第37話 おめでとうございます、と言う側の声
高梨に「今ならちょうどいいと思います」と言われたあと、私はすぐには歩き出せなかった。
歩けば数十秒だ。
会場の端から、あの輪の近くまで行くだけ。名刺を出して、挨拶をして、二言三言交わせば、それで終わる。大人の社交としては、たぶんそれだけのことだ。
でも、そこにある数十秒の距離が、妙に長く感じられた。
アニメ化作家の周りには、相変わらず人がいる。
編集が一人、営業が一人、他の作家が二人ほど。輪は大きすぎない。だからこそ、入ればこちらの存在がちゃんと見える。気づかれないまま“なんとなく近くにいる人”ではいられない。
私はグラスを持つ手を少しだけ持ち直した。
喉が乾いている。
緊張しているのだろう。
「そんなに構えなくて大丈夫です」
高梨が小さく言う。
「みんな挨拶しに行く場なので」
「それは分かってる」
「分かってても嫌ですよね」
「嫌っていうか……」
私は言葉を探した。
嫌ではない。
むしろ、行きたいと思っている。
思っているからこそ、こうして少し手前で立ち止まっている。
「少し、みっともない気分になるだけだよ」
高梨はそれを聞いて、少しだけ笑った。
「それ、けっこう正直でいいと思います」
「今さら取り繕っても仕方ないからな」
「はい。じゃあ、その正直さのまま行きましょう」
その言い方がありがたかった。
勇気を出せ、とも、せっかくなんだから、とも言わない。ただ“そのままで行きましょう”と言う。高梨は、こういう時にこちらの変な見栄を余計に刺激しない。
私は小さく息を吐いた。
「頼む」
高梨が先に一歩出る。
私はその半歩後ろをついていった。
◇
近づくにつれて、アニメ化作家の顔がはっきり見えるようになった。
三十代半ばくらい。
ジャケットの肩はきれいに落ちていて、髪も整っている。メディア用の写真より、少しだけ目元に疲れが見える。だがそれがむしろ現実味を持たせていた。成功者というより、“最近たくさんの人に会っている人”の顔だ。
高梨が輪の端へ自然に入る。
「○○先生、少しだけよろしいでしょうか」
アニメ化作家が顔を向ける。
近くで見ると、思っていたよりも穏やかな笑い方をする人だった。
「はい、どうも」
「うちでいつもお世話になっている佐伯先生です。今シリーズがかなりしっかり動いていて、今日もぜひご挨拶をと」
高梨の紹介は、長すぎず短すぎず、ちょうどよかった。
“今シリーズがかなりしっかり動いていて”という一言が、私をただの“無名の作家”としてではなく、この場にいていい人間として置いてくれる。
私は名刺ケースを取り出した。
その動作が、自分でも分かるくらい少しぎこちない。
名刺の角がケースに引っかかりかけ、私はほんの一瞬だけ焦った。こういう小さな失敗をする時、人は余計に自分を意識してしまう。
「はじめまして。佐伯です」
名刺を差し出す。
相手もすぐに名刺を返してくる。受け取る。ペンネーム。所属レーベル。作品名。シンプルな印字。だが、そこにある情報量はやはり大きい。
「はじめまして」
彼は私の名刺を見て、自然な笑顔で続けた。
「お名前は存じてます」
その一言に、私はほんの少しだけ救われた。
もちろん社交辞令かもしれない。けれど、こういう場ではその“かもしれない”込みで受け取るしかない。
「いつも拝見しています」
私はそう言った。
この言い方が便利で、少し曖昧で、でも今日の場には適していることを、ここまでの名刺交換で学んでいる。
それから、少し間を置いて続けた。
「アニメ化、おめでとうございます」
言いながら、自分の声の温度が少しだけ気になった。
ちゃんと祝福に聞こえただろうか。
羨望や気後れが、変に混ざっていなかっただろうか。
でも、相手はごく自然に頭を下げた。
「ありがとうございます」
その返し方にも、妙に場慣れした過剰さはなかった。ただ、何度も同じ言葉を受け取ってきた人の落ち着きがある。慣れている。だが、退屈している感じではない。
「今のシリーズ、書店さんでもよく見かけます」
彼がそう言った。
私は一瞬だけ言葉に詰まり、それから「ありがとうございます」と返した。
今のシリーズを知っているのか。
あるいは、本当に書店で見かけただけか。
そこは判別できない。
だが、ここでその真偽を測る必要はない。
必要なのは、その言葉を私は少し嬉しいと思っている、という事実のほうだ。
「静かな温度で引っ張るタイプの作品ですよね」
彼はそう続けた。
それは、かなりちゃんとした言い方だった。
少なくとも、帯のコピーだけを見て言う種類の感想ではない。
「……そう言っていただけるとありがたいです」
私はようやくそう返した。
アニメ化作家を前にしても、結局言えるのはそれくらいなのだと、少し可笑しくなる。
◇
話は思ったより、普通の会話として続いた。
高梨が一歩引き、編集同士の空気を残しつつも、こちらに喋る余白を作ってくれる。そういう微妙な立ち位置の調整は、やはり編集の仕事なのだろう。
「大変そうですね」
私は気づくと、そんなことを言っていた。
言ったあとで、自分でも少し驚いた。
もっと気の利いたことが言えたのではないかとも思う。アニメ化という華やかな成果を前にして、最初に出る言葉が“大変そう”なのは、少し地味すぎる。
だが、相手はその地味さに少しだけ救われたような顔で笑った。
「いや、そうですね。だいぶ増えました」
やはり、疲れは本物らしい。
「打ち合わせもですし、確認も増えますし、取材みたいなのもあって。ありがたいんですけど、急に一気に来るので」
「ですよね」
私は頷いた。
そこに嘘はなかった。
私はアニメ化経験者ではないが、会社の仕事で“何かが動いた後の増え方”なら知っている。うまくいった案件ほど、後から別の調整が増える。評価されたから楽になる、ということは案外少ない。
アニメ化作家はグラスを少し持ち直した。
「でも、こういうこと言うと贅沢に聞こえるので、あまり外では言えないんですけど」
その一言は、私の胸のどこかへ少し深く入った。
贅沢に聞こえるので、外では言えない。
成功した人の疲れ方とは、たぶんそういうものなのだろう。
周りから見れば十分に羨ましい場所にいる。だから、しんどいと口にした瞬間に、どこか“贅沢な悩み”として聞かれてしまう。
若い頃の私は、その種の弱音をあまり信じていなかったかもしれない。
アニメ化した人は、アニメ化したなりの大変さがある、と頭では理解していても、胸の底では「いや、それでも行けるなら行きたいだろ」と思っていた。
いまは、少し違う。
それでも行きたい。
でも、大変なのもたぶん本当だ。
その両方を同時に受け取れるくらいには、自分も少し歳を取ったのだと思う。
「でも、やっぱりすごいですね」
私はそこで、結局かなり普通のことを言った。
アニメ化作家は少しだけ困ったように笑った。
「いや、まだ全然……」
その否定は、本気半分、社交辞令半分くらいに聞こえた。
そういうところまで含めて、“成功者の会話”は少し複雑だ。
「いや、本当に」
私は続けた。
「こういう場でも、空気が少し変わるのが分かるので」
そこまで言ってから、私は内心で少しだけ後悔した。
あまりに率直すぎた気がしたからだ。
だが相手は、変に気を悪くした様子はなかった。
むしろ、一瞬だけ苦笑してから小さく言った。
「……それはちょっと、ありますね」
その認め方が妙に人間くさかった。
俺は特別扱いされて当然です、という顔ではない。
でも、周囲の態度が変わること自体は、本人ももう知ってしまっているのだろう。知っていて、完全には否定できない。そういう少し気まずい肯定の仕方だった。
私はその瞬間、ようやく相手を“遠い象徴”ではなく“少し先を歩いている同業者”として見られた気がした。
◇
会話は長くは続かなかった。
こういう場では当然だ。周囲には他にも挨拶したい人間がいる。編集も営業も動いている。長居するのは礼儀ではない。
「またぜひ」
最後にアニメ化作家が言った。
その“また”がどこまで本気かは分からない。たぶん、この場における“また”の大半は、その場の礼儀としてのまた、なのだろう。
でも、それでもよかった。
「こちらこそ」
私は頭を下げた。
名刺をケースへしまう指先は、さっき差し出した時より少しだけ落ち着いていた。
輪を離れ、会場の端へ戻る。
高梨が横に並んだ。
「どうでした」
私はすぐには答えなかった。
まだ自分の中で整理がついていなかったからだ。
「……やっぱり、すごいな」
結局、出てきたのはその一言だった。
高梨は少しだけ笑った。
「そうですね」
「でも、思ってたよりちゃんと疲れてた」
「してました?」
「してた気がする」
「それはたぶん、かなりしてると思います」
私はグラスの残りを一口飲んだ。
冷えている。喉が少しだけ楽になる。
すごい。
羨ましい。
でも、ちゃんと疲れている。
その三つが同時に立つと、憧れは少しだけ現実味を持つ。
神様のいる場所ではなく、人間が少し無理して立っている場所として見えてくる。
それでも、なお、行きたい。
その気持ちは消えなかった。
アニメ化作家の周りの空気。
編集の笑い方の柔らかさ。
他の作家たちの視線。
ああいう輪の中心へ、自分もいつか立ちたい。
その欲望は、今の私には少し気恥ずかしく、それでもかなり正直だった。
私は会場の光の中で、自分の名札をちらりと見下ろした。
いま胸についているのは、会社員の名刺ではなく、作家の名前だ。
その名前で、いつかあちら側へ行けるのか。
行けないのか。
答えは当然まだない。
でも少なくとも今日、私は“おめでとうございます”と言う側の声を、自分のものとしてちゃんと聞いた。
その少し乾いた、少し羨ましい声ごと、たぶん今夜の私には必要なのだろう。




