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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第31話 その企画、前よりずっと“あなた”ですね

 高梨に『再構成_危ない案』を送るまで、私は三日かかった。


 三日という数字だけ見れば、大した時間には見えないかもしれない。だが、会社員の三日というのは、作家の三日と少し違う。月曜の朝から金曜の夜まで、生活は細かく割り込んでくる。会議、見込み表、客先の返事、家の夕食、娘の模試、風呂、睡眠。そういうものの隙間で「送るか、まだ待つか」を三日考え続けるのは、案外ちゃんと長い。


 しかも今回の企画は、まだ“商品”として整っていない。

 高梨に送れば、当然、編集の目線で読まれる。よかった点も、弱い点も、立ち上がりとして足りないところも、きっとかなり正確に返ってくるだろう。


 それが怖かった。


 いや、怖いだけなら送らないで済む。

 ほんとうは、少し期待していたのだと思う。

 この企画なら、もしかしたら前とは違う返事が返ってくるのではないか、と。


 その期待があるから、余計に送るのが怖い。


 私は金曜の夜、書斎でそのファイルを開いたまま、しばらく画面を見ていた。


 タイトルはまだ仮のままだ。

 本文は冒頭数ページと、人物の断片的なメモが少し。

 高梨に見せるには粗い。

 でも、ここでまた整えすぎると、この案はすぐに“悪くないけど弱い”側へ戻ってしまう気がした。


 私は思い切って、メール画面を開いた。


 宛先に高梨の名前を入れる。

 件名をどうするかで、まず少し止まる。


『新企画ラフ』

『新シリーズ案(粗案)』

『危ない案、少しだけ』


 最後のやつはさすがにやめた。

 結局、いちばん無難なところへ落ち着く。


『新企画ラフ(冒頭)』


 本文は、もっと迷った。


 長く説明したくなる。

 まだ粗いことも、営業会議には遠いことも、今のシリーズと温度が違うことも、どこに自分でも不安があるかも、全部先に言い訳してしまいたくなる。

 そういうところが、たぶん最近の私の悪い癖なのだろう。


 私はそれを一つずつ消していった。

 長い前置きを削り、最後に残したのは短い文章だけだった。


『お疲れさまです。

 前にお話しした“少し危ない方向”の企画について、まだ粗いですが、冒頭を見ていただきたく送ります。

 整える前の温度ごと見てもらったほうがいい気がしたので、この段階で失礼します。』


 そこまで打って、私は少しだけ笑った。

 完全には無難を捨てきれていない。

 でも、前よりはましだ。


 添付ファイルをつける。

 送信ボタンの上で、一瞬だけ指が止まる。


 ここでまた閉じたら、たぶん私はこの企画をもう一度整え始めるだろう。

 そして、整えながら少しずつ熱を削る。

 それは高梨にも、自分にも、前に言われたばかりだ。


 私は息を一つ吐き、送信した。


 画面に小さく「送信しました」が出る。

 それだけで、胸の奥が少しだけ軽くなり、同時に不安も増した。


 もう自分だけの企画ではなくなったのだ。


     ◇


 返信が来たのは、翌日の昼過ぎだった。


 土曜だから会社は休みだが、私は午前中ずっと妙に落ち着かなかった。真由美とスーパーへ行き、結衣に頼まれた文房具を買い、昼前には台所の換気扇を少しだけ掃除した。普通の休日だ。普通の休日なのに、頭のどこかがずっとスマホの通知を待っている。


 こういう待ち方は、何歳になっても格好悪い。


 昼食のあと、リビングでぼんやりとコーヒーを飲んでいた時、スマホが震えた。


 高梨だった。


 私はすぐには開けなかった。

 開いてしまえば、もう返事は固定される。

 良くても悪くても、それが現実になる。

 その一秒前の曖昧さに、少しだけしがみついていたかった。


「見ないの?」


 向かいのソファで雑誌をめくっていた真由美が言う。


「……見るよ」


 私はようやく画面を開いた。


『ありがとうございます。読みました。

 かなり前向きに面白かったです。

 まだ粗さも危うさもありますが、前よりずっと“先生ご自身の熱”が出ていると思います。

 その意味で、前回見せてもらった案より明らかに強いです。

 もしよければ、来週少し時間いただいて話したいです。』


 私はその文章を、たぶん三回くらい読み返した。


 かなり前向きに面白かった。

 前よりずっと、先生ご自身の熱が出ている。

 明らかに強い。


 高梨は、無責任に持ち上げるタイプの編集ではない。

 いい時はいいと言う。

 でも、駄目な時は駄目だとかなり具体的に返してくる。

 その高梨がここまで言うのなら、少なくとも“悪くないけど弱い”の一段外へ、この企画は出られたのだろう。


 私はスマホを持ったまま、しばらく動けなかった。


 嬉しい。

 すごく、嬉しい。


 でもその嬉しさは、発売週の数字がよかった時や、レビュー欄で褒められた時とは少し違った。

 そちらは、すでに世に出たものへの反応だ。

 今回のこれは、まだ誰にも読まれていない段階で、“次が見えたかもしれない”という種類の手応えだった。


 次が見える。

 それは、今の私にとってかなり大きい。


「いい返事だった?」


 真由美が聞く。

 私はスマホから顔を上げた。


「……たぶん」


「たぶん?」


「いや、かなりいい」


 そう言った瞬間、ようやく自分でも実感が追いついてきた。

 かなりいい。

 たしかにそうなのだ。


 真由美はそこで、少しだけ笑った。

「よかったじゃない」


 その言葉を、今度は私はちゃんと受け取れた。

 中間通過の時は、どこか受け取りきれなかった“よかった”が、今日はすんなり胸へ入る。


 たぶん理由は簡単だ。

 今回はまだ結果ではないが、自分でも手応えを感じていたものを、高梨も同じ方向で受け取ってくれたからだ。


 そこに、曖昧な宙ぶらりんさが少ない。


     ◇


 月曜の午後、私は神保町の喫茶店で高梨と向かい合っていた。


 前にも打ち合わせで使った、木目の濃い二人席。

 窓の外には古書店の並ぶ通り。

 平日の午後らしい、少し気の抜けた街の空気。

 ここ最近、私は神保町へ来るたびに緊張していたが、その日はいつもより少しだけ呼吸が楽だった。


 高梨は私が座る前からすでにメモを広げていた。

 だが、その顔つきが以前の“企画を評価する会議の前”より、少しだけ柔らかい。


「すみません、急に呼び出すみたいになって」


「いや、こっちも気になってたから」


「ですよね」


 高梨は笑ってから、さっそく本題へ入った。


「まず、前提として」


 私はその言い方に少しだけ身構える。

 編集が“まず前提として”と言う時は、大事な整理が来る。


「これ、まだ当然そのままではいけないです」


 私は思わず笑った。

「そこは分かるよ」


「ですよね」


「そこまで浮かれてない」


「浮かれてもいいラインではあるんですけど」


 高梨はそう言ってから、メモの一行を指で軽く叩いた。


「ただ、前回までの案と決定的に違うのは、読んでいて“この人物をこのまま追いたい”って思えたところです」


 私は黙って聞いた。


「前の案って、先生らしいし、ちゃんと読めるし、いい話になる予感はあったんです。でも、どこかで“整っているな”が先に来てた」


「うん」


「今回の案は、粗いです。危ういです。たぶん営業会議ではそのまま出しづらいです」


「だろうな」


「でも、そのぶん、ちゃんと続きが読みたいです」


 その一言は、思ったより深く胸へ入った。


 続きが読みたい。

 それは作家にとって、たぶん一番根本的な肯定だ。


 きれいだとか、

 うまいとか、

 売りやすいとか、

 そういう言葉は全部ありがたい。

 でも、“続きが読みたい”は、それらの手前にある。


 高梨はさらに言った。


「あと、前よりずっと“先生”ですね」


 私はコーヒーカップへ手を伸ばしかけて、少し止まった。


「俺?」


「はい。もちろん今までも先生らしさはあったんですけど、今回はもっと……言い方が難しいんですけど、守りながら書いた感じが薄いんです」


 私はその言葉を聞きながら、少しだけ苦笑した。

 守りながら書いた感じ。

 たしかにそうだ。

 ここ数本の企画案には、ずっとそれがあった。


 営業会議に出せそうか。

 今の読者が離れないか。

 会社と両立しながらでも書き切れるか。

 自分が傷つきすぎないか。


 そういう守りの計算を、私は無意識に企画の最初から入れていた。

 その結果、読めるが弱い案ができる。


 今回も、守りがゼロだったわけではない。

 そんなことは無理だ。

 だが少なくとも、前よりは先に熱が立っている。

 高梨もそれを感じたのだろう。


「前よりずっと“あなた”ですね」


 高梨はそう言い直した。


 その言い方が、妙に残った。


 あなた。

 先生、ではなく、あなた。


 もちろん深い意味はないのかもしれない。

 でも、その少しだけ私的な言い方が、今回の企画に対する高梨の温度をよく表している気がした。


「ありがとうございます」


 私は素直にそう言った。

 こういう時くらいは、斜に構えずに礼を言っておいたほうがいいと思ったからだ。


 高梨は少しだけ肩の力を抜いた。


「ただ、もちろん課題はあります」


「そこは来るよな」


「来ます」


 彼はすぐにメモをめくった。


「今のままだと、熱はあるけど読者の入り口が少し狭いです。あと、主人公の危うさが魅力なんですけど、危ういだけだと読み続けるのがしんどくなる可能性があるので、どこで“離れられない魅力”を見せるかはもう少し整理したいです」


 私は頷く。


「たしかに」


「それから、脇の人物も前の案より立ってますけど、何人かはまだ“機能”に寄ってる感じがあるので、そこは次段階ですね」


 編集のこういう指摘は、今の私にはむしろ安心でもある。

 全面的に絶賛されるより、ちゃんと課題が示されるほうが先へ進みやすいからだ。


 高梨は、ただ持ち上げているわけではない。

 この企画を本当に立ち上げるつもりで見始めている。


 そのことが分かるだけで、こちらの腹も少し座る。


「でも」と彼は改めて言った。「これは、ちゃんと続きが読みたいです。前の案群とは、もうそこが決定的に違います」


 私はその一言を、しばらく黙って受け取った。


 続きが読みたい。

 前よりずっとあなた。

 明らかに強い。


 どれも嬉しい。

 嬉しいが、派手な歓喜ではない。

 もっと静かで、もっと根の深い嬉しさだった。


 コンテストの中間通過みたいに、どこか宙に浮いた手応えではない。

 かといって受賞や書籍化決定のような、人生が一気に動く種類の結果でもない。


 ただ、**“次が見えた”**という感触だけが、確かにそこにある。


 四十七歳の兼業作家にとって、たぶん今いちばん必要だったのは、それなのだろう。


     ◇


 打ち合わせが終わり、喫茶店を出たあと、私は少しだけ遠回りして神保町の通りを歩いた。


 空は曇っている。

 春の終わりのような、梅雨の手前のような、どっちつかずの湿度だった。

 通りには古書店、カレー屋、雑居ビル、出版社。

 どれも変わらないはずなのに、今日は少しだけ色が違って見える。


 新シリーズが決まったわけではない。

 そこは自分でもちゃんと分かっている。

 営業会議もある。

 構成もまだ粗い。

 本文だって数ページしかない。


 でも、高梨は“続きが読みたい”と言った。

 その言葉は、たぶん今の私を数週間は支えるだろう。


 歩きながら、私はスマホを取り出した。

 高梨とのチャット画面を開く。

 さっきの返信や、前回の「急ぎませんので」「固まったら見せてください」というやり取りが並んでいる。


 私はその画面を閉じ、代わりにメモ帳を開いた。


『“続きが読みたい”は、書き手にとってかなり根元の肯定だ。』


 打つ。

 少し考えて、もう一行。


『受賞でも、書籍化決定でもない。けれど、次が見えたと思えるだけで、人はこんなに静かに救われる。』


 そこまで書いて、私は少しだけ笑った。


 静かに救われる。

 たぶん、今日はそういう日なのだ。


 若い頃なら、ここでもっと大きく喜びたかったかもしれない。

 いける、と思って酒でも買いに行ったかもしれない。

 でも今の私の嬉しさは、そんなふうには動かない。


 会社がある。

 家がある。

 今のシリーズもまだ動いている。

 新企画の課題も山ほど見えている。


 その全部を知った上で、それでも“これは前より違う”と思える。

 その静かな手応えが、今の私にはちょうどいい。


     ◇


 夜、書斎へ戻ると、私は珍しく机の前で迷わなかった。


 パソコンを開き、『再構成_危ない案』を立ち上げる。

 昨日までなら、「まずメモ帳へ整理してから」と思ったかもしれない。

 今日は違う。

 少なくとも今夜は、本文へ直接触れたい気分だった。


 高梨に言われた課題を頭の中で並べる。


 主人公の危うさを、魅力としてどう見せるか。

 入り口をどう広げるか。

 脇の人物を、機能ではなく人間として立たせるか。


 どれも正しい。

 どれも大事だ。

 でも、その課題の前提として、“この企画は前より強い”という確信を高梨が持っていることが、今夜の私には大きかった。


 私は一行だけ、メモ帳へ残した。


『整えるのはこれから。でも、ようやく整える価値のあるものに触れた気がする。』


 それを書いてから、本文へ戻る。


 まだ何者でもない。

 でも、前よりは確かだ。

 そんな企画の前で、私はまた少しだけ新人みたいに緊張している。


 その緊張が、今夜は悪くなかった。

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