第38話 売れていない作家の名刺は、少しだけ軽い
アニメ化作家の輪から離れたあと、私はしばらく会場の端でウーロン茶を飲んでいた。
ホテルの照明は相変わらずやわらかい。シャンデリアの光は人の顔色を少しよく見せ、白いクロスの丸テーブルは立食の雑然とした空気まで上品なものへ偽装する。グラスの中の氷が小さく鳴るたび、この場が仕事でもあり、祝祭でもあり、同時にひどく残酷な品評会でもあることを思い出す。
私はさっきの会話を反芻していた。
アニメ化作家は、思ったよりちゃんと疲れていた。
成功者の笑い方にも、目元の影にも、人間らしい重さがあった。
だからといって憧れが消えるわけではない。むしろ、あの場所が“神話”ではなく“人間が立つ現実”として見えたぶんだけ、余計に行きたくなってしまう気もした。
そういうふうに気持ちを整理しかけていた時、背後から少し控えめな声がした。
「佐伯先生、ですよね」
振り返ると、男が一人立っていた。
年齢は私より少し下か、あるいは同じくらいかもしれない。痩せ型で、黒いスーツはきちんと着ているが、どこか布地のくたびれ方が早い。ネクタイの締め方も丁寧だが、会場に来る前に一度だけ深呼吸したような気配が残っている。眼鏡の奥の目は愛想よく笑おうとしているのに、口元のほうだけ少し緊張していた。
「はい」
私はグラスを持ち直しながら応じた。
「○○と申します」
差し出された名刺を受け取る。
名前には覚えがあった。
いや、名前というより、見覚えがある程度の覚え方だ。レーベルの新刊一覧で見たような気がする。帯か、営業資料か、書店の棚か、どこかで一度か二度。少なくとも、“ちゃんと読んでいます”とは言い切れない位置にいる名前だった。
それは、たぶん向こうから見た私も同じなのだろう。
「はじめまして。佐伯です」
私は自分の名刺を差し出した。
男は受け取りながら、少しだけ大きめに頷いた。
「お名前、前から拝見してました」
その言い方には、どこか勢いがあった。
礼儀としての“拝見してました”というより、自分がこの場で何とか会話を成立させなければという焦りが混じっている感じ。
「ありがとうございます」
私はそう返した。
「今のシリーズ、続いてますよね。すごいです」
男はやや早口だった。
「最近、書店でもよく見ますし、オリコンにも入られてましたよね」
オリコンにも。
その一言の置き方で、私はなんとなく相手の立ち位置を察した。
羨ましいのだろう。
たぶん、少し。
それは別に悪いことではない。私だってさっきアニメ化作家を見ながら、同じような種類の気持ちを抱えていたのだから。
「ありがたいです」
私はいつも通りの返事をした。
男はそれを待っていたように、自分の話へ入った。
「実は僕も、今シリーズをやってはいるんですけど」
名刺の下に小さく刷られた作品名を、彼は指先で軽く叩いた。
「なかなか厳しくて。二巻までは行ったんですが、そのあとちょっと止まってしまって」
私は小さく頷いた。
「そうなんですね」
相槌としては、それ以上でもそれ以下でもない。
だが男は、たぶんそれだけでは止まれなかったのだろう。
「いや、でも内容にはすごく自信あって。営業さんとの噛み合い方がちょっと悪かったというか、タイミングもあったと思うんです。最近またwebでも別のもの出してて、そっちはかなり反応もよくて」
私はそこで、少しだけ胸の奥が冷えるのを感じた。
ああ、と思う。
この感じか。
売れていない作家、という言い方は乱暴だ。
実際には、売れているか売れていないかはいつも段階的で、数字にも事情にも波がある。二巻まで出ている時点で、そもそも何もない人間ではない。出版社のパーティーへ呼ばれているのだから、それなりに“いる”側なのだ。
でも、この会話の手触りは確かにある。
必死さが、少しだけ前へ出すぎている。
自作の説明が、まだ聞かれてもいないのに増えていく。
「本当は自分はもっといける」という内心の補足が、言葉の裏でずっと鳴っている。
痛いほどわかる。
わかるから、少しだけつらい。
若い頃の私だって、こういう話し方をしていた時期があったのかもしれない。まだ十分に結果へなっていない自分を、言葉の量で補おうとする感じ。少しでも相手に“この人はちゃんとしている”と思わせたくて、聞かれていない情報まで足してしまう感じ。
だから本来なら、同情だけを感じるはずなのだ。
だが、そこで私は、自分の中にほんの少し別のものが混ざっていることに気づいてしまった。
優越感だ。
ごく小さい。
ごく嫌なやつだ。
でも、確かにある。
今の私のシリーズは少なくとも動いている。
オリコンにも入った。
高梨から次企画の話も来ている。
会社員を続けながらでも、商業の場からはまだ落ちていない。
その事実が、いま目の前で自作の現状を早口に説明しているこの男より、自分を一段だけ“上”へ置いてしまう。
私は内心でそれを感じた瞬間、少しだけ自分を嫌になった。
◇
「佐伯先生は、やっぱり担当さんとの連携がうまいんでしょうね」
男は笑って言った。
笑っているつもりなのだろうが、口元が少しだけ乾いている。
「いや、どうだろう」
私は曖昧に返した。
「なんというか、今のシリーズって“ちゃんと続く人の本”って感じがします」
その言い方に、私はほんの少しだけ引っかかった。
ちゃんと続く人。
たぶん褒めているのだ。
でも同時に、そこには自分との比較も混じっている。
私はグラスを持つ手を少しだけずらした。
冷たいはずのウーロン茶が、いまはあまり冷たく感じない。
「続くかどうかは、いろいろありますよ」
それしか言えなかった。
本当はもっと何か気の利いたことが言えればよかったのかもしれない。
運もあります、とか。
タイミングありますよね、とか。
あるいは、自分も次のことで苦労しているのだと、少しだけ正直に混ぜてもよかったのかもしれない。
でも、そのどれもが今の私には少し嘘くさく感じた。
なぜなら私は今、目の前の男を完全には対等に見られていないからだ。
そのことを、自分で知ってしまっているからだ。
男は「そうですよね」と何度か頷き、それからまた自分のweb投稿の話、担当との温度差、最近の書店事情の話を少しした。私は必要なだけ相槌を打ち、必要以上には踏み込まなかった。
会話は成立している。
だが、心のどこかは少しずつ疲れていく。
これはたぶん、相手の必死さに疲れているのではない。
その必死さを前にして、自分の中の嫌なものが見えてしまっていることに疲れているのだ。
やがて男は「またぜひ」と言って頭を下げ、別の輪のほうへ移っていった。
私はその背中を見送りながら、グラスの中の氷を一つだけ飲み込んだ。
冷たい。
その冷たさが、ようやく少しだけ頭を静かにした。
◇
会場の端へ移動して、私は壁際のテーブルにグラスを置いた。
そこから見える景色は、さっきまでとほとんど同じだ。
アニメ化作家の周りにはまだ人がいて、若い受賞者らしい顔つきの数人が笑っていて、営業や編集はそれぞれの“立場のある笑顔”を浮かべている。
何も変わっていない。
変わったのは、私の内側だけだ。
私は自分の名札を少しだけ見下ろした。
ペンネーム。
シンプルな印字。
ホテルの照明の下では、これも少しだけ立派に見える。
でも、その立派さの中で私は、たった今、自分の醜い部分も見てしまった。
アニメ化作家への憧れ。
若い受賞者への焦り。
そして、売れていない作家への、ほんの少しの優越感。
どれも嫌だ。
どれも、いかにも作家らしいと言えばらしい。
でも、いざ自分の中に並ぶと、やはり少し情けない。
私は壁際に立ったまま、心の中でぽつりと思った。
自分もずいぶん嫌な大人になったな。
それは自己嫌悪ではある。
でも、ただ自分を責めているだけでもない。
たぶん、人はこういう場で、自分の中の序列感覚を完全には消せないのだろう。
出版という世界が、綺麗事だけで成り立っていない以上、誰だってどこかで比べてしまう。
アニメ化かどうか。
シリーズが続いているか。
何巻まで出ているか。
オリコンに入ったか。
書店で見かける頻度。
受賞歴。
次企画の動き。
その中に自分を置いて、上だの下だのを無意識に測ってしまう。
嫌でも、そうしてしまう。
問題は、そういう自分を見たあとで、どうするかだけなのかもしれない。
◇
「大丈夫ですか」
声をかけてきたのは高梨だった。
私は少しだけ肩をすくめた。
「顔に出てたか」
「少しだけ」
彼は私のグラスが空なのを見て、「何か取ってきます」と言ったが、私は首を振った。
「いい。ちょっと落ち着いただけ」
高梨はそれ以上は聞かなかった。
編集というのは、こういう時の引き方がうまい人間ほど信頼できる。
「何人かと話しました?」
「少しだけな」
「どうでした」
私はそこで少し迷った。
正直に言えば、嫌な気分になった、と言ってもいいのかもしれない。だが、それをそのまま言葉にすると、あまりに子どもっぽい気もした。
「……いろいろ見えるな」
結局、それだけ言った。
高梨は少しだけ笑う。
「そうですね。こういう場は、見たくないものも見えます」
「見たくないもの、か」
「自分の中のものも含めて」
私はその言葉に、少しだけ救われた。
高梨はたぶん、何があったのか具体的には知らない。
でも、こういう場で人が何に削られるかは知っているのだろう。
「嫌なやつだよ、ほんと」
私は半分独り言みたいに言った。
「誰がですか」
「俺が」
高梨は一瞬だけ目を細めて、それから小さくうなずいた。
「たぶん、みんな多少はそうです」
その返事は、慰めとしては少し素っ気ない。
でも、だからこそ本気に聞こえた。
みんな多少はそう。
そうなのかもしれない。
アニメ化作家を見て憧れ、若い受賞者を見て焦り、苦戦している同業を前にして少しだけ安心する。そういう全部が、人間の中には普通に同居する。
問題は、それを“ないこと”にするのではなく、見てしまったあとでどう立っているか、なのだろう。
◇
私は新しいウーロン茶を受け取り、もう一度だけ会場を見渡した。
男の背中はもう見えない。
別の輪へ溶けたのか、帰ったのか、分からない。
でも、あの会話の手触りはまだ残っている。
早口の近況説明。
“本当はもっといける”という内心の補足。
そして、それを前にした自分の、少しだけ冷えた優越感。
私はたぶん、その感触を忘れないだろうと思った。
忘れたくはない。
できれば、小説の中へ持ち帰りたい。
アニメ化作家への憧れだけでは、この業界の夜は書けない。
売れていない作家への優越感まで含めて、ようやくこの場の残酷さに少し近づく。
私は壁際でグラスを持ちながら、心の中でその夜のメモをつけていた。
売れていない作家の名刺は、少しだけ軽い。
その軽さを感じてしまう自分の手も、たぶん同じくらい軽薄だ。
そういう一文が、頭のどこかで静かに形になりつつあった。




