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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第35話 はじめまして、いつも拝見しています

 名刺交換という行為は、どうしてあんなにぎこちないのだろう。


 会社でやる時もぎこちない。

 取引先へ行って、会議室の入口で「営業管理課の佐伯です」と名刺を差し出す時、私はいまだにほんの少しだけ肩が固くなる。相手の役職を先に見るべきか、顔を見るべきか、名刺の向きをきちんと合わせられているか、そういう細部が毎回少しだけ気になる。


 まして、それが出版社のパーティー会場で、相手が作家だったり編集だったりするなら、ぎこちなさはさらに一段増す。


 神保町の出版社パーティー会場――都内一流ホテルの宴会場の片隅で、私はウーロン茶のグラスを持ったまま、少しだけ場の空気へ慣れようとしていた。


 高梨は、私の緊張を見透かしたように無理に急かさなかった。

 少し離れた場所で別の編集と挨拶をしながら、こちらが一人で立ち尽くしすぎない程度の距離にいてくれる。ああいうところは本当にありがたい。担当編集というのは、時々こういう“立たせ方”がうまい。


 会場のあちこちでは、すでに名刺交換が始まっていた。


 「はじめまして」

 「いつも拝見しています」

 「先日はどうも」

 「お噂は伺っております」


 どれも、正しい。

 どれも、少しだけ怪しい。


 “いつも拝見しています”は、その人の本を本当に読んでいるのかもしれないし、書影やSNSや受賞記事くらいしか見ていないのかもしれない。“お噂は伺っております”は、良い意味にも悪い意味にも使える便利な言葉だ。作家と編集と営業と書店員が混ざる場では、社交辞令は空気みたいにそこら中に漂っている。


 私だって、そのうちの一人になるのだろう。

 たぶん、もうなっている。


     ◇


「佐伯先生」


 高梨が戻ってきたのは、私がウーロン茶を半分ほど飲んだ頃だった。


「まず、一人ご紹介してもいいですか」


 私は少しだけ背筋を伸ばす。

「お願いします」


 高梨が目で示した先には、四十代前半くらいの男性作家がいた。細身で、ダークグレーのスーツを着ている。表情は穏やかだが、いかにも“こういう場慣れしています”という雰囲気ではない。むしろ、こちらと同じくらい少しだけ居心地悪そうにも見える。


「○○先生です。いま文芸寄りのラインで書かれていて、うちでも何冊か」


 高梨が簡潔に紹介する。

 私は名前を聞いて、すぐに顔と作品が一致した。タイトルは知っている。書店で見かけたこともあるし、SNSで感想が流れてくるのを見たこともある。だが、じっくり読んだことがあるかと言われると、少し詰まる。


 そういう相手に、これから私は名刺を差し出す。


 男は小さく頭を下げた。

「はじめまして」


 私は慌ててポケットから名刺ケースを出す。

 会社の名刺ではない。今日のために高梨に言われて作っておいた、ペンネーム入りの簡素なものだ。肩書きは“作家”だけ。会社の部署名も、本名もない。これを持っている自分が、いまだに少しだけ不思議だ。


「はじめまして、佐伯です」


 名刺を差し出す。

 相手も差し出す。

 受け取る。

 見る。

 視線を上げる。


 数秒のうちにやることが多すぎる。

 名刺交換というのは本当に情報量が多い。


「いつも拝見しています」


 私はまずそう言った。


 言ってから、少しだけ内心で顔をしかめた。

 いつも、は言い過ぎかもしれない。少なくとも新刊情報や書影はよく見ているが、作品を全部追っているわけではないのだから。


 だが相手はそこを気にした様子もなく、小さく笑った。


「ありがとうございます。こちらこそ、お名前はよく見ています」


 よく見ています。

 これもまた便利な言い方だ。

 本の帯かもしれないし、書店の棚かもしれないし、営業資料かもしれない。だが、この場ではそれで十分なのだろう。


「今のシリーズ、静かなのに強いですよね」


 相手がそう言った。


 私は少しだけ目を上げる。

 それは、かなり具体的な感想だった。

 社交辞令だけではないかもしれない。


「ありがとうございます」


 今度は、さっきより素直に礼を言えた。


 高梨が横で、ごく小さく空気を整えるように言う。

「お二人、会話の温度で読ませるタイプなので、勝手に相性いいんじゃないかと思ってました」


 作家はそう言われて少し笑った。

「いや、でも佐伯先生のほうがちゃんと届く感じがありますよ」


「そんなことないです」


 私は反射的にそう返したが、そのやり取りのぎこちなさまで含めて、この場らしい気がした。


 褒める。

 引く。

 でも完全には否定しすぎない。


 大人の作家同士の最初の会話は、たぶんそういう加減でできている。


     ◇


 そのあとも、二人、三人と名刺交換をした。


 一人は同じレーベルで最近新作を出した三十代の女性作家。

 一人はライト文芸寄りの受賞歴を持つ年配の男性。

 もう一人は、いまは刊行が少し止まっているらしいシリーズ作家。


 どの名刺交換も、だいたい似たような流れだった。


「はじめまして」

「いつも拝見しています」

「お噂は伺っております」

「担当さんからお名前は」

「今のシリーズ読ませてもらって」

「今度ぜひゆっくり」


 どれも礼儀としては正しい。

 どれも少しずつ、どこまで本気なのか測りにくい。


 だが、こうして何人かとやり取りしているうちに、私は少しだけこの場の“温度差”みたいなものが見えてきた。


 たとえば、本当に読んでくれている人は、作品名か、人物名か、あるいはごく短い具体的な一言が入る。

 「静かなのに強い」とか、

 「会話の間が好きです」とか、

 「三巻のあそこ、しんどかったです」とか。


 逆に、あまり読んではいないが名前は知っている相手には、

 「お名前はよく」

 「いつも拝見しています」

 「活動追っています」

 あたりの便利な言葉が並ぶ。


 それは別に悪いことではない。

 私だってそうだ。


 出版の世界は、作品を全部読み合うには狭すぎて広い。

 書店で見かける。

 帯で名前を知る。

 営業資料でタイトルを見る。

 SNSで感想が流れてくる。

 受賞作一覧やアニメ化ニュースで顔を見る。

 そうやって“知っている”になる作家はたくさんいる。


 その“知っている”と“ちゃんと読んでいる”のあいだにあるグラデーションを、みんな少しずつ曖昧なまま礼儀でつないでいるのだろう。


 それが、この場のルールなのだと分かると、少しだけ楽になる。


     ◇


「佐伯先生、はじめまして」


 四人目に名刺を差し出してきたのは、私より少し若いくらいの男性作家だった。濃紺のジャケットに、細い黒縁眼鏡。笑顔は柔らかいが、視線の置き方が妙に正確で、こういう場に慣れている気配があった。


「○○です」


 名刺を受け取る。

 名前に覚えがあった。受賞作が一冊、書店で平積みになっていたはずだ。評判もそれなりによかった記憶がある。


「はじめまして。佐伯です」


 私も名刺を差し出す。


 男は名刺を見て、少しだけ笑った。

「お名前、よく見ます」


 またその言い方だ。

 だが、悪い気はしない。

 少なくとも“見ない”よりはずっといい。


「ありがとうございます」


「今のシリーズ、営業さんからも評判いいですよね」


 私はそこで一瞬だけ、笑い方に迷った。


 営業からの評判。

 それは読者の感想とは少し違う。

 言い換えれば、“商品としてそこそこ強いですね”という意味でもある。


「ありがたいです」


 私は結局、そう返した。


 彼はグラスを持ち直しながら続ける。

「静かなタイプの作品なのに、ちゃんと残ってるのがすごいなと思って」


 今度は少しだけ本気の温度があるように感じた。

 少なくとも、作品の立ち位置は見ている。

 私は少しだけ気持ちが和らぐ。


「そちらの作品も書店で見ました」


 私がそう返すと、男は笑った。


「“見ました”って、たぶん作家同士だといちばんリアルな言い方ですね」


 その一言に、私は思わず笑ってしまった。

「たしかに」


「“読みました”だと、ちょっと重い時ありますし」


「わかる」


 この会話は、少しだけ本音に近かった。

 だから私は少しだけ楽になった。


 作家同士の会話は、最初から深い敬意や友情で始まるわけではない。むしろ、こういう“見ました”の距離感のほうが正直なのかもしれない。ちゃんと読んでいる相手もいれば、棚で存在を確認しているだけの相手もいる。それでも業界の中では、お互いがそこにいることを把握している。


 それが、妙に生々しかった。


     ◇


 名刺ケースの中に、少しずつ新しい名刺が増えていく。


 会社の名刺交換なら、相手の肩書きと部署名を見て、後でフォルダへ入れておく。それで仕事上の意味はおおむね済む。

 だが今日受け取っている名刺は少し違う。


 そこにはペンネームがあり、

 時々本名も小さく入り、

 肩書きは曖昧で、

 作品名や受賞歴が添えてあることもある。


 名刺一枚の中に、その人の“商業の立ち位置”がほんの少し透ける。


 何冊出しているのか。

 レーベルはどこか。

 受賞作家か、シリーズ作家か。

 アニメ化の帯がつく人か、まだその手前か。


 あまり露骨に見るのは失礼だ。

 でも、みんなたぶん少しは見ている。


 私だって、見ている。


 そのことに少しだけ嫌気がさす。

 だが、きっとこの場はそういうところでもあるのだろう。作品と人間を完全に分けて見ることができない場所。いや、分けたくても、名刺の時点で少し混ざってしまっている。


「佐伯先生、少し慣れました?」


 高梨が戻ってきて、小さく聞いた。


「少しだけな」


「顔がさっきより自然です」


「それはよかった」


「十分いい感じですよ」


 私は苦笑した。

 編集に“いい感じ”と言われるのは、少し妙な気分だ。


「こういうの、慣れる日来るのか」


 私が聞くと、高梨は少し考えてから言った。


「慣れるというより、たぶん“今日は誰と何を交換する場か”が分かってくる感じだと思います」


「何を交換、か」


「名刺だけじゃなくて、空気とか、温度とか、そういうやつです」


 私はその言い方に、少しだけ納得した。


 名刺を交換しているようで、実際には互いの立ち位置や、いま持っている温度も少しずつ交換しているのだろう。

 この人は本当に読んでくれているのか。

 この人はどこまで社交辞令なのか。

 この人は今、上がり調子なのか、それともどこかで苦戦しているのか。


 そういうものが、短い挨拶の中に薄く滲む。


     ◇


 その時だった。


 会場の奥のほうで、小さく空気が動いた。


 誰かが大声を出したわけではない。

 でも、人の視線がほんの少しずつ同じ方向へ流れる時、場の温度は確かに変わる。


 私はグラスを持ったまま、その先を見た。


 数人の編集者に迎えられながら、ひときわ明るい輪ができている。

 少し前に会場へ入ってきた、あのアニメ化作家だ。


 作家本人は別に尊大な態度ではない。

 笑って頭も下げている。

 それなのに、その周囲だけ人の集まり方が明らかに違う。


 営業も、

 編集も、

 他の作家も、

 みんな少しだけその輪を意識している。


 名刺交換をしながら、私はその光景から目を離せなかった。


 “はじめまして、いつも拝見しています”

 その一言の重みが、あの輪の中ではまた少し違うものになるのだろう。


 私はその距離を、ほんの少し羨ましいと思っていた。

 そしてその羨ましさを、もう隠す気もあまりなかった。

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