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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第36話 アニメ化作家は、笑い方まで少し違って見える

会場の空気が変わる瞬間というのは、意外と音を立てない。


 誰かがマイクを握るわけでもない。

 BGMの音量が上がるわけでもない。

 ただ、人の視線の流れがほんの少しだけ揃う。会話を続けながらも、立っている角度が微妙にそちらを向く。編集の笑い方が少しだけ明るくなり、営業の立ち位置がわずかに前へ出る。


 そういう変化が重なると、会場の中心が目に見えない形で動く。


 その夜、都内一流ホテルの宴会場で、私はそれをかなり生々しく感じていた。


 さっきまで私の周囲では、名刺交換のぎこちなさと社交辞令の温度差が、いかにもこの場らしい濃度で漂っていた。

 「はじめまして」

 「いつも拝見しています」

 「お名前はよく」

 「今のシリーズ、営業さんからも評判いいですよね」


 そのどれもが、この会の表面を作っている言葉だ。

 けれど今は、その表面のすぐ下で別の流れが起きているのが分かった。


 視線の先には、アニメ化作家がいた。


 さっき高梨に教えられた、その人。

 三十代半ばくらい。ジャケット姿で、笑顔は自然で、別に王様みたいに振る舞っているわけではない。むしろ、よく見れば少し疲れているようにも見える。だが、それでも会場の人間は勝手に“成功した人”としてその人を中心へ置く。


 周囲の編集の肩がわずかに開く。

 営業の声が半音だけ明るくなる。

 他の作家たちも、話しながら目線だけはそちらへ引かれている。


 私はグラスを持ったまま、その輪を見ていた。


 ああ、と心の中で思う。


 やっぱり違うのだ。

 アニメ化というのは、ここでは単なる実績の一つではない。

 それだけで空気の扱いが一段変わる種類の出来事なのだろう。


 若い頃の私は、そこにもっと単純な憧れを持っていた。

 アニメ化。

 書店で大きく平積み。

 SNSで話題。

 名前が広く知られる。

 人生が変わる。


 今の私は、もう少し現実を知っている。

 アニメ化したからといって、その後の人生がずっと順風満帆とは限らない。むしろスケジュールも責任も跳ね上がるだろうし、周囲の期待値は一気に上がる。次を外せば前より大きく痛むかもしれない。


 それでも、なお、憧れる。


 あそこへ行きたいと思ってしまう。

 少なくとも、会場の空気が勝手に一段上の扱いをしてしまうあの場所へ。

 作家という世界の中で、“あちら側”として立ってみたいと思ってしまう。


 私はその感情を、今夜はもう隠さないことにした。

 綺麗な顔をしても仕方がない。

 こういう場に来ると、自分の見栄も劣等感も憧れも、全部ちゃんと出る。

 だったら最初から認めておいたほうがましだ。


     ◇


「やっぱり気になりますよね」


 横で高梨が小さく言った。


 私は少しだけ笑った。

「顔に出てたか」


「出ますよ、それは」


「そうか」


「だって、アニメ化作家ですから」


 高梨の言い方は、少しだけ意地悪くて、でも本音だった。

 編集の立場から見ても、やはりアニメ化は特別なのだろう。


 私はグラスの中の氷を揺らしながら言った。


「空気が違うな」


「違いますね」


「本人が何かしてるわけでもないのに」


「そこがいちばん分かりやすいかもしれません」


 高梨は会場の輪を見ながら続ける。


「成功してる人って、本人より周りの態度のほうが先に変わるんですよね」


 その言葉はかなり正確だった。


 成功者を成功者に見せているのは、案外本人のオーラみたいな曖昧なものではないのかもしれない。むしろ周囲の人間が、少し丁寧に、少し熱心に、少しだけ“この人は特別です”という顔をしてしまう。その積み重ねが、空気を作る。


 私はもう一度、あの輪を見た。


 編集が笑う。

 営業が頷く。

 作家が少しだけ腰を低くする。

 誰も露骨ではない。

 だが全員が、ほんの少しだけ扱いを変えている。


 そこへ入るには、たぶん“実績”だけでは足りないのだろう。

 実績が空気へ変わるくらいの象徴性が要る。

 アニメ化というのは、そういうものなのかもしれない。


「行きたいですか」


 高梨が不意に聞いた。


 私はすぐには答えなかった。

 でも、答えはかなりはっきりしていた。


「行きたいな」


 自分でも驚くくらい素直にそう言っていた。


 高梨は少しだけ目を細める。

 からかうでもなく、変に持ち上げるでもない顔だった。


「そういうの、ちゃんと言うんですね」


「今さら格好つけても仕方ないだろ」


「たしかに」


 私はグラスを持ち直した。

 冷えたウーロン茶が喉を通る。


「行きたいよ。そりゃ」


 続ける。


「アニメ化したいとか、有名になりたいとか、そういうのをこの歳で口にすると少し気恥ずかしいけど」


「でも思ってはいる」


「思ってる」


 高梨はうなずいた。

「それでいいと思います」


 その返しが、妙にありがたかった。


 若い頃なら、こういう憧れはもっと堂々と口にできたかもしれない。

 売れたい。

 勝ちたい。

 アニメ化したい。

 賞が欲しい。

 そういう欲望は、若い人間が持っているぶんにはわりと健全なものとして扱われる。


 でも四十七歳にもなると、少し言いにくくなる。

 生活もあり、会社もあり、家もあり、すでに何冊か本も出している立場で、なお“もっと”を口にするのは、どこか往生際が悪いようにも見えるからだ。


 それでも、高梨はあっさりと“それでいい”と言った。


 それだけで、私は少しだけ救われた。


     ◇


 会場の輪は、ゆるやかに動いていた。


 アニメ化作家の周りには、編集と営業がいる。

 少し遅れて別の作家が近づく。

 また少し離れて、宣伝らしい女性が笑っている。


 そのすべてが、まるで一つの中心へ吸い寄せられているみたいだった。


 私はぼんやりとその様子を見ながら、あることに気づいた。


 笑い方まで、少し違って見えるのだ。


 もちろん本当に違うわけではないだろう。

 本人はただ普通に笑っているだけかもしれない。

 だが、こちらの目がすでに“アニメ化作家の笑い方”として見てしまう。


 成功した人の振る舞いは、実際以上に整って見える。

 声のトーンも、うなずき方も、グラスの持ち方まで、どこか自然に見える。


 それは憧れのフィルターだ。

 分かっている。

 分かっていても、私はそのフィルター越しに相手を見てしまう。


 少し悔しい。

 でも、たぶんそれが人間なのだろう。


「疲れてるようにも見えますけどね」


 高梨がぽつりと言った。


 私は少し意外に思って顔を向けた。

「そうか?」


「はい。ほら、目元」


 言われてよく見れば、たしかにそうだった。

 笑ってはいる。

 人当たりもいい。

 でも、ずっと気を張っている感じがある。会場に入ってから一度も完全に肩の力が抜けていないような、そんな疲れ方だ。


 成功している。

 でも、楽そうではない。


 その矛盾が、少しだけ現実を戻してくる。


「まあ、そうだよな」


 私は小さく言った。

「アニメ化したらしたで、別の地獄があるか」


「あると思います」


 高梨は即答した。

「少なくとも、今よりは確実にスケジュールも人間関係も増えます」


 それはそうだろう。

 原作者としての監修、宣伝対応、周囲の期待、次作へのプレッシャー。

 アニメ化はゴールではなく、たぶん別のしんどさの入口だ。


 分かっている。

 それでも羨ましい。

 その感情の矛盾が、今夜の私には妙に生々しかった。


     ◇


 少し離れたテーブルへ移動すると、会場全体が前より落ち着いて見えた。


 人の輪の位置。

 編集の立ち方。

 営業が誰のところに長くいるか。

 書店関係者らしい人間が、どの作家にどれくらい熱を持って話しかけるか。


 ホテルの照明は、その全部を少しだけ立派に見せる。


 会社の蛍光灯の下で見るのとは違う。

 出版社のオフィスで、資料を挟んで見るのとも違う。

 成功している人も、苦戦している人も、この光の中では一瞬だけ“みんなそれなりにちゃんとしている人”に見える。


 だからこそ危ういのかもしれない。


 照明は人を少しだけ立派に見せる。

 でも、立派に見えることと、本当に楽であることは別だ。

 作家というのは、たぶんそういう見え方の差に弱い。


 私はグラスの水滴を指先でなぞりながら、自分の名札をちらりと見た。


 胸元にあるペンネーム。

 ホテルの照明の下では、これも少しだけ立派に見える。


 会社の名刺ではない。

 役職もない。

 でも、そこには“書いた人間の名前”だけがある。


 それが少しだけ誇らしく、

 同時に少しだけ足りなくも思える。


 アニメ化作家の輪を見たあとでは、余計にそうだ。


 私は自分の中に生まれている感情を、一つずつ数えてみた。


 憧れ。

 焦り。

 羨望。

 少しの劣等感。

 そして、まだそこへ行きたいと思っている自分への、わずかな安堵。


 枯れていない。

 みっともないが、まだ欲がある。


 それはたぶん悪いことではない。


     ◇


 高梨がグラスを置きながら、小さく言った。


「挨拶だけなら、今のうちに行けますよ」


 私はすぐには返事をしなかった。


 行けますよ。

 それは、紹介しましょう、という意味だ。

 高梨が一言入れれば、私はあの輪の近くまで行けるのだろう。名刺を差し出し、「いつも拝見しています」と言って、「アニメ化おめでとうございます」と言う。

 たぶんそれだけなら、十分に礼儀の範囲だ。


 でも、その“それだけ”が意外と遠い。


 憧れている相手へ近づく時、人は自分の小ささまで一緒に持っていかなければならない。

 少なくとも私はそうだ。


 あそこへ行けば、たぶん私は少し緊張する。

 少し嬉しくて、少し惨めで、少しだけ「いつか自分も」と思ってしまう。


 その全部を抱えて、名刺を差し出すことになる。


 大人になっても、憧れは案外面倒くさい。


 私はホテルの柔らかな照明の中で、もう一度だけあの輪を見た。

 成功者の笑い方。

 周囲のわずかな熱量の差。

 その中心に立つ人間の疲れた目元。


 それでも、なお、行きたいと思った。


 私はグラスをテーブルに置き、少しだけ息を吸った。


「……行くか」


 高梨はそれを聞いて、小さくうなずいた。

「じゃあ、今ならちょうどいいと思います」


 その返事を聞きながら、私は心のどこかで思っていた。


 ホテルの照明は、作家を少し立派に見せる。

 でも、その光の中で憧れを自覚してしまう人間は、たぶんまだ十分にみっともない。

 そして、だからこそ、まだ何かを書けるのかもしれなかった。

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