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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第30話 会社では係長、夜はまだ無名の新人みたいに

新しい企画の前に座ると、私は時々、自分が何者なのか少し分からなくなる。


 昼間の私は、営業管理課の係長だ。

 数字の強すぎる見込みを一段現実へ戻し、若手のメールの語尾を少しだけやわらかくし、部長の長い確認を必要最小限に整える。そういう仕事を、もう何年もやっている。会社の中では“だいたい任せれば無難に収める人”くらいの位置にいるのだろう。少なくとも榎本や本城や三浦は、私がそういう役割であることを疑っていない。


 それはそれで悪くない。

 頼られるのは、単純にありがたい。

 若い頃みたいに、ただ勢いだけで働ける年齢ではないぶん、こういう“収め方”を期待される場所があることは、どこかで自分の生活を支えている。


 だが、夜の机に向かった瞬間、その安定した輪郭は案外簡単に剥がれる。


 いま私の画面に開いているのは、『再構成_危ない案』だ。

 まだ高梨にも見せていない。営業会議へ出るはずもない。読者は当然ゼロ。家族にも話していないし、会社にはもちろん秘密だ。


 つまり、この企画の前では、私はまた一人目の読者でしかない。


 そしてその立場は、四十七歳の現役作家である私を、時々ひどく新人みたいな気分にさせる。


     ◇


 その夜も、書斎へ入る前までは、私は今日一日ちゃんと係長だった。


 朝は見込み表の数字を削り、

 昼は会議の順番を整え、

 午後は先方への文面の温度を下げ、

 帰り際には榎本へ翌朝の確認事項を一つだけ残した。


 会社では、もう驚くほど“いつもの私”だった。

 落ち着いていて、地味で、余計なことを言わない。

 少なくとも表面上は。


 だが、帰宅して、夕食を食べ、風呂を済ませ、家族が眠ったあとで書斎の椅子へ腰を下ろすと、その“いつもの私”は急に頼りなくなる。


 パソコンを開く。

 画面の中には数ページ分の荒い文章と、いくつもの断片的なメモ。


『四十を過ぎてからの希望は、だいたい誰にも見せづらい。』

『長く生きると、期待を上げない言い方だけ上手くなる。』

『次がある、というだけで、人は少しだけ今を持ちこたえられる。』


 どれも悪くない。

 悪くないが、まだ作品にはなっていない。


 私はカーソルを置いたまま、しばらく動けなかった。


 どこへ向かう話なのか。

 どこまで危なくしていいのか。

 今のシリーズの読者が、この温度へついてきてくれるのか。

 そもそも高梨は、この“危ない案”をどこまで前向きに読んでくれるのか。


 そういう問いが、一気に押し寄せてくる。


 係長の私は、こんなふうに立ち止まらない。

 会議で必要なのは、だいたいその場の現実的な最適解だ。正解が一つではないにせよ、少なくとも“次の一手”くらいは決めなければならないし、決められる。


 でも、新しい企画の前には、その“次の一手”が驚くほど見えにくい。


 私は画面を見つめながら、ふと思った。


 ああ、こういう感じが新人みたいなのだ。


 すでに本を何冊か出している。

 読者もいる。

 オリコンに入る週もある。

 でも、新しい企画の前では、それらの実績はほとんど役に立たない。


 役に立つのは、むしろ“まだ分からないものに向き合う体力”のほうだ。

 それは肩書きでは埋まらない。

 今夜の私はそのことを、やけに生々しく感じていた。


     ◇


 私は一度、椅子から立ち上がり、書斎の本棚の前へ行った。


 自分の見本誌が並んでいる段。

 古いシリーズ。

 一巻で終わったもの。

 思っていたより長く続いたもの。

 いまも動いている現行シリーズ。


 背表紙だけ見ていると、どれもそこそこ立派だ。

 少なくとも、若い頃の私が見たら「ここまで来たのか」と思うだろう。


 でも、その背表紙の前でさえ、今夜の私は少し新人みたいだった。


 この本を出した人間が、次もちゃんと立ち上がれるとは限らない。

 新しいシリーズは、いつだってまた別の勝負だ。


 私は一冊、かなり昔のデビュー作を抜いた。

 表紙は少し色あせている。紙も今の本より少し安っぽい。中を開くと、書き出しがやたら気負っていて、会話には若い頃特有の力みがある。読んでいると少し恥ずかしい。


 けれど、同時に少し羨ましい。


 この頃の私は、少なくとも“まだ何者でもない”ことを真正面から受け入れていた。

 だからこそ、一行一行に自分を賭けるような無茶ができたのかもしれない。


 今の私は違う。

 何者でもないわけではない。

 少なくとも商業の場に居場所はある。

 だからこそ失いたくないものもあるし、読者の期待も、編集の目線も、自分の中の“ここまでは大丈夫だろう”も知ってしまっている。


 その知ってしまった重さが、新企画の前で私を臆病にもする。


 だが同時に、そういう重さを抱えたまま書くこと自体が、今の私の文章の芯でもあるはずだ。


 私は見本誌を棚へ戻した。


 若い頃へ戻る必要はない。

 戻れないし、戻っても今の自分の書きたいものは書けないだろう。


 それでも、新しい企画の前で新人みたいに緊張してしまうのは、たぶん悪いことではない。

 むしろ、その緊張が消えたら、私はたぶん企画を“回せるもの”としてしか扱えなくなる。


     ◇


 机へ戻ると、私はメモ帳を開いた。


『現役なのに、新しい話の前ではまた新人みたいになる。』


 まずそう打つ。


 少し考えて、続ける。


『知っていることが増えたぶんだけ、怖い。失うものも、比べるものも増えた。でも、その怖さの中でまだ少し前のめりになれるなら、たぶん書き手としては生きている。』


 打ちながら、私は少しずつ気持ちが整っていくのを感じた。


 そうだ。

 この不安は、単なる衰えではない。

 むしろ、新しい勝負の前でちゃんと緊張している証拠だ。


 会社では係長だ。

 経験もある。

 言葉の調整も、会議の収め方も、ある程度は身体に入っている。


 でも、夜は違う。

 夜の私は、新しい話の前でまた一から判断しなければならない。

 どの温度で始めるか。

 どこまで危なくするか。

 何を削り、何を残すか。

 その全部がまだ未定だ。


 それは、不安だ。

 でも、少しだけ楽しい。

 その“少しだけ楽しい”が残っているなら、私はまだ書ける。


 私は『再構成_危ない案』へ戻った。


 主人公が、会社では“慣れた大人”として扱われながら、夜には自分の中の未完成さを持て余している場面を書き足す。

 画面の中の男は、たぶん今の私より少しだけ危ない。

 でも、その危なさの中に、私が抱えている感覚はかなり近い。


『昼間の彼は、人に判断を預けられる側の顔をしている。数字も文面も、最後には自分のところへ戻ってくる。だが夜、新しい話の前に座ると、その落ち着いた顔は驚くほど当てにならない。』


 打ってから、少しだけ手を止める。

 悪くない。

 続けられそうだ。


『現役であることは、次の一行を保証してくれない。むしろ、前に出したものの重みがあるぶんだけ、新しい一行はまた別の意味で怖い。』


 私はそこまで書いて、小さく息を吐いた。


 たぶん、これが今夜の核心なのだろう。


 現役であること。

 それはありがたい。

 でも、次の話の前で強くなれるわけではない。

 むしろ、いくつかの成功といくつかの失敗を知ってしまっているぶん、新人の頃より複雑な緊張を抱える。


 それでも、机の前へ戻る。

 その戻り方が、今の私の“現役”なのかもしれない。


     ◇


 ふと、スマホが震えた。


 高梨からのメッセージだった。

 こんな時間に珍しい。


『遅くにすみません。現シリーズの書店動向、今週も悪くないです。あと、前に話した次企画の件、急ぎませんので、また“これは少し危ないかも”が固まったら見せてください』


 私はそれを読み、少しだけ笑った。


 急ぎません。

 固まったら見せてください。


 編集としては、かなりやさしい言い方だと思う。

 でも、その“やさしさ”の中に、ちゃんと期待もあるのが分かる。


 私はすぐには返信せず、少し考えてから短く打った。


『ありがとうございます。まだ粗いですが、前より少しだけ“その先”が見えてきました』


 送信して、スマホを伏せる。


 その文面は、たぶん本音だった。

 まだ粗い。

 でも、前より先が見えている。

 そして、その“見えてきた感じ”自体が、私を少し支えている。


 会社では係長。

 夜はまだ無名の新人みたいに、新しい話の前で立ち尽くす人間。


 その両方が今の自分なら、どちらかを恥じる必要はないのかもしれない。


 新人みたいに不安で、

 係長みたいに慎重で、

 でも、その中間のまま次の一行を書けるなら、

 それで十分なのだろう。


     ◇


 時計はもう零時半を過ぎていた。


 私は数段落を書き足し、ファイルを保存した。

 量としては大したことがない。

 でも今夜の私は、量よりも別のことを大事にしたかった。


 新企画の前で、まだ少しだけ自分が緊張していること。

 そして、その緊張を“もう若くないから駄目だ”と切り捨てずにいられたこと。


 私は最後にメモ帳へ一行だけ残した。


『現役であることと、新人みたいに怖いことは、たぶん両立する。むしろ、その両方があるうちは、まだ次を書ける。』


 それを書いてから、私はゆっくりパソコンを閉じた。

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