第31話 その企画、前よりずっと“あなた”ですね
高梨に『再構成_危ない案』を送るまで、私は三日かかった。
三日という数字だけ見れば、大した時間には見えないかもしれない。だが、会社員の三日というのは、作家の三日と少し違う。月曜の朝から金曜の夜まで、生活は細かく割り込んでくる。会議、見込み表、客先の返事、家の夕食、娘の模試、風呂、睡眠。そういうものの隙間で「送るか、まだ待つか」を三日考え続けるのは、案外ちゃんと長い。
しかも今回の企画は、まだ“商品”として整っていない。
高梨に送れば、当然、編集の目線で読まれる。よかった点も、弱い点も、立ち上がりとして足りないところも、きっとかなり正確に返ってくるだろう。
それが怖かった。
いや、怖いだけなら送らないで済む。
ほんとうは、少し期待していたのだと思う。
この企画なら、もしかしたら前とは違う返事が返ってくるのではないか、と。
その期待があるから、余計に送るのが怖い。
私は金曜の夜、書斎でそのファイルを開いたまま、しばらく画面を見ていた。
タイトルはまだ仮のままだ。
本文は冒頭数ページと、人物の断片的なメモが少し。
高梨に見せるには粗い。
でも、ここでまた整えすぎると、この案はすぐに“悪くないけど弱い”側へ戻ってしまう気がした。
私は思い切って、メール画面を開いた。
宛先に高梨の名前を入れる。
件名をどうするかで、まず少し止まる。
『新企画ラフ』
『新シリーズ案(粗案)』
『危ない案、少しだけ』
最後のやつはさすがにやめた。
結局、いちばん無難なところへ落ち着く。
『新企画ラフ(冒頭)』
本文は、もっと迷った。
長く説明したくなる。
まだ粗いことも、営業会議には遠いことも、今のシリーズと温度が違うことも、どこに自分でも不安があるかも、全部先に言い訳してしまいたくなる。
そういうところが、たぶん最近の私の悪い癖なのだろう。
私はそれを一つずつ消していった。
長い前置きを削り、最後に残したのは短い文章だけだった。
『お疲れさまです。
前にお話しした“少し危ない方向”の企画について、まだ粗いですが、冒頭を見ていただきたく送ります。
整える前の温度ごと見てもらったほうがいい気がしたので、この段階で失礼します。』
そこまで打って、私は少しだけ笑った。
完全には無難を捨てきれていない。
でも、前よりはましだ。
添付ファイルをつける。
送信ボタンの上で、一瞬だけ指が止まる。
ここでまた閉じたら、たぶん私はこの企画をもう一度整え始めるだろう。
そして、整えながら少しずつ熱を削る。
それは高梨にも、自分にも、前に言われたばかりだ。
私は息を一つ吐き、送信した。
画面に小さく「送信しました」が出る。
それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなり、同時に不安も増した。
もう自分だけの企画ではなくなったのだ。
◇
返信が来たのは、翌日の昼過ぎだった。
土曜だから会社は休みだが、私は午前中ずっと妙に落ち着かなかった。真由美とスーパーへ行き、結衣に頼まれた文房具を買い、昼前には台所の換気扇を少しだけ掃除した。普通の休日だ。普通の休日なのに、頭のどこかがずっとスマホの通知を待っている。
こういう待ち方は、何歳になっても格好悪い。
昼食のあと、リビングでぼんやりとコーヒーを飲んでいた時、スマホが震えた。
高梨だった。
私はすぐには開けなかった。
開いてしまえば、もう返事は固定される。
良くても悪くても、それが現実になる。
その一秒前の曖昧さに、少しだけしがみついていたかった。
「見ないの?」
向かいのソファで雑誌をめくっていた真由美が言う。
「……見るよ」
私はようやく画面を開いた。
『ありがとうございます。読みました。
かなり前向きに面白かったです。
まだ粗さも危うさもありますが、前よりずっと“先生ご自身の熱”が出ていると思います。
その意味で、前回見せてもらった案より明らかに強いです。
もしよければ、来週少し時間いただいて話したいです。』
私はその文章を、たぶん三回くらい読み返した。
かなり前向きに面白かった。
前よりずっと、先生ご自身の熱が出ている。
明らかに強い。
高梨は、無責任に持ち上げるタイプの編集ではない。
いい時はいいと言う。
でも、駄目な時は駄目だとかなり具体的に返してくる。
その高梨がここまで言うのなら、少なくとも“悪くないけど弱い”の一段外へ、この企画は出られたのだろう。
私はスマホを持ったまま、しばらく動けなかった。
嬉しい。
すごく、嬉しい。
でもその嬉しさは、発売週の数字がよかった時や、レビュー欄で褒められた時とは少し違った。
そちらは、すでに世に出たものへの反応だ。
今回のこれは、まだ誰にも読まれていない段階で、“次が見えたかもしれない”という種類の手応えだった。
次が見える。
それは、今の私にとってかなり大きい。
「いい返事だった?」
真由美が聞く。
私はスマホから顔を上げた。
「……たぶん」
「たぶん?」
「いや、かなりいい」
そう言った瞬間、ようやく自分でも実感が追いついてきた。
かなりいい。
たしかにそうなのだ。
真由美はそこで、少しだけ笑った。
「よかったじゃない」
その言葉を、今度は私はちゃんと受け取れた。
中間通過の時は、どこか受け取りきれなかった“よかった”が、今日はすんなり胸へ入る。
たぶん理由は簡単だ。
今回はまだ結果ではないが、自分でも手応えを感じていたものを、高梨も同じ方向で受け取ってくれたからだ。
そこに、曖昧な宙ぶらりんさが少ない。
◇
月曜の午後、私は神保町の喫茶店で高梨と向かい合っていた。
前にも打ち合わせで使った、木目の濃い二人席。
窓の外には古書店の並ぶ通り。
平日の午後らしい、少し気の抜けた街の空気。
ここ最近、私は神保町へ来るたびに緊張していたが、その日はいつもより少しだけ呼吸が楽だった。
高梨は私が座る前からすでにメモを広げていた。
だが、その顔つきが以前の“企画を評価する会議の前”より、少しだけ柔らかい。
「すみません、急に呼び出すみたいになって」
「いや、こっちも気になってたから」
「ですよね」
高梨は笑ってから、さっそく本題へ入った。
「まず、前提として」
私はその言い方に少しだけ身構える。
編集が“まず前提として”と言う時は、大事な整理が来る。
「これ、まだ当然そのままではいけないです」
私は思わず笑った。
「そこは分かるよ」
「ですよね」
「そこまで浮かれてない」
「浮かれてもいいラインではあるんですけど」
高梨はそう言ってから、メモの一行を指で軽く叩いた。
「ただ、前回までの案と決定的に違うのは、読んでいて“この人物をこのまま追いたい”って思えたところです」
私は黙って聞いた。
「前の案って、先生らしいし、ちゃんと読めるし、いい話になる予感はあったんです。でも、どこかで“整っているな”が先に来てた」
「うん」
「今回の案は、粗いです。危ういです。たぶん営業会議ではそのまま出しづらいです」
「だろうな」
「でも、そのぶん、ちゃんと続きが読みたいです」
その一言は、思ったより深く胸へ入った。
続きが読みたい。
それは作家にとって、たぶん一番根本的な肯定だ。
きれいだとか、
うまいとか、
売りやすいとか、
そういう言葉は全部ありがたい。
でも、“続きが読みたい”は、それらの手前にある。
高梨はさらに言った。
「あと、前よりずっと“先生”ですね」
私はコーヒーカップへ手を伸ばしかけて、少し止まった。
「俺?」
「はい。もちろん今までも先生らしさはあったんですけど、今回はもっと……言い方が難しいんですけど、守りながら書いた感じが薄いんです」
私はその言葉を聞きながら、少しだけ苦笑した。
守りながら書いた感じ。
たしかにそうだ。
ここ数本の企画案には、ずっとそれがあった。
営業会議に出せそうか。
今の読者が離れないか。
会社と両立しながらでも書き切れるか。
自分が傷つきすぎないか。
そういう守りの計算を、私は無意識に企画の最初から入れていた。
その結果、読めるが弱い案ができる。
今回も、守りがゼロだったわけではない。
そんなことは無理だ。
だが少なくとも、前よりは先に熱が立っている。
高梨もそれを感じたのだろう。
「前よりずっと“あなた”ですね」
高梨はそう言い直した。
その言い方が、妙に残った。
あなた。
先生、ではなく、あなた。
もちろん深い意味はないのかもしれない。
でも、その少しだけ私的な言い方が、今回の企画に対する高梨の温度をよく表している気がした。
「ありがとうございます」
私は素直にそう言った。
こういう時くらいは、斜に構えずに礼を言っておいたほうがいいと思ったからだ。
高梨は少しだけ肩の力を抜いた。
「ただ、もちろん課題はあります」
「そこは来るよな」
「来ます」
彼はすぐにメモをめくった。
「今のままだと、熱はあるけど読者の入り口が少し狭いです。あと、主人公の危うさが魅力なんですけど、危ういだけだと読み続けるのがしんどくなる可能性があるので、どこで“離れられない魅力”を見せるかはもう少し整理したいです」
私は頷く。
「たしかに」
「それから、脇の人物も前の案より立ってますけど、何人かはまだ“機能”に寄ってる感じがあるので、そこは次段階ですね」
編集のこういう指摘は、今の私にはむしろ安心でもある。
全面的に絶賛されるより、ちゃんと課題が示されるほうが先へ進みやすいからだ。
高梨は、ただ持ち上げているわけではない。
この企画を本当に立ち上げるつもりで見始めている。
そのことが分かるだけで、こちらの腹も少し座る。
「でも」と彼は改めて言った。「これは、ちゃんと続きが読みたいです。前の案群とは、もうそこが決定的に違います」
私はその一言を、しばらく黙って受け取った。
続きが読みたい。
前よりずっとあなた。
明らかに強い。
どれも嬉しい。
嬉しいが、派手な歓喜ではない。
もっと静かで、もっと根の深い嬉しさだった。
コンテストの中間通過みたいに、どこか宙に浮いた手応えではない。
かといって受賞や書籍化決定のような、人生が一気に動く種類の結果でもない。
ただ、**“次が見えた”**という感触だけが、確かにそこにある。
四十七歳の兼業作家にとって、たぶん今いちばん必要だったのは、それなのだろう。
◇
打ち合わせが終わり、喫茶店を出たあと、私は少しだけ遠回りして神保町の通りを歩いた。
空は曇っている。
春の終わりのような、梅雨の手前のような、どっちつかずの湿度だった。
通りには古書店、カレー屋、雑居ビル、出版社。
どれも変わらないはずなのに、今日は少しだけ色が違って見える。
新シリーズが決まったわけではない。
そこは自分でもちゃんと分かっている。
営業会議もある。
構成もまだ粗い。
本文だって数ページしかない。
でも、高梨は“続きが読みたい”と言った。
その言葉は、たぶん今の私を数週間は支えるだろう。
歩きながら、私はスマホを取り出した。
高梨とのチャット画面を開く。
さっきの返信や、前回の「急ぎませんので」「固まったら見せてください」というやり取りが並んでいる。
私はその画面を閉じ、代わりにメモ帳を開いた。
『“続きが読みたい”は、書き手にとってかなり根元の肯定だ。』
打つ。
少し考えて、もう一行。
『受賞でも、書籍化決定でもない。けれど、次が見えたと思えるだけで、人はこんなに静かに救われる。』
そこまで書いて、私は少しだけ笑った。
静かに救われる。
たぶん、今日はそういう日なのだ。
若い頃なら、ここでもっと大きく喜びたかったかもしれない。
いける、と思って酒でも買いに行ったかもしれない。
でも今の私の嬉しさは、そんなふうには動かない。
会社がある。
家がある。
今のシリーズもまだ動いている。
新企画の課題も山ほど見えている。
その全部を知った上で、それでも“これは前より違う”と思える。
その静かな手応えが、今の私にはちょうどいい。
◇
夜、書斎へ戻ると、私は珍しく机の前で迷わなかった。
パソコンを開き、『再構成_危ない案』を立ち上げる。
昨日までなら、「まずメモ帳へ整理してから」と思ったかもしれない。
今日は違う。
少なくとも今夜は、本文へ直接触れたい気分だった。
高梨に言われた課題を頭の中で並べる。
主人公の危うさを、魅力としてどう見せるか。
入り口をどう広げるか。
脇の人物を、機能ではなく人間として立たせるか。
どれも正しい。
どれも大事だ。
でも、その課題の前提として、“この企画は前より強い”という確信を高梨が持っていることが、今夜の私には大きかった。
私は一行だけ、メモ帳へ残した。
『整えるのはこれから。でも、ようやく整える価値のあるものに触れた気がする。』
それを書いてから、本文へ戻る。
まだ何者でもない。
でも、前よりは確かだ。
そんな企画の前で、私はまた少しだけ新人みたいに緊張している。
その緊張が、今夜は悪くなかった。




