第36話 アニメ化作家は、笑い方まで少し違って見える
会場の空気が変わる瞬間というのは、意外と音を立てない。
誰かがマイクを握るわけでもない。
BGMの音量が上がるわけでもない。
ただ、人の視線の流れがほんの少しだけ揃う。会話を続けながらも、立っている角度が微妙にそちらを向く。編集の笑い方が少しだけ明るくなり、営業の立ち位置がわずかに前へ出る。
そういう変化が重なると、会場の中心が目に見えない形で動く。
その夜、都内一流ホテルの宴会場で、私はそれをかなり生々しく感じていた。
さっきまで私の周囲では、名刺交換のぎこちなさと社交辞令の温度差が、いかにもこの場らしい濃度で漂っていた。
「はじめまして」
「いつも拝見しています」
「お名前はよく」
「今のシリーズ、営業さんからも評判いいですよね」
そのどれもが、この会の表面を作っている言葉だ。
けれど今は、その表面のすぐ下で別の流れが起きているのが分かった。
視線の先には、アニメ化作家がいた。
さっき高梨に教えられた、その人。
三十代半ばくらい。ジャケット姿で、笑顔は自然で、別に王様みたいに振る舞っているわけではない。むしろ、よく見れば少し疲れているようにも見える。だが、それでも会場の人間は勝手に“成功した人”としてその人を中心へ置く。
周囲の編集の肩がわずかに開く。
営業の声が半音だけ明るくなる。
他の作家たちも、話しながら目線だけはそちらへ引かれている。
私はグラスを持ったまま、その輪を見ていた。
ああ、と心の中で思う。
やっぱり違うのだ。
アニメ化というのは、ここでは単なる実績の一つではない。
それだけで空気の扱いが一段変わる種類の出来事なのだろう。
若い頃の私は、そこにもっと単純な憧れを持っていた。
アニメ化。
書店で大きく平積み。
SNSで話題。
名前が広く知られる。
人生が変わる。
今の私は、もう少し現実を知っている。
アニメ化したからといって、その後の人生がずっと順風満帆とは限らない。むしろスケジュールも責任も跳ね上がるだろうし、周囲の期待値は一気に上がる。次を外せば前より大きく痛むかもしれない。
それでも、なお、憧れる。
あそこへ行きたいと思ってしまう。
少なくとも、会場の空気が勝手に一段上の扱いをしてしまうあの場所へ。
作家という世界の中で、“あちら側”として立ってみたいと思ってしまう。
私はその感情を、今夜はもう隠さないことにした。
綺麗な顔をしても仕方がない。
こういう場に来ると、自分の見栄も劣等感も憧れも、全部ちゃんと出る。
だったら最初から認めておいたほうがましだ。
◇
「やっぱり気になりますよね」
横で高梨が小さく言った。
私は少しだけ笑った。
「顔に出てたか」
「出ますよ、それは」
「そうか」
「だって、アニメ化作家ですから」
高梨の言い方は、少しだけ意地悪くて、でも本音だった。
編集の立場から見ても、やはりアニメ化は特別なのだろう。
私はグラスの中の氷を揺らしながら言った。
「空気が違うな」
「違いますね」
「本人が何かしてるわけでもないのに」
「そこがいちばん分かりやすいかもしれません」
高梨は会場の輪を見ながら続ける。
「成功してる人って、本人より周りの態度のほうが先に変わるんですよね」
その言葉はかなり正確だった。
成功者を成功者に見せているのは、案外本人のオーラみたいな曖昧なものではないのかもしれない。むしろ周囲の人間が、少し丁寧に、少し熱心に、少しだけ“この人は特別です”という顔をしてしまう。その積み重ねが、空気を作る。
私はもう一度、あの輪を見た。
編集が笑う。
営業が頷く。
作家が少しだけ腰を低くする。
誰も露骨ではない。
だが全員が、ほんの少しだけ扱いを変えている。
そこへ入るには、たぶん“実績”だけでは足りないのだろう。
実績が空気へ変わるくらいの象徴性が要る。
アニメ化というのは、そういうものなのかもしれない。
「行きたいですか」
高梨が不意に聞いた。
私はすぐには答えなかった。
でも、答えはかなりはっきりしていた。
「行きたいな」
自分でも驚くくらい素直にそう言っていた。
高梨は少しだけ目を細める。
からかうでもなく、変に持ち上げるでもない顔だった。
「そういうの、ちゃんと言うんですね」
「今さら格好つけても仕方ないだろ」
「たしかに」
私はグラスを持ち直した。
冷えたウーロン茶が喉を通る。
「行きたいよ。そりゃ」
続ける。
「アニメ化したいとか、有名になりたいとか、そういうのをこの歳で口にすると少し気恥ずかしいけど」
「でも思ってはいる」
「思ってる」
高梨はうなずいた。
「それでいいと思います」
その返しが、妙にありがたかった。
若い頃なら、こういう憧れはもっと堂々と口にできたかもしれない。
売れたい。
勝ちたい。
アニメ化したい。
賞が欲しい。
そういう欲望は、若い人間が持っているぶんにはわりと健全なものとして扱われる。
でも四十七歳にもなると、少し言いにくくなる。
生活もあり、会社もあり、家もあり、すでに何冊か本も出している立場で、なお“もっと”を口にするのは、どこか往生際が悪いようにも見えるからだ。
それでも、高梨はあっさりと“それでいい”と言った。
それだけで、私は少しだけ救われた。
◇
会場の輪は、ゆるやかに動いていた。
アニメ化作家の周りには、編集と営業がいる。
少し遅れて別の作家が近づく。
また少し離れて、宣伝らしい女性が笑っている。
そのすべてが、まるで一つの中心へ吸い寄せられているみたいだった。
私はぼんやりとその様子を見ながら、あることに気づいた。
笑い方まで、少し違って見えるのだ。
もちろん本当に違うわけではないだろう。
本人はただ普通に笑っているだけかもしれない。
だが、こちらの目がすでに“アニメ化作家の笑い方”として見てしまう。
成功した人の振る舞いは、実際以上に整って見える。
声のトーンも、うなずき方も、グラスの持ち方まで、どこか自然に見える。
それは憧れのフィルターだ。
分かっている。
分かっていても、私はそのフィルター越しに相手を見てしまう。
少し悔しい。
でも、たぶんそれが人間なのだろう。
「疲れてるようにも見えますけどね」
高梨がぽつりと言った。
私は少し意外に思って顔を向けた。
「そうか?」
「はい。ほら、目元」
言われてよく見れば、たしかにそうだった。
笑ってはいる。
人当たりもいい。
でも、ずっと気を張っている感じがある。会場に入ってから一度も完全に肩の力が抜けていないような、そんな疲れ方だ。
成功している。
でも、楽そうではない。
その矛盾が、少しだけ現実を戻してくる。
「まあ、そうだよな」
私は小さく言った。
「アニメ化したらしたで、別の地獄があるか」
「あると思います」
高梨は即答した。
「少なくとも、今よりは確実にスケジュールも人間関係も増えます」
それはそうだろう。
原作者としての監修、宣伝対応、周囲の期待、次作へのプレッシャー。
アニメ化はゴールではなく、たぶん別のしんどさの入口だ。
分かっている。
それでも羨ましい。
その感情の矛盾が、今夜の私には妙に生々しかった。
◇
少し離れたテーブルへ移動すると、会場全体が前より落ち着いて見えた。
人の輪の位置。
編集の立ち方。
営業が誰のところに長くいるか。
書店関係者らしい人間が、どの作家にどれくらい熱を持って話しかけるか。
ホテルの照明は、その全部を少しだけ立派に見せる。
会社の蛍光灯の下で見るのとは違う。
出版社のオフィスで、資料を挟んで見るのとも違う。
成功している人も、苦戦している人も、この光の中では一瞬だけ“みんなそれなりにちゃんとしている人”に見える。
だからこそ危ういのかもしれない。
照明は人を少しだけ立派に見せる。
でも、立派に見えることと、本当に楽であることは別だ。
作家というのは、たぶんそういう見え方の差に弱い。
私はグラスの水滴を指先でなぞりながら、自分の名札をちらりと見た。
胸元にあるペンネーム。
ホテルの照明の下では、これも少しだけ立派に見える。
会社の名刺ではない。
役職もない。
でも、そこには“書いた人間の名前”だけがある。
それが少しだけ誇らしく、
同時に少しだけ足りなくも思える。
アニメ化作家の輪を見たあとでは、余計にそうだ。
私は自分の中に生まれている感情を、一つずつ数えてみた。
憧れ。
焦り。
羨望。
少しの劣等感。
そして、まだそこへ行きたいと思っている自分への、わずかな安堵。
枯れていない。
みっともないが、まだ欲がある。
それはたぶん悪いことではない。
◇
高梨がグラスを置きながら、小さく言った。
「挨拶だけなら、今のうちに行けますよ」
私はすぐには返事をしなかった。
行けますよ。
それは、紹介しましょう、という意味だ。
高梨が一言入れれば、私はあの輪の近くまで行けるのだろう。名刺を差し出し、「いつも拝見しています」と言って、「アニメ化おめでとうございます」と言う。
たぶんそれだけなら、十分に礼儀の範囲だ。
でも、その“それだけ”が意外と遠い。
憧れている相手へ近づく時、人は自分の小ささまで一緒に持っていかなければならない。
少なくとも私はそうだ。
あそこへ行けば、たぶん私は少し緊張する。
少し嬉しくて、少し惨めで、少しだけ「いつか自分も」と思ってしまう。
その全部を抱えて、名刺を差し出すことになる。
大人になっても、憧れは案外面倒くさい。
私はホテルの柔らかな照明の中で、もう一度だけあの輪を見た。
成功者の笑い方。
周囲のわずかな熱量の差。
その中心に立つ人間の疲れた目元。
それでも、なお、行きたいと思った。
私はグラスをテーブルに置き、少しだけ息を吸った。
「……行くか」
高梨はそれを聞いて、小さくうなずいた。
「じゃあ、今ならちょうどいいと思います」
その返事を聞きながら、私は心のどこかで思っていた。
ホテルの照明は、作家を少し立派に見せる。
でも、その光の中で憧れを自覚してしまう人間は、たぶんまだ十分にみっともない。
そして、だからこそ、まだ何かを書けるのかもしれなかった。




