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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第37話 おめでとうございます、と言う側の声

高梨に「今ならちょうどいいと思います」と言われたあと、私はすぐには歩き出せなかった。


 歩けば数十秒だ。

 会場の端から、あの輪の近くまで行くだけ。名刺を出して、挨拶をして、二言三言交わせば、それで終わる。大人の社交としては、たぶんそれだけのことだ。


 でも、そこにある数十秒の距離が、妙に長く感じられた。


 アニメ化作家の周りには、相変わらず人がいる。

 編集が一人、営業が一人、他の作家が二人ほど。輪は大きすぎない。だからこそ、入ればこちらの存在がちゃんと見える。気づかれないまま“なんとなく近くにいる人”ではいられない。


 私はグラスを持つ手を少しだけ持ち直した。

 喉が乾いている。

 緊張しているのだろう。


「そんなに構えなくて大丈夫です」


 高梨が小さく言う。


「みんな挨拶しに行く場なので」


「それは分かってる」


「分かってても嫌ですよね」


「嫌っていうか……」


 私は言葉を探した。

 嫌ではない。

 むしろ、行きたいと思っている。

 思っているからこそ、こうして少し手前で立ち止まっている。


「少し、みっともない気分になるだけだよ」


 高梨はそれを聞いて、少しだけ笑った。


「それ、けっこう正直でいいと思います」


「今さら取り繕っても仕方ないからな」


「はい。じゃあ、その正直さのまま行きましょう」


 その言い方がありがたかった。

 勇気を出せ、とも、せっかくなんだから、とも言わない。ただ“そのままで行きましょう”と言う。高梨は、こういう時にこちらの変な見栄を余計に刺激しない。


 私は小さく息を吐いた。

「頼む」


 高梨が先に一歩出る。

 私はその半歩後ろをついていった。


     ◇


 近づくにつれて、アニメ化作家の顔がはっきり見えるようになった。


 三十代半ばくらい。

 ジャケットの肩はきれいに落ちていて、髪も整っている。メディア用の写真より、少しだけ目元に疲れが見える。だがそれがむしろ現実味を持たせていた。成功者というより、“最近たくさんの人に会っている人”の顔だ。


 高梨が輪の端へ自然に入る。


「○○先生、少しだけよろしいでしょうか」


 アニメ化作家が顔を向ける。

 近くで見ると、思っていたよりも穏やかな笑い方をする人だった。


「はい、どうも」


「うちでいつもお世話になっている佐伯先生です。今シリーズがかなりしっかり動いていて、今日もぜひご挨拶をと」


 高梨の紹介は、長すぎず短すぎず、ちょうどよかった。

 “今シリーズがかなりしっかり動いていて”という一言が、私をただの“無名の作家”としてではなく、この場にいていい人間として置いてくれる。


 私は名刺ケースを取り出した。


 その動作が、自分でも分かるくらい少しぎこちない。

 名刺の角がケースに引っかかりかけ、私はほんの一瞬だけ焦った。こういう小さな失敗をする時、人は余計に自分を意識してしまう。


「はじめまして。佐伯です」


 名刺を差し出す。


 相手もすぐに名刺を返してくる。受け取る。ペンネーム。所属レーベル。作品名。シンプルな印字。だが、そこにある情報量はやはり大きい。


「はじめまして」


 彼は私の名刺を見て、自然な笑顔で続けた。


「お名前は存じてます」


 その一言に、私はほんの少しだけ救われた。

 もちろん社交辞令かもしれない。けれど、こういう場ではその“かもしれない”込みで受け取るしかない。


「いつも拝見しています」


 私はそう言った。

 この言い方が便利で、少し曖昧で、でも今日の場には適していることを、ここまでの名刺交換で学んでいる。


 それから、少し間を置いて続けた。


「アニメ化、おめでとうございます」


 言いながら、自分の声の温度が少しだけ気になった。

 ちゃんと祝福に聞こえただろうか。

 羨望や気後れが、変に混ざっていなかっただろうか。


 でも、相手はごく自然に頭を下げた。


「ありがとうございます」


 その返し方にも、妙に場慣れした過剰さはなかった。ただ、何度も同じ言葉を受け取ってきた人の落ち着きがある。慣れている。だが、退屈している感じではない。


「今のシリーズ、書店さんでもよく見かけます」


 彼がそう言った。


 私は一瞬だけ言葉に詰まり、それから「ありがとうございます」と返した。

 今のシリーズを知っているのか。

 あるいは、本当に書店で見かけただけか。

 そこは判別できない。


 だが、ここでその真偽を測る必要はない。

 必要なのは、その言葉を私は少し嬉しいと思っている、という事実のほうだ。


「静かな温度で引っ張るタイプの作品ですよね」


 彼はそう続けた。


 それは、かなりちゃんとした言い方だった。

 少なくとも、帯のコピーだけを見て言う種類の感想ではない。


「……そう言っていただけるとありがたいです」


 私はようやくそう返した。

 アニメ化作家を前にしても、結局言えるのはそれくらいなのだと、少し可笑しくなる。


     ◇


 話は思ったより、普通の会話として続いた。


 高梨が一歩引き、編集同士の空気を残しつつも、こちらに喋る余白を作ってくれる。そういう微妙な立ち位置の調整は、やはり編集の仕事なのだろう。


「大変そうですね」


 私は気づくと、そんなことを言っていた。


 言ったあとで、自分でも少し驚いた。

 もっと気の利いたことが言えたのではないかとも思う。アニメ化という華やかな成果を前にして、最初に出る言葉が“大変そう”なのは、少し地味すぎる。


 だが、相手はその地味さに少しだけ救われたような顔で笑った。


「いや、そうですね。だいぶ増えました」


 やはり、疲れは本物らしい。


「打ち合わせもですし、確認も増えますし、取材みたいなのもあって。ありがたいんですけど、急に一気に来るので」


「ですよね」


 私は頷いた。


 そこに嘘はなかった。

 私はアニメ化経験者ではないが、会社の仕事で“何かが動いた後の増え方”なら知っている。うまくいった案件ほど、後から別の調整が増える。評価されたから楽になる、ということは案外少ない。


 アニメ化作家はグラスを少し持ち直した。


「でも、こういうこと言うと贅沢に聞こえるので、あまり外では言えないんですけど」


 その一言は、私の胸のどこかへ少し深く入った。


 贅沢に聞こえるので、外では言えない。


 成功した人の疲れ方とは、たぶんそういうものなのだろう。

 周りから見れば十分に羨ましい場所にいる。だから、しんどいと口にした瞬間に、どこか“贅沢な悩み”として聞かれてしまう。


 若い頃の私は、その種の弱音をあまり信じていなかったかもしれない。

 アニメ化した人は、アニメ化したなりの大変さがある、と頭では理解していても、胸の底では「いや、それでも行けるなら行きたいだろ」と思っていた。


 いまは、少し違う。


 それでも行きたい。

 でも、大変なのもたぶん本当だ。

 その両方を同時に受け取れるくらいには、自分も少し歳を取ったのだと思う。


「でも、やっぱりすごいですね」


 私はそこで、結局かなり普通のことを言った。


 アニメ化作家は少しだけ困ったように笑った。

「いや、まだ全然……」


 その否定は、本気半分、社交辞令半分くらいに聞こえた。

 そういうところまで含めて、“成功者の会話”は少し複雑だ。


「いや、本当に」


 私は続けた。

「こういう場でも、空気が少し変わるのが分かるので」


 そこまで言ってから、私は内心で少しだけ後悔した。

 あまりに率直すぎた気がしたからだ。


 だが相手は、変に気を悪くした様子はなかった。

 むしろ、一瞬だけ苦笑してから小さく言った。


「……それはちょっと、ありますね」


 その認め方が妙に人間くさかった。


 俺は特別扱いされて当然です、という顔ではない。

 でも、周囲の態度が変わること自体は、本人ももう知ってしまっているのだろう。知っていて、完全には否定できない。そういう少し気まずい肯定の仕方だった。


 私はその瞬間、ようやく相手を“遠い象徴”ではなく“少し先を歩いている同業者”として見られた気がした。


     ◇


 会話は長くは続かなかった。


 こういう場では当然だ。周囲には他にも挨拶したい人間がいる。編集も営業も動いている。長居するのは礼儀ではない。


「またぜひ」


 最後にアニメ化作家が言った。

 その“また”がどこまで本気かは分からない。たぶん、この場における“また”の大半は、その場の礼儀としてのまた、なのだろう。


 でも、それでもよかった。


「こちらこそ」


 私は頭を下げた。

 名刺をケースへしまう指先は、さっき差し出した時より少しだけ落ち着いていた。


 輪を離れ、会場の端へ戻る。

 高梨が横に並んだ。


「どうでした」


 私はすぐには答えなかった。

 まだ自分の中で整理がついていなかったからだ。


「……やっぱり、すごいな」


 結局、出てきたのはその一言だった。


 高梨は少しだけ笑った。

「そうですね」


「でも、思ってたよりちゃんと疲れてた」


「してました?」


「してた気がする」


「それはたぶん、かなりしてると思います」


 私はグラスの残りを一口飲んだ。

 冷えている。喉が少しだけ楽になる。


 すごい。

 羨ましい。

 でも、ちゃんと疲れている。


 その三つが同時に立つと、憧れは少しだけ現実味を持つ。

 神様のいる場所ではなく、人間が少し無理して立っている場所として見えてくる。


 それでも、なお、行きたい。

 その気持ちは消えなかった。


 アニメ化作家の周りの空気。

 編集の笑い方の柔らかさ。

 他の作家たちの視線。

 ああいう輪の中心へ、自分もいつか立ちたい。


 その欲望は、今の私には少し気恥ずかしく、それでもかなり正直だった。


 私は会場の光の中で、自分の名札をちらりと見下ろした。

 いま胸についているのは、会社員の名刺ではなく、作家の名前だ。


 その名前で、いつかあちら側へ行けるのか。

 行けないのか。


 答えは当然まだない。

 でも少なくとも今日、私は“おめでとうございます”と言う側の声を、自分のものとしてちゃんと聞いた。


 その少し乾いた、少し羨ましい声ごと、たぶん今夜の私には必要なのだろう。

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