第41話 あなたの本、実はそんなに売れてませんよね
パーティー会場の空気は、油断すると急に息苦しくなる。
ついさっきまで、私は少し落ち着いていたはずだった。
アニメ化作家への憧れは憧れとして受け止めた。
若い受賞者の眩しさにも、少し違う角度から意味を見つけかけていた。
営業の目線が作家の格を数字で測ることも、今さら驚くような話ではないと整理できた。
つまり、私はこの華やかなホテルの宴会場の“残酷さ”に、ある程度は慣れ始めていたのだと思う。
だから、そのあとで不意に刺さる一言のほうが、余計に効く。
刺さる言葉というのは、たいてい丁寧な悪意ではなく、雑な無神経さの顔をしている。
◇
会場の中央寄りの丸テーブルで、高梨が営業の人間と話しているのが見えた。
私は少しだけ離れた場所で、新しいウーロン茶を受け取り、料理にはほとんど手をつけないまま立っていた。こういう場では、結局あまり食べられない。皿を持つと名刺交換がしにくいし、口に運ぶタイミングを間違えるとひどく間抜けに見える気がする。
だから、私はグラスだけを持っていた。
「佐伯先生、ですよね?」
声をかけてきたのは、四十代後半くらいの男だった。
作家だろう。
スーツ姿だが、ネクタイの結び方が少しだけ崩れている。ホテルの空気に慣れていないのか、それとも酒が少し入っているのか、その両方か。頬がほんのり赤い。目は細く笑っているが、笑い方の焦点が少しだけ雑だった。
「はい」
私は一応、穏やかな顔を作って返した。
男は名刺を差し出してきた。
名前に見覚えはあった。どこで見たのかはすぐに思い出せない。数年前に一冊か二冊、何かで話題になったことがあったかもしれない。あるいは、業界内でだけ名前を知っている類の人か。
「○○です。はじめまして」
「はじめまして、佐伯です」
私も名刺を返す。
男は名刺へ目を落とし、口元を少しだけ上げた。
「いやあ、お名前は知ってますよ。オリコンとか入られてましたもんね」
その言い方に、私はほんのわずかだけ違和感を覚えた。
褒めている、ようにも聞こえる。
だが、言葉の端に何か引っかかるものがある。
「ありがとうございます」
私は定型の返答をした。
男はグラスを持ったまま、少しこちらへ寄ってくる。
「でも、アニメ化とかはまだなんですよね」
私は一瞬だけ、顔の筋肉が止まるのを感じた。
まだ。
その二文字が、妙に生っぽかった。
“してないんですよね”ではない。
“まだ”だ。
つまり、いつかはする前提みたいな顔をしながら、同時に“いまはそこまでじゃないですよね”と線を引く言い方。
私は笑った。
たぶん、外から見ればちゃんと笑えていたと思う。
「そうですね。まだです」
それしかない。
ここで変に言い訳をしたら負けだし、気にしていないふりをしすぎても不自然だ。
男は私の返事に気をよくしたのか、少しだけ勢いづいた。
「いや、でもああいうのって、正直、売上だけじゃないですもんね」
「そうですね」
「作品のタイミングとか、レーベルの押し方とか、いろいろあるじゃないですか」
「ありますね」
ここまではまだ会話として成立している。
成立しているが、私はもう少しだけ身構えていた。
こういう人間は、余計なことをあと一言足す。
案の定、男はグラスの氷を鳴らしながら、笑ったまま言った。
「でも実際、佐伯先生の本って、そんなに爆発的に売れてる感じでもないですよね」
私はその瞬間、グラスを持つ指にほんの少しだけ力が入った。
そんなに爆発的に売れてる感じでもない。
それは、事実として言えばその通りだ。
だから厄介なのだ。
アニメ化作家みたいに圧倒的な数字ではない。
シリーズはちゃんと動いているが、社会現象でもなければ大型メディア展開が約束される位置でもない。
営業は“いい位置”と言った。
若い受賞者は“ちゃんと続いてる人”として見た。
だが、この男は今、それを別の角度から言い直している。
あなたはまだ、そこまでではない。
その線引きを、酔った社交の雑さで口にしているのだ。
私は再び笑った。
笑うしかない。
「まあ、爆発はしてないですね」
私がそう返すと、男は妙に親しげに頷いた。
「ですよねえ。いや、なんか安心しました」
その一言で、今度は胸の奥が別の角度で刺された。
安心しました。
つまり彼は、私を“上すぎない作家”として見て安心したのだ。
自分より圧倒的に遠い場所の人間ではない、と確認して安心した。
それはたぶん、さっき私が売れていない作家に対して抱いた小さな優越感と、同じ種類の感情だ。
その鏡写しみたいな一言が、余計に痛かった。
◇
「長く続いてると、逆にしんどいですよね」
男はまだ喋っていた。
「なんか、売れてるんだか売れてないんだか、外から分かりづらい位置になるというか」
私は内心で少しだけ苦笑した。
ひどい言い方だ。
だが、これもまた事実に近いところがある。
だからこそ、怒ることもできない。
言い返すほどの品もない。
ただ、大人として笑って流すしかない。
「まあ、位置は微妙ですね」
私はそう言った。
自分でも驚くほど乾いた声だった。
「ですよねえ」
男はまた頷いた。
もう完全にこちらを“分かり合える側”へ置いている顔だった。
分かり合いたくはない。
だが、いまここでその距離を正すのはもっと面倒だ。
私はふと、自分が会社の会議で“この人とは話を早く切り上げたほうがいい”と判断する時と、まったく同じ冷静さを発動していることに気づいた。
創作の場なのに。
ホテルのパーティーなのに。
私は結局、営業管理課係長としての判断の仕方でこの会話を処理している。
少し可笑しくて、かなり情けない。
「○○先生のシリーズは、いまどうなんですか」
私は話を返した。
これは反撃ではなく、単なる退避だ。相手に喋らせて、そのあいだにこちらの感情を整える。
男は待ってましたとばかりに自分の近況を話し始めた。
新シリーズが苦戦していること。
編集部の方針と少し噛み合っていないこと。
今はwebでも別名義で動いていること。
アニメの話は一度あったが、流れたこと。
次で決めたいこと。
どれも、どこかで聞いたことのある話だ。
いや、聞いたことがあるどころか、私自身の未来のどこかにもあり得る話だろう。
だから本来なら、もっと共感してもいい。
もっと真面目に受け止めてもいい。
それなのに、いまの私は会話の半分を別のところで聞いている。
“実はそんなに売れてませんよね”という一言の残響だ。
それは事実の顔をしているぶんだけ、やっかいだった。
もっと露骨な悪意なら、まだ軽蔑できたかもしれない。
でも、これは違う。
ただの無神経さだ。
そして業界人なら誰もがどこかで知っている物差しを、雑に口へ出しただけだ。
だからこそ刺さる。
そして、だからこそ、大人は笑って流すしかない。
◇
会話を終えて男が別の輪へ去っていったあと、私はしばらくその場から動けなかった。
ウーロン茶の氷はほとんど溶けている。
ホテルの空調は少し強い。
さっきまで華やかだった会場の音が、急に少し遠く聞こえた。
私は自分の顔がどうなっているのか分からなくなった。
ちゃんと笑えていただろうか。
変な間はなかっただろうか。
「まあ、爆発はしてないですね」と言った時の声は、どれくらい乾いていたのか。
たぶん、大丈夫だったのだろう。
少なくとも周囲の誰も、こちらへ気を留めてはいない。
会場では相変わらず編集と営業と作家が笑い合い、アニメ化作家の輪は少しずつ人の顔を入れ替えている。
世界は何も止まっていない。
止まっていないからこそ、こちらも立ち尽くしてはいられない。
それでも、胸の奥には確実に何かが刺さっている。
オリコンに入った割に、アニメ化はまだなんですね。
爆発的に売れてる感じでもないですよね。
安心しました。
私はその言葉を心の中で並べてみて、ようやく分かった。
これは“嫉妬されている”のではない。
もっと生々しく、もっと中途半端な位置へ置かれているのだ。
圧倒的に羨ましい相手ではない。
でも、自分より少し上かもしれない。
だからこそ、相手の足元を一度だけ見て安心したい。
そういう扱い方。
そして、私はさっき別の作家に対して、ほんの少しだけ同じことをしてしまっていた。
そのことを思い出して、私は少しだけうんざりした。
この業界の夜は、鏡みたいだ。
人に向けた感情が、別の角度からすぐ自分へ返ってくる。
◇
私はグラスを持ったまま、会場の外へ向かった。
宴会場の扉を抜けると、ホテルの廊下は急に静かになる。
カーペットが足音を吸い、空調の音だけが遠くで鳴っている。壁の装飾も照明も上品だが、今の私には少しだけ冷たく見えた。
ロビーへ出る手前のベンチに、一瞬だけ座ろうかと思った。
だが、座ると本当に動けなくなりそうでやめた。
私はそのまま、ホテルのトイレの案内表示へ視線を向けた。
少し顔を洗いたかったし、鏡を見たかった。
いや、正直に言えば、“いまの自分がどういう顔をしているのか”を確認しないと、会場へ戻れそうになかったのだ。
歩きながら、私は心の中で一つだけ思った。
大人だから笑って流した。
でも、ちゃんと刺さった。
それを認めたうえで、次にどうするかを考えなければいけない。
そういう夜なのだろう。




