第29話 次の話を、誰にも言わずに育てている
新しい話を、誰にも言わずに育てている時期が、私はいちばん好きなのかもしれない。
もちろん、完成して本になる瞬間は嬉しい。
書店に並ぶのも、感想が届くのも、サイン本を書くのも、今の私にとってはどれもちゃんと特別だ。発売週の数字がよくて、高梨から「動いてます」と連絡が来る夜は、四十七歳のくせに胸のどこかが少しだけ若返る感じすらある。
けれど、それとは別に。
まだ誰にも見せていない。
編集にも送っていない。
家族にも言っていない。
職場の誰も知らない。
私だけが知っている、未完成の火種みたいなものを夜ごと少しずつ大きくしていく時間には、別種の甘さがある。
それは、期待も評価もまだ届いていない場所だ。
だから傷つきにくい。
同時に、消えやすい。
新企画『再構成_危ない案』は、いまちょうどその不安定なところにいた。
◇
月曜日の朝、私は通勤電車の中でまた一行だけメモを取った。
『人は、守るものが増えたぶんだけ、秘密を育てるのが上手くなる。』
打ってから保存する。
それだけだ。
東西線は相変わらず混んでいて、ドア脇の空気は薄く、吊り革につかまる腕がじわじわ疲れる。周囲には眠そうな顔の会社員、スマホでニュースを追う若手、英単語アプリを開いている学生。みんなそれぞれに月曜の朝をやっている。
私だけが、会社へ向かう途中で新シリーズの一文を盗んでいる。
その事実が少しだけ可笑しかった。
若い頃なら、この“二重生活”めいた感覚をもっと格好いいものだと思っていたかもしれない。昼は会社員、夜は作家。誰にも知られない別の顔。そういう言い方をすると、どこか物語の主人公みたいだ。
実際にはそんなに綺麗ではない。
昼は会議で削られ、夜は眠気と戦い、たまにコンテストで落ち、時々は家計簿を見て息を吐く。そういう極めて地味な現実の上にしか、私の創作は立っていない。
それでも今朝は、少しだけ前向きだった。
『再構成_危ない案』の人物が、昨日より少しだけ近くにいたからだ。
◇
営業管理課の朝は、週初めらしい細かい忙しさに満ちていた。
月末の山を越えたあとでも、仕事は都合よく減らない。むしろ、先送りされた案件が「そろそろお願いします」という顔で戻ってくるぶん、月初は月初で厄介だ。榎本は営業部から来た資料の数字を見ていて、三浦は先方のメールの語尾を何度も読み返し、本城は会議用の一覧を静かに揃えていた。
「係長、おはようございます」
本城がいつも通りの声で言う。
「おはよう」
私は鞄を置き、ノートパソコンを立ち上げながら返した。
この人は私の読者だ。
その事実を知ってからも、朝の挨拶は相変わらず挨拶の顔をしている。会社の人間関係というのは、そういうものなのだろう。何かを知ったからといって、すぐに空気が別物へ変わるわけではない。変わるとしても、もっと静かに、もっと本人にしか分からない角度で変わる。
「朝イチで営業部から見込み来てます」
榎本が言う。
「また少し希望値高めです」
「いつも通りだな」
「いつも通りですね」
私は資料を受け取り、数字へ目を落とした。
その瞬間、頭の片隅では別のことを考えている。
この榎本の“いつも通りですね”の言い方、使えるかもしれない。
疲れているが、投げてはいない。
仕事を分かっていて、少し諦めも混ざっている。
私は会議用の手帳の隅へ、小さく書き足した。
『いつも通りですね、が一番疲れている言い方の時がある』
会社で使う手帳は、最近すっかり半分企画メモ帳でもあった。
◇
午前の会議は短かった。
短かった、というだけで、今日は少しだけいい日だと思ってしまうのが会社員の悲しいところだ。部長が余計な枝葉へ飛ばず、営業部も必要以上に夢を見ず、現場の返答待ち案件が会議中に増えなかった。それだけで、仕事はずいぶん進んだような気になる。
私は会議の帰り、コピー機の前で本城とすれ違った。
「さっきの一覧、助かった」
私が言うと、本城は少しだけ驚いたように目を上げた。
「いえ、まとめただけです」
「まとめるのが面倒なんだよ」
「そういうものですか」
「そういうもの」
本城は少しだけ考えてから、「じゃあ、よかったです」と言った。
その返しが妙に好きだと思った。
“嬉しいです”ではなく、“よかったです”。
自分の仕事が役に立ったことを、必要以上に感情で押し出さない人の言い方だ。
私はそのまま歩きながら、頭の中で新企画の人物にその言葉を言わせてみる。
うん、悪くない。
この人物ならそう言うかもしれない。
企画が育ってくると、現実の会話を一度自分の中へ通してから、別の人物の声で鳴らし直す癖が強くなる。
若い頃からそうだった。
ただ最近は、その作業にたどり着く前に疲れきってしまう夜が多かっただけだ。
今週は少し違う。
言葉が寄ってくる。
勝手に、少しずつ。
◇
昼休み、私は久しぶりに会社の外へ出た。
気分転換、というほど大げさではない。ただ、午後にもう一度会議があることを思うと、少しだけ別の空気を吸っておきたかったのだ。会社の近くの小さな喫茶店へ入り、コーヒーとたまごサンドを頼む。窓際の席に座る。ノートパソコンは持っていない。持っていないから、仕事も執筆も直接はできない。
その不便さが、今日は少しだけちょうどよかった。
私はポケットからスマホを取り出したが、現行シリーズのレビュー欄は開かなかった。ランキングも見なかった。最近の私は、新企画が少しでも動いている夜ほど、今のシリーズの評価をあえて見ないようにしている節がある。
比べたくないのだと思う。
いまの企画はまだ、誰にも見せていない小さな芽だ。
それを、すでに書店で動いている現行シリーズの数字や読者の感想と並べるには早すぎる。
私は代わりに、メモ帳アプリを開いた。
昨夜までの断片がいくつも並んでいる。
『現実より便利に見えるやつは大体危ない』
『期待しすぎると後が面倒だ』
『長く生きると、期待を上げない言い方だけ上手くなる』
『人は、守るものが増えたぶんだけ、秘密を育てるのが上手くなる』
その列を見ていると、少しだけ胸が落ち着く。
まだ誰にも見せていない。
でも、たしかに増えている。
断片が、主人公の声として少しずつ溜まってきている。
私はコーヒーを一口飲んだ。
少し苦い。
この企画を、まだ高梨へも見せていない理由を、私は最近よく考える。
もちろん、完成していないからというのもある。
営業会議に出せる段階ではまるでないし、冒頭数ページだけで判断できるほど、まだ筋も立ち切っていない。
でも、それだけではない。
私はたぶん、自分の中で熱が消えないかを確かめているのだ。
これまでにも、新企画の火種は何度もあった。
冒頭だけはよくても、三日後には冷めたもの。
設定は面白そうなのに、会話が立ち上がらなかったもの。
高梨に見せる前に、自分で「これは違う」と閉じたもの。
そういう墓場が、企画フォルダの中にいくつもある。
だからこそ、この『再構成_危ない案』に関しては、すぐに人へ見せたくない。
まずは数日、数週間、自分だけで育ててみたい。
会社帰りの疲れた夜にも、通勤電車の朝にも、会議中の余白にも、この人物がちゃんと戻ってくるか確かめたい。
そうやって、それでも消えない熱なら、ようやく企画として他人へ渡せる気がする。
私はコーヒーカップの縁を見つめながら、メモ帳へ一行足した。
『次の話を、誰にも言わずに育てている時期だけが持つ、少し甘い孤独がある。』
打ってから、自分で少しだけ笑った。
甘い孤独。
いかにも今の私が好きそうな表現だ。
でも、たしかにそうなのだ。
まだ誰にも評価されない。
だから傷つかない。
でも、誰にも見えていないまま消えるかもしれない。
だから少しだけ怖い。
そのあいだを、一人で歩いている感じ。
◇
午後、会社へ戻ると、また仕事の時間が始まった。
榎本が営業部との擦り合わせで少し疲れていて、三浦は先方の文面の温度を読み切れずに首をひねり、本城は相変わらず静かな顔で資料を揃えている。私はその中で、係長として必要な言葉を選んでいく。
「そこは“現時点では”を入れたほうがいい」
「この数字はまだ前に出しすぎない」
「先方の顔を潰さない順番で説明しよう」
そういう言葉を選いながらも、頭のどこかでは新企画の人物が同じような調子で喋っている。
不思議なものだ。
会社員としての自分が、今夜の書き手の自分に少しずつ台詞を渡している。
以前はそれを、混ざりすぎるとしんどいと思っていた。
会社と創作は分けたほうがいい。
昼は昼、夜は夜。
そうやって境界を守ろうとしてきた。
でも、最近は少し考えが変わってきた。
分けようとしても、結局は同じ人間なのだ。
昼に拾った疲れ方や、言い換えの癖や、飲み込んだ沈黙が、夜の会話へ染み出してくる。
それなら、最初から少しだけ混ざったまま扱うほうが正直なのかもしれない。
◇
夜、家族が寝静まったあとで書斎へ入ると、私はまず『再構成_危ない案』を開いた。
今日は現行シリーズの続きではなく、こちらを先に触りたかった。
触りたい、と思えること自体が最近の私には珍しい。
画面には数ページ分の荒い本文。
箇条書きの場面案。
人物メモ。
そのどれもがまだ未完成で、どこへ転ぶか分からない。
でも、その不安定さが妙に心地いい。
完成に遠いことが、いまはむしろ安心でもある。
完成していないからこそ、まだ何者にでもなれる。
営業会議の顔もしていないし、コンテストの選評もついていない。
ただ、自分の中でだけ息をしている。
私は朝から拾った断片を本文へ差し込んでいった。
『いつも通りですね、が一番疲れている言い方の時がある。』
『守るものが増えると、人は秘密を育てるのが上手くなる。』
書いてみる。
少しだけ調整する。
削る。
順番を入れ替える。
その作業をしているうちに、私はふと気づいた。
この企画を“まだ高梨に見せていない”ことが、いまの自分を支えているのかもしれない。
もし見せたら、彼はきちんと読むだろう。
きちんと読んで、良いところも弱いところも言うだろう。
必要なら営業会議に出すための形を考え始めるかもしれない。
でも、今はまだそこへ行きたくない。
この企画を、まだ“商品”にしたくないのだ。
もう少しだけ、自分の中の危うい熱のまま持っていたい。
それは甘えかもしれない。
だが、今の私には必要な甘えでもある気がした。
会社ではいつも、途中のものを途中のまま出すことはほとんど許されない。
だからこそ、創作の新企画くらいは、しばらく途中のまま可愛がっていたい。
私は椅子にもたれ、メモ帳を開いた。
『誰にも言わずに育てている話には、まだ失望される前の静けさがある。』
打つ。
続ける。
『その静けさに甘えているうちは、まだ本当の勝負じゃないのかもしれない。でも、そこを通らないと、私の企画はすぐ整いすぎて死ぬ。』
そこまで書いて、私は少しだけ肩の力を抜いた。
そうだ。
私はいま、甘えている。
でも、その甘えは必要だ。
誰にも見せない時期があるからこそ、企画は評価ではなく熱で育てられる。
少なくとも、今の私にはそれが要る。
◇
時計は零時を回っていた。
私はその夜、三ページほど書き足した。
量としては大したことがない。
でも、書き終えたあとで読み返した時、初めて少しだけ思った。
これは、いけるかもしれない。
もちろん、まだ分からない。
高梨に見せれば「ここはまだ弱い」と言われるだろうし、営業会議の顔をするには整っていない。コンテストで戦えるかどうかも、今の段階では何とも言えない。
でも、“悪くない”とは少し違う。
“続きを自分で読みたい”に近い。
それが、今夜はいちばん大きかった。
私はパソコンを閉じる前に、メモ帳へ最後の一行を残した。
『次がある、というだけで、人は少しだけ今を持ちこたえられる。』
それを書いてから、私は静かに息を吐いた。
賞は取れなかった。
現行シリーズだって永遠ではない。
会社の仕事は相変わらず忙しい。
家計簿の数字も、健康診断の紙も、何も軽くなっていない。
それでも、次の話を誰にも言わずに育てている今の私は、少しだけしぶとい。
そのしぶとさがある限り、たぶんまだ大丈夫なのだろうと思えた。




