第44話 この場にいるだけで、たぶんまだ負けていない
宴会場の扉を押して戻った瞬間、光と音が少しだけ強くなった。
さっきまでホテルの廊下とロビーの静けさに身体が慣れていたせいだろう。シャンデリアのやわらかい明るさも、人の話し声の重なりも、戻ってきた今は少しだけ濃く感じる。
でも、同時に分かったこともある。
この濃さは、もうさっきまでほど私を圧倒しない。
同じ会場、同じ人の数、同じホテルの照明なのに、見え方がわずかに変わっている。
たぶん、あの廊下でアニメ化作家と交わした数分のせいだろう。
成功者は成功者のまま眩しい。
それは変わらない。
だが、その眩しさの内側にも、ちゃんと疲れやしんどさがあると知ったことで、こちらの目線が少しだけ変わった。
神話だったものが、少しだけ仕事に近づいたのだ。
私はグラスを持ち直し、ゆっくり会場の中央へ視線を走らせた。
アニメ化作家の輪はまだある。
若い受賞者も別の編集と話している。
営業は相変わらず人の“位置”を自然に測る顔をしていて、書店関係者らしい人間は数人の作家のところで立ち止まる長さがそれぞれ違う。
会場の構図は何も変わっていない。
変わったのは、私の受け止め方だけだ。
◇
私は一度だけ、自分の胸元の名札へ目を落とした。
ペンネーム。
肩書きはシンプルに、作家。
会社の名刺と違って、部署も役職もない。
あるのは“書いた人間の名前”だけだ。
数十分前まで、私はその名札を少しだけ足りないものとして見ていた。
アニメ化の肩書きはない。
受賞歴の大きさで語られる名前でもない。
シリーズが爆発的に売れているわけでもない。
つまり、会場の中では“中途半端な位置”の名札なのだと。
でも今は、少しだけ違う。
この場に呼ばれている。
受付で名前を確認され、
ホテルの宴会場へ通され、
編集が紹介してくれ、
営業がシリーズを把握していて、
若い受賞者が敬意を向けてきて、
アニメ化作家とも少し会話を交わした。
それは、当たり前のことではない。
私はトップではない。
若くもない。
アニメ化もしていない。
でも、ここにいる。
“呼ばれている側”として、ちゃんとここに立っている。
それだけで、たぶんまだ負けていないのだ。
私はその言葉を、心の中で静かに反芻した。
負けていない。
勝っている、ではない。
それを言うには、この場にはもっと明らかな成功者がいるし、私自身もそこまで無邪気ではない。
だが、負けていない、なら今の自分にかなり近い。
シリーズは続いている。
読者もいる。
次の企画にも少しずつ火が戻ってきた。
コンテストの賞はまだない。
専業にもなれていない。
でも、それで即座に“敗者”になるほど、この世界は単純でもない。
私はようやく、その中間の場所を少しだけ受け入れられそうな気がしていた。
◇
「戻られたんですね」
声をかけてきたのは本多という営業寄りの編集だった。
正確には編集部所属だが、営業との橋渡しをよくしているタイプの人間で、作家への言葉もどこか市場寄りの温度を帯びている。
「少し外の空気を吸ってました」
私がそう答えると、本多はうなずいた。
「こういう場、見た目より疲れますよね」
「そうですね」
私は少し笑った。
その言葉には実感があった。
「でも、佐伯先生ってこういう場あまり苦手そうに見えないです」
「そうか?」
「ええ。ちゃんと自然に立ってますよ」
私はその評価が少し意外だった。
自然に立っている。
自分では、わりとぎこちなく過ごしているつもりだったからだ。
「内心はそこまで自然でもないですよ」
私は正直にそう言った。
本多は少しだけ笑う。
「みんなそんなものですよ」
その“みんな”の範囲がどこまでなのかは分からない。
でも、少しだけ救われる言い方でもあった。
みんなそんなもの。
アニメ化作家も、
若い受賞者も、
苦戦している同業も、
営業も編集も、
見えていないところでは多少は落ち着かない。
そう思えば、この会場の光も少しだけましに見える。
「今のシリーズ、ちゃんと残ってるので」
本多が続ける。
「営業も書店も、佐伯先生の名前は“きちんと出す人”として見てますよ」
きちんと出す人。
それは、華やかな称号ではない。
アニメ化作家、話題作家、受賞新人、そういう分かりやすいラベルに比べれば、かなり地味だ。
でも、悪くないとも思った。
むしろ今の私には、そういう地味な言われ方のほうがしっくり来る。
「ありがたいです」
私は素直にそう返した。
本多はうなずき、別の相手へ呼ばれて離れていった。
きちんと出す人。
その言葉は、会場のざわめきの中で妙に残った。
若さはない。
爆発的な話題性もない。
でも、きちんと出してきた。
落とさず、折れず、途中で消えずに、ここまで来た。
それは少なくとも、なかったことにしなくていいのだろう。
◇
会場の中央より少し手前で、私は一人の女性作家と軽く挨拶を交わした。
面識はなかったが、名前は知っている。受賞後に数冊出していて、最近は少し刊行が落ち着いている人だ。
「はじめまして」
「はじめまして、佐伯です」
名刺を交換する。
会話は短い。
「お名前、ずっと拝見してます」
「ありがとうございます」
「今のシリーズ、長いですよね」
「なんとか」
それだけなのに、不思議と前より自然に話せた。
私はそこで気づいた。
さっきまでの私は、この会場にいる全員を“自分を測る物差し”として見すぎていたのかもしれない。
この人はどの位置か。
自分より上か下か。
若いか、売れているか、勢いがあるか、苦戦しているか。
そういう目線で見ていると、会話が全部少しずつ刺さる。
だが今は、そこから半歩だけ引けている。
上も下も確かにある。
この業界はきれいごとではない。
でも、少なくとも今夜ここにいる人たちは、それぞれの形で“ここまで来た側”でもある。
私はそのことを、ようやく少しだけ実感として持てた気がした。
◇
高梨が戻ってきたのは、乾杯からだいぶ時間が経った頃だった。
「大丈夫そうですね」
彼は私の顔を見るなりそう言った。
「何が」
「さっきより」
私は笑った。
「そんなに分かりやすいか」
「さっきはちょっと、もう帰りたい人の顔してました」
「してたかもしれない」
「今は、そこまでじゃない」
私はグラスの残りを一口飲んだ。
たしかに、さっきほどは帰りたくない。
疲れてはいる。
比べる気持ちも消えていない。
憧れだってまだちゃんとある。
でも、その全部を持ったまま、もう一時間くらいはここにいてもいい気がする。
「少し落ち着いた」
私がそう言うと、高梨はうなずいた。
「それならよかったです」
「……この場にいるだけで、たぶんまだ負けてないんだろうな」
私は半分独り言みたいに言った。
高梨は少しだけ目を細める。
「そう思いますよ」
その返しは短かった。
でも、余計な慰めがなくてよかった。
そう思いますよ。
たぶん、それで十分だった。
◇
私は会場の端ではなく、中央に近いほうへ少しだけ歩いた。
たった数歩だ。
でも、その数歩には意味があった。
さっきまでの私は、端で安全に見ていた。
中心へ行きたかったくせに、比べられるのが嫌で、自分でも少し逃げていた。
いまは、もう少しだけここにいてもいいと思える。
人の輪の一つがちょうど少し緩んでいた。
三十代くらいの男性作家が一人、飲み物を取りに離れたところだった。
そこに残っていたのは、眼鏡をかけた女性作家と、編集らしい若い男性。
私はそこで、一瞬だけ迷った。
自分から行くのか。
それとも、高梨にまた紹介を待つのか。
ほんの一秒ほどの迷いだった。
だが、今夜の私にとっては小さくない一秒だった。
この場にいるだけで、たぶんまだ負けていない。
だったら、その“いる”をもう少しだけ自分の足で確かめてもいいのかもしれない。
私はグラスを持ち直し、自分から一歩だけ近づいた。
「はじめまして」
声は思ったより落ち着いていた。
女性作家が顔を上げる。
編集もこちらを見る。
「佐伯と申します」
私は名刺を差し出した。
その瞬間、胸の奥にほんの少しだけ熱が走った。
大したことではない。
名刺交換だ。
大人なら誰でもやる。
でも、今夜のここまでを思えば、それはかなり大事な一歩にも思えた。
アニメ化作家への憧れも、
売れていない作家への優越感も、
若い受賞者への焦りも、
無神経な一言に刺された悔しさも、
全部消えてはいない。
それでも、その全部を抱えたまま自分から名刺を差し出せた。
それだけで今夜は、少しだけ意味があった。




