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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第34話 ホテルの照明は、作家を少し立派に見せる

 都内一流ホテルのロビーは、歩くだけで少し背筋が伸びる。


 それは床のせいかもしれない。石の磨かれ方が、会社のエントランスとは少し違う。光の反射が柔らかくて、靴音までどこかよそ行きに聞こえる。あるいは、天井の高さのせいかもしれない。人間が少し小さく見える場所では、こちらも自然と振る舞いを整えたくなる。


 私は回転ドアを抜けた瞬間、自分の歩幅がほんの少しだけ変わるのを感じた。


 受付へ向かう途中、鏡張りの壁に自分の姿が映る。

 濃いネイビーのスーツ。

 磨き直した靴。

 結び直したネクタイ。

 会社へ行く時とまったく別人というほどではない。だが、普段の営業管理課係長の顔よりは、明らかに“人に会うための顔”をしている。


 少し可笑しい。

 でも、その可笑しさごと今日は必要なのだろう。


 ホテルのロビーには、すでにそれらしい人間が何人もいた。

 編集者らしい男女。

 作家らしい私服の若者。

 どう見ても出版関係者ではないが、どこか場慣れしている年配の男性。

 女性スタッフが会場案内の看板を整え、宴会場へ向かう矢印の前で立ち止まる人間に小さく頭を下げている。


 私は案内表示を見つけ、エスカレーターで宴会場のあるフロアへ上がった。


 心臓が少しだけ早い。


 緊張、というほどでもない。

 だが、会社の会議へ入る前の感覚とは明らかに違う。数字の確認や文面の温度調整ではなく、今日は自分自身が“作家”としてその場へ立つ。そういう時にしか出ない種類の、所在ないざわつきだった。


     ◇


 宴会場前の受付には、出版社ロゴの入った看板が立っていた。


 白地に、シンプルな文字。

 周年記念と懇親会の案内。

 ホテルの金属光沢と相まって、その看板はやけにきれいに見える。


 受付のスタッフが、名前を確認し、小さな封筒と名札ケースを差し出した。


「本日はご参加ありがとうございます」


「どうも」


 私は小さく頭を下げ、名札ケースを受け取る。


 そこで、また少しだけ手が止まった。


 透明なケースの中に印字されているのは、本名ではなくペンネームだった。


 それは分かっていた。

 作家向けのパーティーなのだから、当たり前だ。

 でも、実際に白いカードへ印刷された自分のペンネームを見ると、やはり少しだけ現実感がずれる。


 会社では佐伯係長。

 家ではただの夫で父親。

 夜は書斎で、誰にも見せていない新企画の一行目に迷っている中年男。


 その私が、このホテルの宴会場では“その名前の作家”として扱われる。


 胸の奥が少しだけ熱くなった。

 自尊心をくすぐる、というのは、たぶんこういう瞬間を言うのだろう。


 私は名札を上着へつけた。

 鏡代わりの金属パネルに映る自分を見る。

 そこには、少なくとも会社員の名札ではないものを胸につけた男が立っていた。


 妙な感じだ。

 でも、嫌ではなかった。


     ◇


 宴会場の扉をくぐると、まず光が違った。


 明るすぎない。

 暗すぎもしない。

 シャンデリアの光が天井から落ちてきて、立食用の丸テーブルの白いクロスにやわらかく反射している。壁際には飲み物のカウンターがあり、グラスが整然と並べられていた。ホテルのスタッフが一定の速度で歩き、料理皿の向きを静かに直している。


 空気そのものが、少しよそ行きだ。


 会場の中には、すでにかなりの人数がいた。

 スーツ姿の編集者、私服にジャケットを羽織った作家、いかにも営業らしい表情の男性、書店関係者らしい名札をつけた女性。みんな一応は穏やかに立っているのに、よく見ると視線は絶えず動いている。


 誰が来ているか。

 どの編集と誰が話しているか。

 あの輪の中心にいるのは誰か。

 その“見ている”感じが、この場をただの立食パーティーではなく、出版業界の縮図みたいな場所にしていた。


 私は入ってすぐ、少しだけ立ち尽くした。


 こういう時、最初の一歩が難しい。

 会社の宴会なら、とりあえず同じ部署の島を探せばいい。親戚の集まりなら、義兄か義母の近くへ行けばどうにかなる。だがここでは、私の立ち位置は名札の文字だけだ。誰がどこまで私を知っているのかも分からない。


 その時、会場の奥から手が上がった。

 高梨だった。


 私は小さく息を吐き、そちらへ向かった。

 知っている顔が一つあるだけで、人はこんなに歩きやすくなる。


「すみません、先に入ってました」


 高梨が言う。

 今日はいつもの編集の顔より、少しだけ社交用の顔をしていた。ネクタイも普段よりきちんとしていて、眠そうな目元まで少しだけ引き締まって見える。


「いや、こっちも今来たところ」


 私はそう返した。


「どうですか」


 高梨が会場を見回しながら聞く。


「思ったよりちゃんとしてるな」


「ホテルですから」


「いや、そうなんだけど」


 自分でも変な返しだと思った。

 高梨はそれを特に気にした様子もなく、少し笑った。


「今日は、無理に何かしなくて大丈夫です」


「何かって」


「名刺交換とか、挨拶とか、そのくらいです。気になる方がいたら紹介しますし、今日は“来た”だけでも十分意味あります」


 その言い方は、ありがたかった。

 高梨は時々こういうところが上手い。こちらの緊張を大げさにいじらず、でも“何も成果を持ち帰らなきゃいけない場ではない”と分かるように言ってくれる。


「名刺交換だけでも十分、か」


「十分です」


「新人みたいだな」


「実際、こういう場って何回出ても少しずつ違うので」


 彼はそう言ってから、私の名札へ目を落とした。


「やっぱり、名前つくとちょっと違いますよね」


 私は笑った。

「そうだな」


 本当にそうだった。


 名札のペンネームは、ただの印字だ。

 でも、それが胸についているだけで、この場の中での自分の立ち位置が少しだけ固定される。会社の部署名ではなく、役職でもなく、“書いた人”としてここにいることを、誰にでも分かる形で示している。


 それは少しだけ照れくさく、

 少しだけ誇らしい。


     ◇


 高梨が飲み物を取ってきてくれると言うので、私は一人で会場の端へ立った。


 グラスの音。

 低い笑い声。

 「ご無沙汰しています」という挨拶。

 「いつも拝見しています」という言い回し。

 ホテルの宴会場では、会話の第一声まで少しだけ磨かれている。


 私はぼんやりと周囲を見ていた。


 何人かは顔を知っている。

 書店の写真や、宣材、SNSのアイコン、あるいは授賞式のネット記事で見たことのある作家たち。だが、知っているからといって話せるわけではない。こちらを相手が知っている保証もないし、向こうには向こうの輪がある。


 その“見知っているが近くはない”距離感が、この場の空気を少し難しくしていた。


 ふと、会社の会議室が頭をよぎる。

 会社では、私は立場が分かりやすい。部長がいて、営業部がいて、榎本と三浦と本城がいて、私は係長としてそこへいる。言うべきこと、飲み込むべきこと、その順番もある程度分かる。


 でもここでは、何をどの順番で言えばいいのか、まだ分からない。


 会社ではただの人。

 ここでは作家。


 その切り替えは、思っていた以上に手間がかかるらしい。


「はい」


 高梨が戻ってきて、ウーロン茶のグラスを渡してくれた。

「最初から酒入れると疲れるので」


「助かる」


 私は受け取った。

 冷たい。

 喉を通ると、少しだけ頭が落ち着く。


「今日は、何人かご紹介したい方もいます」


 高梨が静かに言う。

「でも、その前に会場を少し見ておくのもいいと思います」


 私はその意味をすぐに理解した。

 いきなり名刺交換の輪へ入るより、まずこの場の温度を掴んでおけ、ということだろう。


 私はグラスを持ったまま、ゆっくり会場へ視線を走らせた。


 編集者たちが笑っている。

 作家たちが少し気取った距離感で立っている。

 営業らしい人間が、作家を見る時だけほんの少し目の温度を変える。

 若い人間の輪と、年齢の上がった人間の輪では、立ち方そのものが少し違う。


 そして、その全部がホテルの照明の下で少しだけ立派に見える。


 きっと私も、少しはそうなのだろう。

 会社の島で資料に埋もれている時よりは、この光の中では少しだけ“作家っぽく”見えるのかもしれない。


 そのことが、また少しだけ可笑しい。


     ◇


 会場の奥で、ふっと空気が動いた。


 目立つ音がしたわけではない。

 誰かが大声を出したわけでもない。

 それでも、人の視線の向きがほんの少しずつ揃う時、空気は確かに変わる。


 私はその方向を見た。


 数人の編集者が一人の男を迎えている。

 年齢は三十代半ばくらいだろうか。ジャケット姿で、髪はきちんと整っている。テレビで見たことがある顔だった。いや、正確には、アニメ化のインタビュー記事や新刊帯の写真で見たことがある顔だ。


 アニメ化作品の原作者。


 私はその瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


 別に、その人が王様みたいに振る舞っているわけではない。

 笑顔も自然だし、周囲に頭も下げている。

 それなのに、会場の空気のほうが勝手に“成功者が来た”という顔になる。


 編集者の立ち方が少し変わる。

 営業の笑い方が一段だけ柔らかくなる。

 他の作家も、話しながら視線だけはそちらへ引っ張られている。


 アニメ化作家、というのは、やはりそれだけで一つ別の光を持つのだろう。


 私はグラスを持ったまま、その輪を遠目に見ていた。


 近づけない。

 近づこうと思えば、高梨に紹介してもらうこともできるのかもしれない。だが、まだそこまでの勇気がない。名刺を差し出して「いつも拝見しています」と言う自分を想像すると、少し気恥ずかしく、少し情けなくもある。


 それでも、見てしまう。


 あそこに行きたい、と思ってしまう。

 アニメ化という結果だけではなく、“あの場で自然に扱われる人間”になりたいという、もっと曖昧な憧れが胸の中に立つ。


 私はその気持ちを否定しなかった。

 今さら、綺麗な顔をするのはやめようと思っていたからだ。


 憧れる。

 比べる。

 少し落ち込む。

 少しだけ、自分の現在地を測りたくもなる。


 たぶん、こういう場に来るというのは、そういう醜さ込みの経験なのだろう。


 高梨が横で、小さく言った。


「今のうちなら、挨拶だけ行けます」


 私はすぐには返事ができなかった。


 グラスの中の氷が、かすかに鳴る。

 ホテルの照明は相変わらず柔らかい。

 胸の名札には、会社ではなく作家の名前がついている。


 私はその全部を感じながら、少しだけ息を吸った。

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