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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第43話 売れている人も、ちゃんとしんどそうだった

 トイレを出て、ホテルの静かな廊下を歩いているうちに、心拍は少しずつ落ち着いてきた。


 会場へ戻るには、まだ数十歩ある。

 数十歩しかないのに、そのあいだだけ別の場所へいるみたいだった。宴会場の喧騒は壁越しに遠く、カーペットは足音を吸い、照明はやわらかい。人が多いはずのホテルなのに、ここだけが妙に無人で、自分の呼吸の音まで少しだけ大きく感じる。


 私は歩きながら、さっき鏡の前で見た自分の顔を思い出していた。


 アニメ化作家への憧れ。

 若い受賞者への眩しさ。

 売れていない作家への優越感。

 酔った同業の無神経な一言に刺される、自分の中途半端な立ち位置。


 全部、みっともなかった。

 でも、全部、たぶん本当だった。


 その本当を見たあとで、ではどうするのか。

 会場へ戻って、また名刺交換の顔をするのか。

 それとも、このまま少しだけロビーで時間を潰して、パーティーの後半をやり過ごすのか。


 正直、後者でもよかった。

 私はもう十分に削られていたし、これ以上この場の空気に身をさらす必要があるのかと問われれば、必ずしもそうでもない気がした。


 だが、その時だった。


「佐伯先生」


 背後から声がした。


 私は反射的に振り返る。

 そこにいたのは、さっき名刺交換をしたあのアニメ化作家だった。


 私は一瞬、本気で言葉を失いかけた。

 まさか廊下で二人きりになるとは思っていなかったからだ。


「……あ」


 間の抜けた声が出る。

 我ながら情けない。


 相手はそれに特に気を悪くした様子もなく、小さく笑った。


「すみません、驚かせました」


「いえ、大丈夫です」


 私は慌てて姿勢を整えた。


 彼はさっき会場で見た時より少しだけ疲れて見えた。

 いや、疲れているというより、ようやく周囲の目線から半歩だけ外れて、人間らしい顔に戻っているようにも見える。宴会場の中心では絶えず誰かに見られていた。ここでは、その視線の圧が少し薄い。


「少し休憩ですか」


 私がそう聞くと、彼は苦笑した。


「そんな感じです」


 その言い方に、私は少しだけ安心した。

 完全に“成功者”の顔ではない。

 少なくとも、今のこの人は、同じホテルの空気に少し疲れた人間として立っている。


「人、多いですよね」


 私が言うと、彼はすぐに頷いた。


「多いですね。こういう場、ありがたいんですけど、やっぱりちょっと気を張るので」


 ありがたいんですけど。

 その接続詞が、ひどく本物に聞こえた。


 私は壁際へ少し身体をずらし、廊下の流れを空けた。

 彼も自然に少し寄る。

 ロビーへ向かう人が二人、無言で通り過ぎていった。


「やっぱり、忙しいですか」


 私は聞いた。

 さっき会場で少しだけ聞いたことの続きを、ここでもう一歩だけ確かめたかったのだと思う。


 彼は一瞬だけ黙ってから、少し笑った。


「忙しいですね」


 そして、言葉を選ぶように続けた。


「いや、忙しいって言うとすごく雑なんですけど。打ち合わせも増えますし、確認も多いですし、向こうもこっちも“これで失敗できない”みたいな顔になるので」


 私はその一言に、妙に現実味を覚えた。


 これで失敗できない。


 そうだろう。

 アニメ化というのは、単に作品が広がるだけではない。その広がり方が大きいぶんだけ、周囲の期待も一気に重たくなる。編集も営業も宣伝も制作も、みんな少しずつ“次はもっとちゃんと”という顔になるのだろう。


「……ですよね」


 私は小さく言った。


 彼は少しだけ肩をすくめた。


「しかも、こっちも嬉しいんですよ。嬉しいから断れないし、頑張りたいとも思うんです」


「うん」


「でも、頑張りたいと、ちゃんとしんどいが同時に来るので、時々、気持ちの置き場所が分からなくなります」


 私はそこで、ようやく少し深く息を吸った。


 それは、かなり本音に近い言い方だった。

 しかも、その本音は成功者の贅沢な愚痴というより、ただの人間の困り方に聞こえた。


 頑張りたい。

 でも、ちゃんとしんどい。


 その二つが同時に来る。

 それは何もアニメ化作家に限った話ではないのかもしれない。会社員を続けながら書く私にも、少し形を変えればまったく同じことがある。


 新刊が動くのは嬉しい。

 でも、次の企画も考えなければならない。

 会社で頼られるのはありがたい。

 でも、そのぶん夜は削られる。

 コンテストの中間へ行けるのは嬉しい。

 でも、その先で落ちればやはりしんどい。


 頑張りたいと、ちゃんとしんどい。

 その両立は、たぶん創作の近くにはいつもある。


「こういうこと、あんまり言えないですよね」


 彼が少しだけ笑った。

 その笑い方には、自嘲が少し混じっていた。


「言うと贅沢に聞こえることもありますし」


 私は、トイレの鏡の前で思ったことを思い出していた。

 成功者の疲れは、周囲から見れば“贅沢な悩み”として処理されやすい。

 だから外では言いづらい。

 会場で彼が少しだけ見せた疲れも、いまこうして廊下で口にしている本音も、その延長線上にあるのだろう。


「でも、たぶん本当なんだろうなと思います」


 私はそう言った。


 彼は少しだけ目を上げた。

 それから、小さくうなずく。


「ありがとうございます」


 その“ありがとうございます”は、さっき会場で交わした社交辞令のそれよりずっと軽かった。

 軽いが、そのぶんだけ本物に近い気がした。


     ◇


 少し沈黙が落ちた。


 気まずくはない。

 ただ、廊下の静けさが会話の輪郭を少しはっきりさせている。


 私はそこでふと思った。

 この人は、宴会場の中では象徴だった。

 アニメ化作家という記号。

 人を集め、空気を少し変え、私のような人間に“あちら側”を想像させる存在。


 でもいま目の前にいるのは、象徴ではない。

 ただ、ちょっと忙しくて、ちゃんと疲れていて、それでもまだ頑張りたいと思っている同業者だ。


 その見え方の変化は、私の中の憧れを少しだけ別のものに変えた。


 眩しさは消えない。

 消えないが、絶対的ではなくなる。

 神話ではなく、たどり着けば別の苦しさが待っている現実として見え始める。


 それは幻滅ではない。

 むしろ、少しだけ希望に近いのかもしれなかった。


 完全に遠いものより、苦しさごと人間的なもののほうが、いつか手が届くかもしれないと思えるからだ。


「先生は、今シリーズ続いてるんですよね」


 彼がふいにそう言った。


「はい。ありがたいことに」


「続いてる人、やっぱりすごいです」


 私は少しだけ苦笑した。

 若い受賞者にも似たようなことを言われたばかりだ。

 立場が変わると、人の見え方は本当に変わる。


「いや、続くとそれはそれで別の怖さもありますよ」


 私はさっき彼からもらった言葉に近いものを、そのまま少し返した。


 彼は小さく笑った。

「ですよね」


 それだけで、妙に会話が整った気がした。


 成功している人にも別の怖さがある。

 続いている人にも別の怖さがある。

 若い受賞者にも、たぶんまだ別の怖さが待っている。

 誰もが何かしら別のしんどさを抱えている。


 それを比べても意味はない。

 でも、知っているだけで少しだけ楽になる。


     ◇


 ロビーのほうから、また誰かの足音が近づいてきた。


 会場の喧騒が少しだけ強く聞こえる。

 もう戻る時間なのだろう。


 彼は壁から身体を離し、ジャケットの裾を軽く整えた。


「すみません、ちょっと楽になりました」


 そう言って笑う。

 その笑い方は、会場の中心にいた時より少し柔らかかった。


「こちらこそ」


 私はそう返した。

「なんというか……」


 言葉を探す。

 気の利いたことを言いたかったが、結局、いちばん本音に近いところへ落ち着いた。


「思ってたより、ちゃんとしんどそうで少し安心しました」


 言ってから、少しだけまずいかと思った。

 だが彼は一瞬きょとんとしたあとで、声を出して笑った。


「それ、すごい正直ですね」


「すみません」


「いや、いいです。むしろありがたいです」


 彼はそう言いながら、少しだけ顔を緩めた。

「成功してる人は何もかも余裕あるんだろう、みたいに見られるのって、正直いちばんしんどいので」


 私はその一言を聞いて、胸のどこかが静かにほどけるのを感じた。


 そうか。

 この人も、ちゃんと“見られ方”に疲れているのだ。


 アニメ化作家。

 成功者。

 あちら側の人。


 その記号で見られ続けること自体が、別の重さになる。

 たしかに、それはしんどいだろう。


 私は小さくうなずいた。

「なるほど」


 彼も一度だけ頷く。

 それで、会話は自然に終わった。


「じゃあ、戻りましょうか」


 彼が言う。


「そうですね」


 私はそう答えた。


     ◇


 宴会場へ戻る扉の前で、私はほんの一瞬だけ立ち止まった。


 さっきまでの私は、この場の序列や空気に少し飲まれていた。

 アニメ化作家は遠い中心で、そこへ行けない自分は半端な位置にいて、酔った同業の一言はそれをさらに雑に突いてきた。


 でも、いまは少しだけ違う。


 アニメ化作家はやはり眩しい。

 羨ましい。

 あそこへ行きたい気持ちも消えていない。


 ただ、その眩しさの向こうに、人間の疲れや重圧が見えた。

 成功はゴールではなく、たぶん別のしんどさの入口なのだ。


 それを知れただけでも、今夜ここへ来た意味はあったのかもしれない。


 私は扉のノブへ手をかけた。

 会場の光がまたこちらへ漏れてくる。


 まだあそこへ戻る。

 戻って、また名刺交換をし、少しだけ笑い、少しだけ比べて、少しだけ疲れるのだろう。


 でも、さっきよりは少しだけ落ち着いて戻れそうだった。


 成功者も、ちゃんとしんどそうだった。

 その事実は、私の劣等感を全部消してはくれない。

 けれど、憧れを少しだけ現実に引き戻してくれる。


 それだけで、人はもう少しだけ前を向けるのかもしれない。

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