第35話 はじめまして、いつも拝見しています
名刺交換という行為は、どうしてあんなにぎこちないのだろう。
会社でやる時もぎこちない。
取引先へ行って、会議室の入口で「営業管理課の佐伯です」と名刺を差し出す時、私はいまだにほんの少しだけ肩が固くなる。相手の役職を先に見るべきか、顔を見るべきか、名刺の向きをきちんと合わせられているか、そういう細部が毎回少しだけ気になる。
まして、それが出版社のパーティー会場で、相手が作家だったり編集だったりするなら、ぎこちなさはさらに一段増す。
神保町の出版社パーティー会場――都内一流ホテルの宴会場の片隅で、私はウーロン茶のグラスを持ったまま、少しだけ場の空気へ慣れようとしていた。
高梨は、私の緊張を見透かしたように無理に急かさなかった。
少し離れた場所で別の編集と挨拶をしながら、こちらが一人で立ち尽くしすぎない程度の距離にいてくれる。ああいうところは本当にありがたい。担当編集というのは、時々こういう“立たせ方”がうまい。
会場のあちこちでは、すでに名刺交換が始まっていた。
「はじめまして」
「いつも拝見しています」
「先日はどうも」
「お噂は伺っております」
どれも、正しい。
どれも、少しだけ怪しい。
“いつも拝見しています”は、その人の本を本当に読んでいるのかもしれないし、書影やSNSや受賞記事くらいしか見ていないのかもしれない。“お噂は伺っております”は、良い意味にも悪い意味にも使える便利な言葉だ。作家と編集と営業と書店員が混ざる場では、社交辞令は空気みたいにそこら中に漂っている。
私だって、そのうちの一人になるのだろう。
たぶん、もうなっている。
◇
「佐伯先生」
高梨が戻ってきたのは、私がウーロン茶を半分ほど飲んだ頃だった。
「まず、一人ご紹介してもいいですか」
私は少しだけ背筋を伸ばす。
「お願いします」
高梨が目で示した先には、四十代前半くらいの男性作家がいた。細身で、ダークグレーのスーツを着ている。表情は穏やかだが、いかにも“こういう場慣れしています”という雰囲気ではない。むしろ、こちらと同じくらい少しだけ居心地悪そうにも見える。
「○○先生です。いま文芸寄りのラインで書かれていて、うちでも何冊か」
高梨が簡潔に紹介する。
私は名前を聞いて、すぐに顔と作品が一致した。タイトルは知っている。書店で見かけたこともあるし、SNSで感想が流れてくるのを見たこともある。だが、じっくり読んだことがあるかと言われると、少し詰まる。
そういう相手に、これから私は名刺を差し出す。
男は小さく頭を下げた。
「はじめまして」
私は慌ててポケットから名刺ケースを出す。
会社の名刺ではない。今日のために高梨に言われて作っておいた、ペンネーム入りの簡素なものだ。肩書きは“作家”だけ。会社の部署名も、本名もない。これを持っている自分が、いまだに少しだけ不思議だ。
「はじめまして、佐伯です」
名刺を差し出す。
相手も差し出す。
受け取る。
見る。
視線を上げる。
数秒のうちにやることが多すぎる。
名刺交換というのは本当に情報量が多い。
「いつも拝見しています」
私はまずそう言った。
言ってから、少しだけ内心で顔をしかめた。
いつも、は言い過ぎかもしれない。少なくとも新刊情報や書影はよく見ているが、作品を全部追っているわけではないのだから。
だが相手はそこを気にした様子もなく、小さく笑った。
「ありがとうございます。こちらこそ、お名前はよく見ています」
よく見ています。
これもまた便利な言い方だ。
本の帯かもしれないし、書店の棚かもしれないし、営業資料かもしれない。だが、この場ではそれで十分なのだろう。
「今のシリーズ、静かなのに強いですよね」
相手がそう言った。
私は少しだけ目を上げる。
それは、かなり具体的な感想だった。
社交辞令だけではないかもしれない。
「ありがとうございます」
今度は、さっきより素直に礼を言えた。
高梨が横で、ごく小さく空気を整えるように言う。
「お二人、会話の温度で読ませるタイプなので、勝手に相性いいんじゃないかと思ってました」
作家はそう言われて少し笑った。
「いや、でも佐伯先生のほうがちゃんと届く感じがありますよ」
「そんなことないです」
私は反射的にそう返したが、そのやり取りのぎこちなさまで含めて、この場らしい気がした。
褒める。
引く。
でも完全には否定しすぎない。
大人の作家同士の最初の会話は、たぶんそういう加減でできている。
◇
そのあとも、二人、三人と名刺交換をした。
一人は同じレーベルで最近新作を出した三十代の女性作家。
一人はライト文芸寄りの受賞歴を持つ年配の男性。
もう一人は、いまは刊行が少し止まっているらしいシリーズ作家。
どの名刺交換も、だいたい似たような流れだった。
「はじめまして」
「いつも拝見しています」
「お噂は伺っております」
「担当さんからお名前は」
「今のシリーズ読ませてもらって」
「今度ぜひゆっくり」
どれも礼儀としては正しい。
どれも少しずつ、どこまで本気なのか測りにくい。
だが、こうして何人かとやり取りしているうちに、私は少しだけこの場の“温度差”みたいなものが見えてきた。
たとえば、本当に読んでくれている人は、作品名か、人物名か、あるいはごく短い具体的な一言が入る。
「静かなのに強い」とか、
「会話の間が好きです」とか、
「三巻のあそこ、しんどかったです」とか。
逆に、あまり読んではいないが名前は知っている相手には、
「お名前はよく」
「いつも拝見しています」
「活動追っています」
あたりの便利な言葉が並ぶ。
それは別に悪いことではない。
私だってそうだ。
出版の世界は、作品を全部読み合うには狭すぎて広い。
書店で見かける。
帯で名前を知る。
営業資料でタイトルを見る。
SNSで感想が流れてくる。
受賞作一覧やアニメ化ニュースで顔を見る。
そうやって“知っている”になる作家はたくさんいる。
その“知っている”と“ちゃんと読んでいる”のあいだにあるグラデーションを、みんな少しずつ曖昧なまま礼儀でつないでいるのだろう。
それが、この場のルールなのだと分かると、少しだけ楽になる。
◇
「佐伯先生、はじめまして」
四人目に名刺を差し出してきたのは、私より少し若いくらいの男性作家だった。濃紺のジャケットに、細い黒縁眼鏡。笑顔は柔らかいが、視線の置き方が妙に正確で、こういう場に慣れている気配があった。
「○○です」
名刺を受け取る。
名前に覚えがあった。受賞作が一冊、書店で平積みになっていたはずだ。評判もそれなりによかった記憶がある。
「はじめまして。佐伯です」
私も名刺を差し出す。
男は名刺を見て、少しだけ笑った。
「お名前、よく見ます」
またその言い方だ。
だが、悪い気はしない。
少なくとも“見ない”よりはずっといい。
「ありがとうございます」
「今のシリーズ、営業さんからも評判いいですよね」
私はそこで一瞬だけ、笑い方に迷った。
営業からの評判。
それは読者の感想とは少し違う。
言い換えれば、“商品としてそこそこ強いですね”という意味でもある。
「ありがたいです」
私は結局、そう返した。
彼はグラスを持ち直しながら続ける。
「静かなタイプの作品なのに、ちゃんと残ってるのがすごいなと思って」
今度は少しだけ本気の温度があるように感じた。
少なくとも、作品の立ち位置は見ている。
私は少しだけ気持ちが和らぐ。
「そちらの作品も書店で見ました」
私がそう返すと、男は笑った。
「“見ました”って、たぶん作家同士だといちばんリアルな言い方ですね」
その一言に、私は思わず笑ってしまった。
「たしかに」
「“読みました”だと、ちょっと重い時ありますし」
「わかる」
この会話は、少しだけ本音に近かった。
だから私は少しだけ楽になった。
作家同士の会話は、最初から深い敬意や友情で始まるわけではない。むしろ、こういう“見ました”の距離感のほうが正直なのかもしれない。ちゃんと読んでいる相手もいれば、棚で存在を確認しているだけの相手もいる。それでも業界の中では、お互いがそこにいることを把握している。
それが、妙に生々しかった。
◇
名刺ケースの中に、少しずつ新しい名刺が増えていく。
会社の名刺交換なら、相手の肩書きと部署名を見て、後でフォルダへ入れておく。それで仕事上の意味はおおむね済む。
だが今日受け取っている名刺は少し違う。
そこにはペンネームがあり、
時々本名も小さく入り、
肩書きは曖昧で、
作品名や受賞歴が添えてあることもある。
名刺一枚の中に、その人の“商業の立ち位置”がほんの少し透ける。
何冊出しているのか。
レーベルはどこか。
受賞作家か、シリーズ作家か。
アニメ化の帯がつく人か、まだその手前か。
あまり露骨に見るのは失礼だ。
でも、みんなたぶん少しは見ている。
私だって、見ている。
そのことに少しだけ嫌気がさす。
だが、きっとこの場はそういうところでもあるのだろう。作品と人間を完全に分けて見ることができない場所。いや、分けたくても、名刺の時点で少し混ざってしまっている。
「佐伯先生、少し慣れました?」
高梨が戻ってきて、小さく聞いた。
「少しだけな」
「顔がさっきより自然です」
「それはよかった」
「十分いい感じですよ」
私は苦笑した。
編集に“いい感じ”と言われるのは、少し妙な気分だ。
「こういうの、慣れる日来るのか」
私が聞くと、高梨は少し考えてから言った。
「慣れるというより、たぶん“今日は誰と何を交換する場か”が分かってくる感じだと思います」
「何を交換、か」
「名刺だけじゃなくて、空気とか、温度とか、そういうやつです」
私はその言い方に、少しだけ納得した。
名刺を交換しているようで、実際には互いの立ち位置や、いま持っている温度も少しずつ交換しているのだろう。
この人は本当に読んでくれているのか。
この人はどこまで社交辞令なのか。
この人は今、上がり調子なのか、それともどこかで苦戦しているのか。
そういうものが、短い挨拶の中に薄く滲む。
◇
その時だった。
会場の奥のほうで、小さく空気が動いた。
誰かが大声を出したわけではない。
でも、人の視線がほんの少しずつ同じ方向へ流れる時、場の温度は確かに変わる。
私はグラスを持ったまま、その先を見た。
数人の編集者に迎えられながら、ひときわ明るい輪ができている。
少し前に会場へ入ってきた、あのアニメ化作家だ。
作家本人は別に尊大な態度ではない。
笑って頭も下げている。
それなのに、その周囲だけ人の集まり方が明らかに違う。
営業も、
編集も、
他の作家も、
みんな少しだけその輪を意識している。
名刺交換をしながら、私はその光景から目を離せなかった。
“はじめまして、いつも拝見しています”
その一言の重みが、あの輪の中ではまた少し違うものになるのだろう。
私はその距離を、ほんの少し羨ましいと思っていた。
そしてその羨ましさを、もう隠す気もあまりなかった。




