるのが、いまの私だ。
どちらか一つへすっきり寄り切れないことを、私はずっと少しだけ不満に思っていた。
でも、今夜みたいな場を経ると、むしろその曖昧さが自分の書くものを支えている気もする。
係長として人の言葉を整え、
作家として人の揺れを書き、
ホテルの夜で見栄や惨めさまで拾って、
また明日の朝にはネクタイを締める。
そういう人間だから書けるものが、たぶんある。
私は名札を丁寧に畳み、上着の内ポケットへしまった。
会社の名刺のすぐ近くに。
その並び方が、今夜は妙に正しい気がした。




