第42話 ホテルのトイレで、中年作家は少しだけ惨めになる
ホテルの化粧室は、たいてい必要以上にきれいだ。
床は光りすぎない程度に磨かれていて、洗面台の大理石は冷たく、鏡は人を少しだけ上品に映す。ハンドソープの香りまで、会社のトイレや駅の洗面所とは違う。静かで、整っていて、どこか現実味が薄い。
都内一流ホテルのそれも、やはりそうだった。
宴会場の外へ出て、廊下を曲がり、案内表示に従ってドアを押す。中には誰もいなかった。白い照明が均一で、足音だけがやけに響く。私は洗面台の前に立ち、水を出す前に、まず鏡の中の自分を見た。
そこにいたのは、少しだけ疲れた中年男だった。
ネイビーのスーツ。
ホテル仕様に少しだけ整えた髪。
胸元には作家名の名札。
でも、顔つきはどう見ても“この場の中心にいる人間”ではない。
さっきの無神経な一言が、まだ胸の奥に残っていた。
オリコンに入った割に、アニメ化はまだなんですね。
爆発的に売れてる感じでもないですよね。
安心しました。
私は蛇口をひねり、水を両手に受けて顔を軽く撫でた。
冷たい。
その冷たさが、少しだけ気持ちを現実へ戻す。
でも、戻った先の現実は、さっきより少しだけ嫌だった。
私は鏡を見ながら、ようやく認めた。
刺さったのだ。
ちゃんと。
あの男の言葉は雑だった。
失礼だった。
酒も少し入っていたのだろう。
だから大人としては笑って流すしかないし、実際そうした。
だが、流したあとでこうして一人になると、きれいに流れきってはいないことが分かる。
なぜなら、どこか事実だからだ。
私はアニメ化していない。
シリーズは続いているが、爆発的に売れているわけでもない。
営業にとっては“いい位置”かもしれない。
若い受賞者にとっては“ちゃんと続いている人”かもしれない。
でも、業界全体の中で見れば、私はたぶん“そこそこやれているが、圧倒的ではない人”なのだ。
その中途半端な立ち位置を、酔った作家に雑に言い当てられた。
だからこそ、余計に痛い。
◇
私はペーパータオルを一枚取り、濡れた指先を拭きながら、さっきまでの会場の風景を思い返していた。
アニメ化作家の周りの輪。
若い受賞者の未来の顔。
売れていない作家の早口の近況報告。
営業の“格”を見る目。
そして、その全部を見ながら揺れていた自分。
憧れていた。
かなり素直に。
アニメ化作家を見て、あそこへ行きたいと思った。
会場の空気が勝手に一段変わるあの場所へ、自分の名前で立ちたいと思った。
若い受賞者を見て、眩しいと思った。
あの軽さ、あのまっすぐさ、まだ使っていない未来を顔に残した感じが羨ましかった。
売れていない作家を前にしては、少しだけ優越感を抱いた。
自分のシリーズは少なくとも動いている、その事実にひどく小さな安心を覚えてしまった。
そして今、酔った作家の一言に刺されて、自分がまだそこまでではないことも改めて思い知っている。
全部、醜い。
いや、醜いというより、あまりに人間的すぎるのかもしれない。
作家という仕事をしていると、もっと純粋でいたい気持ちがどこかにある。
作品のことだけ考え、
文章のことだけで苦しみ、
読者のことだけを真っ直ぐに思っていたい。
でも現実には、そうではない。
売れているかどうかを気にする。
アニメ化が羨ましい。
若い受賞者に刺される。
同業の苦戦に少し安心する。
そして、自分より少し上の位置の人間に無神経なことを言われると、ちゃんと傷つく。
それを全部ひっくるめて、いまの自分なのだ。
私は鏡の中の自分を見ながら、少しだけ笑った。
苦い笑いだ。
「嫌な仕事だな」
声には出さなかったが、そう思った。
嫌な仕事。
いや、好きな仕事だからこそ嫌なのだろう。
好きで、憧れて、しがみついているからこそ、こういう夜に人は自分の見栄や醜さまで見せられる。
◇
個室のドアが一つ開き、年配の男性が出てきた。
私は反射的に少し姿勢を直した。
その人は私のことなど気にも留めず、手を洗って去っていく。ホテルのトイレは、感情を整理する場所としては上等だが、もちろん私だけのためにあるわけではない。
私は少しだけ端へ寄り、鏡の前からずれた。
それでも頭の中の整理は止まらない。
たぶん私は、今日のこのパーティーで、ようやく自分がまだ“あっち側”を見ていることを認めたのだと思う。
若い頃みたいに無邪気ではない。
アニメ化したい、売れたい、業界の中心へ行きたい、なんて言葉をこの年齢で口にすると、どこか気恥ずかしい。会社員もやっていて、シリーズも何冊か出していて、生活もある人間が、なお“もっと”を欲しがるのは、少し往生際が悪く見えるかもしれない。
でも、見ている。
私はまだ見ている。
アニメ化作家の輪を見て、あそこへ行きたいと思う。
営業の扱いの差を見て、悔しいと思う。
若い受賞者の未来の顔に、まぶしさを感じる。
つまり私は、まだ終わっていないと思いたいのだ。
途中であることを、まだ言い訳ではなく希望として持っていたいのだ。
そのことが、いま鏡の前では少しだけ惨めに見える。
四十七歳の中年男が、
一流ホテルの静かなトイレで、
名札をつけたまま、
“まだあっち側を見ている”自分を確認している。
傍から見れば、かなり滑稽かもしれない。
だが、滑稽だとしても、それが本音なのだから仕方がない。
◇
私はもう一度だけ水で手を洗った。
手を洗う、という動作は不思議だ。
何かが本当に落ちるわけではないのに、少しだけ仕切り直せる気がする。
酔った作家の言葉も、
自分の優越感も、
憧れも焦りも、
洗えば流れるわけではない。
でも、少しだけ整う。
少なくとも、会場へ戻れるくらいには。
ハンドタオルで指先を拭きながら、私は心の中で静かに認めた。
私は、アニメ化作家が羨ましい。
若い受賞者も羨ましい。
売れていない作家に対して少しだけ優越感を持った。
そのくせ、自分より少し上から雑に扱われると、ちゃんと傷つく。
嫌な人間だ。
でも、それが今の私なのだろう。
だったら、綺麗ぶるより先に、その醜さをちゃんと見ておいたほうがいい。
創作に変えるためにも。
少なくとも、なかったことにして会場へ戻るよりは、そのほうが少しだけ誠実だと思えた。
私は胸元の名札へ目を落とした。
ペンネーム。
ホテルの照明の下では、少しだけ立派に見える紙切れ。
でも、その名札をつけている人間は、いまこうしてかなり中途半端だ。
トップでもなく、
無名でもなく、
若くもなく、
完全には諦めてもいない。
その半端な位置で、
見栄も惨めさも抱えたまま、
それでもまだあちら側を見ている。
私は鏡の中の自分へ、小さく苦笑した。
少しだけ情けない。
でも、少しだけ正直でもある。
「……まあ、そうだよな」
今度は本当に、声に出していた。
ホテルの静かなトイレの中で、その声はすぐに薄く吸われた。
◇
トイレのドアへ向かう前に、私は最後にもう一度だけ鏡を見た。
顔は、さっきより少しましだ。
完全には立て直せていないだろうが、少なくとも会場へ戻ってまた挨拶の顔ができる程度には整っている。
私はそこで、奇妙なくらい静かな気持ちになっていた。
成功していないわけではない。
でも、まだ足りない。
足りないことを知っていて、
なお、そこへ届きたいと思っている。
その欲の形が、いまはもう少しだけはっきりした。
隠しても、消えない。
なら、いっそちゃんと持っていくしかないのだろう。
憧れも、
見栄も、
惨めさも、
全部抱えたまま。
ホテルのドアノブへ手を伸ばしながら、私は思った。
こういう夜のあとで書くものには、たぶん少しだけ余計な生々しさが混ざる。
その生々しさを、今夜は嫌いになりきれなかった。
私は静かな廊下へ出た。
会場のほうから、遠くに人の声が戻ってくる。
そこへまた戻るのだ。
作家としての名札をつけたまま。
中年男としての醜さも抱えたまま。
でも、それでいいのかもしれないと、今夜は少しだけ思えた。




