第40話 営業は、作家の“格”を数字で見ている
華やかな場ほど、数字の匂いが消えない。
それは、作家になってから何度も感じてきたことだ。表紙が並ぶ書店でも、サイン会の控室でも、編集との打ち合わせの席でも、いつだってどこかに数字の気配がある。初速、重版、実売、部数、POS、通販順位、連れ、平台、在庫。言葉は柔らかくても、中身はいつも少しだけ冷たい。
出版社の周年パーティーのような場なら、なおさらだ。
シャンデリアの下で人は笑う。
ホテルスタッフは静かに皿を替える。
作家は名札をつけ、編集は少し社交用の顔をし、営業は普段よりもわずかに口角を上げる。
でも、その全部の下に、やはり数字がある。
若い受賞者と別れたあと、私は少しだけ会場の空気を違う目で見始めていた。
アニメ化作家への憧れ。
売れていない作家への優越感。
若い新人への焦りと、そこから逆に返ってきた敬意。
それらが一通り自分の中を通ったあとで、ようやく少し落ち着いて周囲を見られるようになったのだと思う。
そうなると、今度は別のものが見える。
営業の目線だ。
◇
「佐伯先生」
声をかけてきたのは、四十代後半くらいの男性だった。
スーツはきっちりしていて、ネクタイの結び目にも乱れがない。名札には営業部の肩書き。顔は知っている。何度か高梨との打ち合わせで名前が出たこともあるし、刊行前後の販促連携で一度だけオンラインで顔を合わせたこともあったはずだ。
「ご無沙汰しております」
私は頭を下げた。
「佐伯です」
「お久しぶりです。今シリーズ、引き続きいい位置ですね」
その一言が、いかにも営業らしかった。
いい作品ですね、ではない。
感動しました、でもない。
いい位置ですね。
私は思わず少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「静かなタイプの作品なのに、ちゃんと棚で残るのが強いですよね」
営業はそう言いながらグラスを持ち直した。
その話し方には悪意も冷たさもない。ただ、視点が明確に営業のものだった。
棚で残る。
強い。
位置。
作品の人格や、会話の温度や、人物の揺れ方ではなく、まず“市場の中でどう動いているか”として私のシリーズを見ている。
もちろん、それは当然だ。
この人の仕事はそういうものだし、商業で本を出している以上、私だってそれを他人事のようには言えない。
だが、ホテルの照明の下でその言葉を聞くと、少しだけ生々しかった。
「先生の本って、極端に派手ではないじゃないですか」
営業は続ける。
「でも、じわっと積む感じがあるので、書店さん側にも説明しやすいんです」
私はまた、「ありがとうございます」としか返せなかった。
じわっと積む感じ。
書店に説明しやすい。
どちらも褒め言葉だ。
だが、作家として胸が熱くなる種類の褒め方とは少し違う。
私は内心で思う。
営業は、作家の“格”をこうやって見ているのだろうな、と。
売れたか。
残るか。
次へ繋がるか。
説明しやすいか。
そこに人格は関係ない。
作品の善悪とも、必ずしも一致しない。
ただ、どう動いたか。
どこに置けるか。
それだけだ。
◇
「アニメのほうも、やっぱり空気違いますね」
私は少しだけ軽く言ってみた。
営業はその方向をちらりと見たあと、すぐに戻ってきた。
「違いますね」
その返事は、驚くほど迷いがなかった。
「やっぱり」
「営業的には、やっぱり一段変わります。書店さんへの伝わり方も、他メディアの波及も、やっぱり別物です」
別物。
そうだろう。
頭では分かっていた。
だが、営業の口からここまできっぱり言われると、やはり少しだけ刺さる。
「もちろん、アニメ化したから全部うまくいくわけではないですけど」と営業は補足する。
「でも、“そのタイトルをどう扱うか”の前提が最初から違うんです」
私はグラスの縁を指でなぞった。
冷たい。
その冷たさが、少しだけ現実をはっきりさせる。
前提が違う。
つまり、同じ作家でも、同じ出版社でも、アニメ化という一つの事実があるだけで、営業の目から見た扱いは一段変わる。
ホテルの照明が会場の空気を変えるように、アニメ化という実績は、作品そのものの見え方まで変えてしまうのだろう。
「でも、佐伯先生の今の位置もかなりありがたいですよ」
営業はそう続けた。
「無理に煽らなくても一定層に届く作品って、実はかなり大事なので」
私は小さく笑った。
「それ、なんとなく褒められてるのは分かるんですけど、ちょっと複雑ですね」
営業も笑う。
「すみません。営業の言い方だと、どうしてもそうなります」
いや、たぶんそれでいいのだ。
むしろ、そういう言い方を聞ける場なのだろう、ここは。
作家同士なら見栄が混じる。
編集なら期待と課題が混ざる。
読者なら感情が先に来る。
営業だけが、比較的まっすぐに“市場の位置”を言葉にする。
その率直さは、時々ひどく冷たく見える。
でも、同時にかなり正確でもある。
◇
営業と別れたあと、私は会場を少し歩いた。
書店関係者らしい人たちが、あるテーブルの近くで話している。若い新人作家には“フレッシュでいいですね”という言葉が飛び、アニメ化作家の周りにはやはり人が切れない。少し年上のベテランには、編集が落ち着いた距離で話しかけている。苦戦していそうな作家は、輪に入りかけては少しだけ外れる。
その全部を見ながら、私はようやく理解した。
この場の華やかさは、本当に華やかなだけではない。
数字が社交の顔をして歩いている場所なのだ。
誰がいま上がっているのか。
誰が次を期待されているのか。
誰が“ちゃんと続いている人”として扱われているのか。
誰が少しずつ輪の外へ押し出されているのか。
それが、会話の長さや、笑い方の明るさや、編集の立ち位置に滲んでいる。
私はその中で、自分がどこにいるのかを考えた。
トップではない。
アニメ化もしていない。
爆発的に売れているわけでもない。
でも、完全に端でもない。
営業は私のシリーズを“いい位置”と言った。
若い受賞者は“ちゃんと続いている人”として見ていた。
高梨も、新企画に対してかなり前向きだった。
つまり私は、たぶんこの場では悪くはない位置にいる。
それは少し安心でもあり、
少し物足りなくもある。
いちばんつらいのは、完全に外にいることかもしれない。
でも次につらいのは、内側にはいるが、中心ではない位置なのかもしれない。
届いていないわけではない。
だが、圧倒的でもない。
その微妙な場所に、私はもう長く立っている。
第二章でも散々向き合った、その“中途半端な現在地”が、ここでも別の形で見えていた。
◇
会場の端の鏡張りの壁際で、私は一度だけ立ち止まった。
胸元の名札。
ペンネーム。
ホテルの照明の下で、それは会社の名刺より少しだけ立派に見える。
私はその名札を見下ろしながら、営業の言葉を思い返していた。
静かなタイプの作品なのに、棚で残る。
書店さんにも説明しやすい。
今シリーズ、いい位置。
どれも、たしかに私の作品の一面なのだろう。
読者の会話や温度に寄りかかりながら、でも商業としてもかろうじてちゃんと立っている。
悪くない。
でも、圧倒的でもない。
私はその微妙さに、少しだけ苦笑した。
若い頃の私なら、この位置に来られただけで十分だったかもしれない。
むしろ、そこへ至る前の頃の私は、こういう場に呼ばれる側であること自体を夢みたいに思っていただろう。
それが今は、呼ばれてもなお、自分の格を測ってしまう。
みっともない。
でも、自然でもある。
出版社のパーティーというのは、たぶんそういう場所なのだ。
華やかな照明の下で、作家は少しだけ立派に見える。
だが同時に、その立派さがどの程度“数字に支えられているのか”も、関係者にはちゃんと見えている。
きれいな夜だ。
でも、中身はかなり商業だ。
その現実を、私は思ったより嫌いではなかった。
少なくとも、綺麗事だけで包まれるよりはずっと信頼できる。
嫌でも数字で見られる。
でも、それでもここに呼ばれている。
その事実だけは、たぶん今の私の現在地としてちゃんと受け取っていいのだろう。
◇
私は名札を指先で軽く触れた。
紙は薄い。
ホテルの照明の下では、それでも少しだけ“格”みたいなものを持って見える。
だがその格は、絶対的なものではない。
売上で揺れ、
メディア展開で動き、
新企画の成否でまた変わる。
今日の私はこの位置だ。
明日も同じとは限らない。
そう思うと、少しだけ怖い。
でも、その不安ごと、たぶん作家なのだろう。
私はウーロン茶を一口飲み、名札から手を離した。
営業は、作家の格を数字で見る。
それは冷たい。
でも、だからこそごまかしがない。
私はその現実を胸のどこかへしまいながら、もう一度だけ会場の中心を見た。
アニメ化作家の輪はまだ明るい。
若い受賞者は別の編集と話している。
苦戦している同業の姿はもう見えない。
そして私は、まだこのどこにもなりきれていない。
そのことが、少しだけ悔しくて、
でも少しだけ、次の企画へ火をつける気もしていた。




