第43話 売れている人も、ちゃんとしんどそうだった
トイレを出て、ホテルの静かな廊下を歩いているうちに、心拍は少しずつ落ち着いてきた。
会場へ戻るには、まだ数十歩ある。
数十歩しかないのに、そのあいだだけ別の場所へいるみたいだった。宴会場の喧騒は壁越しに遠く、カーペットは足音を吸い、照明はやわらかい。人が多いはずのホテルなのに、ここだけが妙に無人で、自分の呼吸の音まで少しだけ大きく感じる。
私は歩きながら、さっき鏡の前で見た自分の顔を思い出していた。
アニメ化作家への憧れ。
若い受賞者への眩しさ。
売れていない作家への優越感。
酔った同業の無神経な一言に刺される、自分の中途半端な立ち位置。
全部、みっともなかった。
でも、全部、たぶん本当だった。
その本当を見たあとで、ではどうするのか。
会場へ戻って、また名刺交換の顔をするのか。
それとも、このまま少しだけロビーで時間を潰して、パーティーの後半をやり過ごすのか。
正直、後者でもよかった。
私はもう十分に削られていたし、これ以上この場の空気に身をさらす必要があるのかと問われれば、必ずしもそうでもない気がした。
だが、その時だった。
「佐伯先生」
背後から声がした。
私は反射的に振り返る。
そこにいたのは、さっき名刺交換をしたあのアニメ化作家だった。
私は一瞬、本気で言葉を失いかけた。
まさか廊下で二人きりになるとは思っていなかったからだ。
「……あ」
間の抜けた声が出る。
我ながら情けない。
相手はそれに特に気を悪くした様子もなく、小さく笑った。
「すみません、驚かせました」
「いえ、大丈夫です」
私は慌てて姿勢を整えた。
彼はさっき会場で見た時より少しだけ疲れて見えた。
いや、疲れているというより、ようやく周囲の目線から半歩だけ外れて、人間らしい顔に戻っているようにも見える。宴会場の中心では絶えず誰かに見られていた。ここでは、その視線の圧が少し薄い。
「少し休憩ですか」
私がそう聞くと、彼は苦笑した。
「そんな感じです」
その言い方に、私は少しだけ安心した。
完全に“成功者”の顔ではない。
少なくとも、今のこの人は、同じホテルの空気に少し疲れた人間として立っている。
「人、多いですよね」
私が言うと、彼はすぐに頷いた。
「多いですね。こういう場、ありがたいんですけど、やっぱりちょっと気を張るので」
ありがたいんですけど。
その接続詞が、ひどく本物に聞こえた。
私は壁際へ少し身体をずらし、廊下の流れを空けた。
彼も自然に少し寄る。
ロビーへ向かう人が二人、無言で通り過ぎていった。
「やっぱり、忙しいですか」
私は聞いた。
さっき会場で少しだけ聞いたことの続きを、ここでもう一歩だけ確かめたかったのだと思う。
彼は一瞬だけ黙ってから、少し笑った。
「忙しいですね」
そして、言葉を選ぶように続けた。
「いや、忙しいって言うとすごく雑なんですけど。打ち合わせも増えますし、確認も多いですし、向こうもこっちも“これで失敗できない”みたいな顔になるので」
私はその一言に、妙に現実味を覚えた。
これで失敗できない。
そうだろう。
アニメ化というのは、単に作品が広がるだけではない。その広がり方が大きいぶんだけ、周囲の期待も一気に重たくなる。編集も営業も宣伝も制作も、みんな少しずつ“次はもっとちゃんと”という顔になるのだろう。
「……ですよね」
私は小さく言った。
彼は少しだけ肩をすくめた。
「しかも、こっちも嬉しいんですよ。嬉しいから断れないし、頑張りたいとも思うんです」
「うん」
「でも、頑張りたいと、ちゃんとしんどいが同時に来るので、時々、気持ちの置き場所が分からなくなります」
私はそこで、ようやく少し深く息を吸った。
それは、かなり本音に近い言い方だった。
しかも、その本音は成功者の贅沢な愚痴というより、ただの人間の困り方に聞こえた。
頑張りたい。
でも、ちゃんとしんどい。
その二つが同時に来る。
それは何もアニメ化作家に限った話ではないのかもしれない。会社員を続けながら書く私にも、少し形を変えればまったく同じことがある。
新刊が動くのは嬉しい。
でも、次の企画も考えなければならない。
会社で頼られるのはありがたい。
でも、そのぶん夜は削られる。
コンテストの中間へ行けるのは嬉しい。
でも、その先で落ちればやはりしんどい。
頑張りたいと、ちゃんとしんどい。
その両立は、たぶん創作の近くにはいつもある。
「こういうこと、あんまり言えないですよね」
彼が少しだけ笑った。
その笑い方には、自嘲が少し混じっていた。
「言うと贅沢に聞こえることもありますし」
私は、トイレの鏡の前で思ったことを思い出していた。
成功者の疲れは、周囲から見れば“贅沢な悩み”として処理されやすい。
だから外では言いづらい。
会場で彼が少しだけ見せた疲れも、いまこうして廊下で口にしている本音も、その延長線上にあるのだろう。
「でも、たぶん本当なんだろうなと思います」
私はそう言った。
彼は少しだけ目を上げた。
それから、小さくうなずく。
「ありがとうございます」
その“ありがとうございます”は、さっき会場で交わした社交辞令のそれよりずっと軽かった。
軽いが、そのぶんだけ本物に近い気がした。
◇
少し沈黙が落ちた。
気まずくはない。
ただ、廊下の静けさが会話の輪郭を少しはっきりさせている。
私はそこでふと思った。
この人は、宴会場の中では象徴だった。
アニメ化作家という記号。
人を集め、空気を少し変え、私のような人間に“あちら側”を想像させる存在。
でもいま目の前にいるのは、象徴ではない。
ただ、ちょっと忙しくて、ちゃんと疲れていて、それでもまだ頑張りたいと思っている同業者だ。
その見え方の変化は、私の中の憧れを少しだけ別のものに変えた。
眩しさは消えない。
消えないが、絶対的ではなくなる。
神話ではなく、たどり着けば別の苦しさが待っている現実として見え始める。
それは幻滅ではない。
むしろ、少しだけ希望に近いのかもしれなかった。
完全に遠いものより、苦しさごと人間的なもののほうが、いつか手が届くかもしれないと思えるからだ。
「先生は、今シリーズ続いてるんですよね」
彼がふいにそう言った。
「はい。ありがたいことに」
「続いてる人、やっぱりすごいです」
私は少しだけ苦笑した。
若い受賞者にも似たようなことを言われたばかりだ。
立場が変わると、人の見え方は本当に変わる。
「いや、続くとそれはそれで別の怖さもありますよ」
私はさっき彼からもらった言葉に近いものを、そのまま少し返した。
彼は小さく笑った。
「ですよね」
それだけで、妙に会話が整った気がした。
成功している人にも別の怖さがある。
続いている人にも別の怖さがある。
若い受賞者にも、たぶんまだ別の怖さが待っている。
誰もが何かしら別のしんどさを抱えている。
それを比べても意味はない。
でも、知っているだけで少しだけ楽になる。
◇
ロビーのほうから、また誰かの足音が近づいてきた。
会場の喧騒が少しだけ強く聞こえる。
もう戻る時間なのだろう。
彼は壁から身体を離し、ジャケットの裾を軽く整えた。
「すみません、ちょっと楽になりました」
そう言って笑う。
その笑い方は、会場の中心にいた時より少し柔らかかった。
「こちらこそ」
私はそう返した。
「なんというか……」
言葉を探す。
気の利いたことを言いたかったが、結局、いちばん本音に近いところへ落ち着いた。
「思ってたより、ちゃんとしんどそうで少し安心しました」
言ってから、少しだけまずいかと思った。
だが彼は一瞬きょとんとしたあとで、声を出して笑った。
「それ、すごい正直ですね」
「すみません」
「いや、いいです。むしろありがたいです」
彼はそう言いながら、少しだけ顔を緩めた。
「成功してる人は何もかも余裕あるんだろう、みたいに見られるのって、正直いちばんしんどいので」
私はその一言を聞いて、胸のどこかが静かにほどけるのを感じた。
そうか。
この人も、ちゃんと“見られ方”に疲れているのだ。
アニメ化作家。
成功者。
あちら側の人。
その記号で見られ続けること自体が、別の重さになる。
たしかに、それはしんどいだろう。
私は小さくうなずいた。
「なるほど」
彼も一度だけ頷く。
それで、会話は自然に終わった。
「じゃあ、戻りましょうか」
彼が言う。
「そうですね」
私はそう答えた。
◇
宴会場へ戻る扉の前で、私はほんの一瞬だけ立ち止まった。
さっきまでの私は、この場の序列や空気に少し飲まれていた。
アニメ化作家は遠い中心で、そこへ行けない自分は半端な位置にいて、酔った同業の一言はそれをさらに雑に突いてきた。
でも、いまは少しだけ違う。
アニメ化作家はやはり眩しい。
羨ましい。
あそこへ行きたい気持ちも消えていない。
ただ、その眩しさの向こうに、人間の疲れや重圧が見えた。
成功はゴールではなく、たぶん別のしんどさの入口なのだ。
それを知れただけでも、今夜ここへ来た意味はあったのかもしれない。
私は扉のノブへ手をかけた。
会場の光がまたこちらへ漏れてくる。
まだあそこへ戻る。
戻って、また名刺交換をし、少しだけ笑い、少しだけ比べて、少しだけ疲れるのだろう。
でも、さっきよりは少しだけ落ち着いて戻れそうだった。
成功者も、ちゃんとしんどそうだった。
その事実は、私の劣等感を全部消してはくれない。
けれど、憧れを少しだけ現実に引き戻してくれる。
それだけで、人はもう少しだけ前を向けるのかもしれない。




