第39話 若い新人作家は、未来の顔をしている
若い人間の顔には、まだ使っていない時間が残っている。
それは肌の張りとか、目の明るさとか、そういう単純な話ではない。もっと別のところだ。自分がこれからどこまで行けるのかを、まだ完全には決めていない顔。うまくいく前提で世界を見ているわけではないのに、それでも“ここから先がある”ことを疑い切っていない顔。
出版社のパーティー会場でそういう顔を見ると、私はいつも少しだけ立ち止まってしまう。
アニメ化作家を見た時の憧れとは、また違う。
あちらはもう一つの到達点だ。
対して若い新人作家の顔は、まだ途中にある。途中にあるくせに、こちらにはもう持てない軽さで前を向いている。その軽さが、時々ひどく眩しい。
売れていない作家との会話を終えたあと、私は会場の端で少しだけ気持ちを立て直していた。
ウーロン茶のグラスは新しくなっている。
ホテルの照明は相変わらず人を少しだけ立派に見せる。
だが、私の内側にはさっき見た自分の嫌な部分がまだ残っていた。
アニメ化作家への憧れ。
苦戦している同業への優越感。
その両方をちゃんと持っている自分。
少しだけ惨めだ。
だが、惨めだと分かったうえでまだこの場に立っているしかない。
私は会場の輪をぼんやり眺めていた。
編集の笑い方、
営業の立ち位置、
作家同士の距離感。
その中で、一つだけ空気の種類が少し違う輪が目に入った。
若い。
それが最初の印象だった。
輪の中心にいるのは、二十代前半くらいの男性だった。黒のジャケットに白いシャツ、ネクタイはしていない。髪は整えているが、いかにも“ちゃんとした場だからそうしてきた”という感じで、まだ服の着られ方のほうが彼に追いついていない。
けれど、表情は明るかった。
いや、単純に明るいというより、まだ自分の未来を疑い切っていない人間の顔だった。
私はその顔に、少しだけ目を奪われた。
「今年の受賞者ですね」
横から高梨が小さく言った。
私は視線を戻さないまま聞き返す。
「そうなのか」
「はい。初受賞で、そのまま書籍化。たしか二十四か二十五くらいだったと思います」
二十四。
その数字は、今の私にはもう完全に“別の時代”だった。
二十四歳の頃の私は何をしていただろう。
会社ではまだ末席で、上司の機嫌と会議の資料に振り回され、夜はどうにか書いて、たまに新人賞へ原稿を出して、一次通過の通知だけで無意味に夜更かししていた気がする。
あの頃の私に、このホテルのパーティー会場で名札をつけて立っている未来が想像できただろうか。
たぶん、できなかった。
そして今、私はその二十四歳の受賞者を見る側にいる。
時間というのは、不思議なくらい静かに立場を変える。
◇
「紹介します?」
高梨が聞いた。
私は一瞬だけ迷った。
若い受賞者。
そう聞くだけで、胸の奥に少し複雑な感情が生まれる。
眩しい。
羨ましい。
でも、だからといって近づきたくないわけでもない。
むしろ、ちゃんと話してみたい気もした。
自分がもう持っていない軽さを、少しだけ近くで見てみたかったのかもしれない。
「頼む」
私はそう言った。
高梨がうなずき、輪の端へ自然に入る。私はその後ろについていった。さっきアニメ化作家のところへ行った時ほどの緊張はなかった。だが、別の意味で少しだけ居心地が悪い。成功者への憧れとは違う、自分の過去や失ったものへ向かう時の緊張に近い。
高梨が簡潔に紹介する。
「こちら、佐伯先生です。今うちでシリーズを続けていただいていて」
「で、こちらが今年の受賞作の○○先生」
若い男が、少しだけ目を大きくした。
「えっ、佐伯先生ですか」
私はその反応に、ほんの少しだけ戸惑う。
知っているのか。
それとも、“シリーズを続けている人”として名前を聞いたことがあるだけなのか。
「はじめまして」
私は名刺を差し出した。
「佐伯です」
男はすぐに両手で受け取り、自分の名刺も差し出した。
「はじめまして、○○です。あの、すみません、僕ほんとにお名前知ってます」
その“ほんとに”が少し面白くて、私は思わず笑いそうになった。
社交辞令の場で、“ほんとに”をつけてしまうあたりが若い。いや、若いというより、まだこの場での嘘のつき方が完成していないのだろう。
「そうなのか」
「はい。書店でずっと見てましたし、あと、うちの担当さんも“あのあたりのラインでちゃんと続いてる人はすごい”って言ってて」
その言い方に、私は少しだけ胸の奥が揺れた。
あのあたりのライン。
ちゃんと続いてる人。
それは、若い受賞者から見た私の位置なのだろう。
アニメ化作家から見れば、まだ途中の作家。
営業から見れば、そこそこ動く商品。
苦戦している同業から見れば、少しだけ上の人。
そして若い受賞者から見れば、“ちゃんと続いてる人”。
立場によって、人の見え方はこんなにも変わる。
「ありがとうございます」
私は素直にそう言った。
今度は本当に、素直だった。
男は少しだけ勢いづいて続けた。
「僕、まだ一冊目もこれからなので、シリーズで続いてる人ってほんとにすごいなと思ってて」
その言い方には、打算より先にまっすぐな敬意があった。
それが分かるから、こちらも変に卑屈にはなれない。
「いや、続いてるだけだよ」
私は苦笑しながら言った。
「続いてると、それはそれで別の悩みも出るし」
「そうですよね……」
男は真剣にうなずいた。
その反応もまた若い。こちらの言葉を、まだまっすぐ“先輩の助言”として受け取ってしまう感じがある。
私はそのまっすぐさに、少しだけ眩しさを覚えた。
◇
話してみると、彼は礼儀正しく、そして驚くほど変なところがなかった。
もっと浮かれているかもしれないと思っていた。
受賞したばかりの若者特有の、高揚感が前へ出すぎているかもしれないとも想像していた。
だが実際には、ちゃんと緊張していて、ちゃんと場をわきまえようとしていて、そのうえで“嬉しい”をまだ隠し切れていない顔をしている。
私はそれを見ていて、少しだけ安心した。
そして同時に、少しだけ刺された。
若いというのは、やはりそういうことなのだろう。
嬉しい時に嬉しそうな顔ができる。
緊張していても、その緊張ごと前へ出られる。
まだ“場慣れ”より“まっすぐさ”のほうが勝つ。
私にはもう、その軽さはない。
私は若い人間が悪い意味で苦手なわけではない。
むしろ仕事でも創作でも、まっすぐな若さに救われる場面はある。
ただ、そのまっすぐさを目の前にすると、自分が失ったものの形まで少しだけ見えてしまうのだ。
「パーティーって、こういうの初めてで」
彼が小さく笑う。
「めちゃくちゃ緊張してます」
「そう見えないな」
「いや、かなりしてます」
「でも、ちゃんとしてるよ」
私がそう言うと、彼は少しだけ照れたように笑った。
その反応を見ながら、私は心の中でまた少しだけ複雑になる。
眩しい。
ほんとうに眩しい。
でも、その眩しさは嫌味ではない。
むしろ、この場の華やかさにまだ完全に染まっていないぶんだけ、余計に強い。
「佐伯先生って、会社員もされてるんですよね」
彼が少しだけ声を潜めるように言った。
私は目を上げた。
「どこで聞いたの」
「担当さんづてに少しだけ……有名ですよ、業界だと」
有名、という言い方に私は少し苦笑した。
有名と言っても、ごく狭い範囲の話だろう。一般の読者がそんなことを知っているわけではない。だが、編集や作家のあいだでは“会社を続けながらシリーズを出している人”として薄く共有されているのかもしれない。
「大変ですよね」
彼が言う。
その言葉は、同情ではなく、率直な感想に聞こえた。
「大変だよ」
私は答えた。
「でも、慣れる」
「慣れるんですね」
「慣れたくないところまで慣れる」
彼はその返事を聞いて、小さく笑った。
私は自分の言い方が少しだけ中年っぽすぎた気がして、内心で苦笑する。
でも、それが本音だ。
会社も、執筆も、生活も、全部抱えたまま続ける人間は、たぶん“慣れたくないところまで慣れる”。
若い受賞者の顔を見ていると、自分がそういう種類の時間をもうずいぶん歩いてきたことが分かる。
◇
しばらく話しているうちに、私はふと気づいた。
彼は私が羨む“若さ”を持っている。
でも彼のほうは、私の持っている“継続”を見ている。
そのことが、妙に新鮮だった。
私はさっきまで、若い受賞者の顔にばかり目を奪われていた。
二十四歳とか二十五歳とか、そういう年齢で受賞して、ここへ呼ばれて、未来がまだ大きく開いて見える感じ。その軽さ、その眩しさ、そのまっすぐさ。
でも彼は彼で、こちらのことを“続いてる人”として見ていた。
若さとは違う種類の立ち位置。
もしかすると私は、そこへもう足をかけているのかもしれない。
トップではない。
アニメ化もしていない。
シリーズが爆発的に売れているわけでもない。
でも、“続けてここにいる人”としては、少なくとも若い受賞者の目に映っている。
その事実は、私の中の何かをほんの少しだけ静かにした。
若さがないことは、もう仕方がない。
失っていいものが少ないことも、戻らない。
だが、そのかわりに持ってしまった重さや継続や、途中で落ちずにここまで来た時間も、まったく無価値ではないのだろう。
それを、若い彼が無邪気に教えてくれている気がした。
「また、ぜひ」
彼が最後にそう言って頭を下げた。
その“また”は、さっきアニメ化作家に言われた“また”より、少しだけ本気に聞こえた。
「こちらこそ」
私はそう返した。
彼が別の輪へ呼ばれていく背中を見送りながら、私はグラスを一口飲んだ。
冷たい。
喉が少しだけ楽になる。
若い新人作家は、未来の顔をしている。
その眩しさはやはり羨ましい。
でも、その未来の顔から見た時、私は“続いてきた人”として映っている。
それは、今夜ここへ来る前の私にはなかった視点だった。




