第32話 受賞はしていない。デビューし直すわけでもない。それでも、次の一行がある
その夜、私はずいぶん長く机の前に座っていた。
長く、といっても若い頃みたいに深夜二時や三時まで粘ったわけではない。そんな無茶はもうしないし、したところで翌朝の会社で確実に後悔する。四十七歳の徹夜は、努力というより雑な事故に近い。
ただ、零時前の一時間半ほどを、私はほとんど立ち上がらずに過ごした。
それだけで、今の私には十分に“長く”感じられる。
書斎の机の上には、いつものように見本誌と会社の手帳と健康診断の紙が並んでいた。数日前までは、その組み合わせを見るたびに少しだけ苦い気持ちになっていた。私は作家のはずなのに、どうしていつも会社の手帳がこんな近くにあるのだろう、と。あるいは、これだけ本を出しているのに、どうして健康診断の数値や住宅ローンのことばかり気にしているのだろう、と。
でも今夜は、その雑然とした並びが妙にしっくり来た。
見本誌も、
会社の手帳も、
健康診断の紙も、
どれも今の私の現実だ。
どれか一つだけではない。
全部が同じ机の上にあるからこそ、いまの私なのだろう。
私は『再構成_危ない案』を開き、カーソルの点滅を見つめた。
高梨は前向きだった。
“続きが読みたい”と言ってくれた。
“前よりずっとあなたですね”とも。
それだけで、最近ずっと重たかった何かが少しだけ動いた気がした。
受賞ではない。
書籍化決定でもない。
次シリーズ確定、でもない。
でも、たぶんそれでよかったのだと思う。
私はこの数週間で、ようやくそこを受け入れ始めていた。
物語の世界では、たいてい分かりやすい転機がある。
受賞する。
大ヒットする。
会社を辞める。
夢を叶える。
逆に全部を諦める。
けれど現実は、そんなふうには動かない。
中間選考までは行く。
でも賞は取れない。
シリーズは順調だ。
でも次はまだ決まらない。
読者はいる。
でも専業にはなれない。
会社では頼られる。
でも夜の机の前では、まだ新人みたいに怖い。
その全部が一緒にある。
若い頃の私は、そこが嫌だった。
はっきり勝っていない自分が嫌だったし、はっきり負けてもいないこともまた嫌だった。途中のまま立ち止まっている感じが、ひどく中途半端に思えた。
でも、四十七歳の今は少し違う。
途中のままでも、人はちゃんと生きられる。
途中のままでも、本は出る。
途中のままでも、読者の一言に救われる。
途中のままでも、次の企画に少しずつ火が入る。
それなら、途中のままでいること自体を、もう少しだけ信用してもいいのかもしれない。
◇
私はメモ帳を開き、この第二章のあいだに溜め込んだ断片を少しずつ見返していった。
『中間までは行ける。そこから先に行けない理由は何だ。』
『会社員の一週間は、創作に向いていない。』
『若さは、失っていいものがまだ少ないことのほうが武器だ。』
『失敗しない企画は、たぶん勝たない。』
『賞は取れなかった。でも、書く熱は戻ってきた。』
『次がある、というだけで、人は少しだけ今を持ちこたえられる。』
『現役であることと、新人みたいに怖いことは、たぶん両立する。』
『整えるのはこれから。でも、ようやく整える価値のあるものに触れた気がする。』
並べてみると、ずいぶん遠回りしてきたようにも見える。
でも、それぞれがちゃんとその時の自分の本音だった。
中間で止まる苦さも、
若い受賞者の眩しさも、
会社に削られる平日の現実も、
そして新企画の火が少しずつ戻ってきた手触りも。
どれか一つだけを強調すると嘘になる。
今の私は、その全部のあいだにいる。
私はメモ帳へ、新しく一行だけ打った。
『受賞はしていない。デビューし直すわけでもない。それでも、次の一行がある。』
打ってから、少しだけ手を止める。
たぶん、これがいまの私の到達点なのだろう。
若い頃なら、もっと派手な結論が欲しかった。
人生が変わるような結果。
会社を辞める理由。
胸を張って“ここまで来た”と言える何か。
でも今夜の私には、それよりも“次の一行がある”ことのほうが大事に思えた。
受賞していない。
それは事実だ。
デビューし直すわけでもない。
すでに本は何冊も出しているし、いまのシリーズだってちゃんと動いている。
では何も変わらないのかと言えば、そんなこともない。
次の企画に、久しぶりに本気の熱が戻ってきた。
それはたぶん、この数週間でいちばん確かな変化だった。
◇
ふと、スマホが小さく震えた。
高梨ではない。
出版社でもない。
ただの投稿サイトの通知だった。現シリーズの感想が一件ついたらしい。
私は少しだけ迷ってから開いた。
『このシリーズ、派手なことはそんなに起きないのに、なぜか続きを読みたくなる。たぶん、人の会話や迷い方がちゃんと途中だからだと思う。』
私はその一文を、静かに読み返した。
ちゃんと途中だから。
その表現が、今夜の私にはやけに沁みた。
そうか。
読者はもう、とっくに知っていたのかもしれない。
私がずっと“中途半端”だと思っていたものを、“ちゃんと途中”として受け取ってくれる人たちがいたのだ。
それなら、今のこの第二章も、失敗ではないのかもしれない。
賞が取れなかったことも、新企画がまだ企画会議に乗っていないことも、全部含めて“途中”だ。
途中だから駄目なのではなく、
途中だから次がある。
私はスマホを閉じ、もう一度だけパソコンの画面を見た。
新企画の書きかけの本文がある。
数ページしかない。
でも、その数ページを自分で読み返した時、ちゃんと次の場面を見たいと思う。
その感覚は、本当に久しぶりだった。
私はキーボードへ手を戻した。
今夜は構成を大きくいじるつもりはない。
営業会議のための整理もしない。
コンテスト向けの整え方も、まだ考えない。
ただ、この企画の最初の一行を、もう一度だけ書き直してみたかった。
いまの私が、この章を通ってきたあとでなら、少し違う一行になる気がしたからだ。
私は古い一行を消し、ゆっくり新しく打ち直した。
『その男は、四十代のくせに、まだ人生のどこかで遅すぎないと思っていた。』
そこまで打って、少しだけ考える。
悪くない。
でも、もう一歩だけ今の自分に寄せたい。
Deleteを二度。
打ち直す。
『その男は、四十代にもなって、まだ人生の途中だと思いたかった。』
私はそこで手を止めた。
うん。
たぶん、今夜の私ならこっちだ。
逆転でもない。
成功でもない。
ただ、“途中だと思いたい”。
その温度が、いまの自分には一番正しい。
私はさらに一行だけ足した。
『そう思うことが少しみっともないと知っている。それでも、そのみっともなさを手放したら、たぶん次の話は始まらない。』
打ち終えて、私は小さく息を吐いた。
これでいい。
少なくとも今夜は、これでいい。
◇
書斎の外は静かだった。
家族はもう眠っている。
冷蔵庫の低い音が遠くで鳴っている。
会社のメールも、営業部の数字も、コンテストの結果ページも、いまは画面の外だ。
ここにあるのは、まだ誰にも読まれていない企画だけ。
私はそのことを、少しだけ贅沢だと思った。
評価もされていない。
売上もない。
受賞もしていない。
でも、その代わりに、まだ何者にでもなれる。
そこには不安もある。
けれど、同じくらい自由もある。
私は最後に、メモ帳へ短く残した。
『これはまだ、誰にも読まれていない。でも、だからこそいい。』
それを書いてから、パソコンを閉じた。
受賞はしていない。
デビューし直すわけでもない。
会社も辞めていない。
生活は相変わらず平凡で、明日の朝にはまた係長として会社へ行く。
それでも、次の一行がある。
その事実を持っていられる限り、たぶん私はまだ書き手でいられるのだろう。




