第28話 賞は取れなかった。でも、書く熱は戻ってきた
落選した翌朝、私は思っていたより普通に起きた。
もっと寝起きが重いかと思っていた。布団の中でスマホを開き、もう一度だけ結果一覧を見て、自分の作品名がないことを確認してから一日が始まるのかもしれない、とも思っていた。
だが、実際の私は目覚ましで一度起き、枕元のスマホをちらりと見ただけで、それ以上は触らずにベッドから出た。
歳を取ると、落選の仕方も少し変わるのかもしれない。
若い頃みたいに、結果がそのまま朝の体温へ直結する感じではない。むしろ、静かに沈む。沈むが、日常の手順は案外そのまま動いていく。
洗面所で顔を洗い、鏡の中の自分を見る。
疲れた顔だ。
だが、昨夜の落選で世界がひっくり返った人間の顔ではない。
それが、少しだけ寂しくて、少しだけ救いでもあった。
真由美はもう起きていて、キッチンでトーストを焼いていた。
結衣はまだ眠そうな顔でダイニングテーブルに座り、牛乳を飲みながらスマホを見ている。
「おはよう」
真由美が言う。
「おはよう」
「今日はちょっとだけ顔がまし」
それを聞いて、私は思わず笑った。
「最近ずっと顔のこと言ってないか」
「だって分かりやすいんだもん」
結衣が口を挟む。
「昨日よりは、なんかちゃんとしてる」
「“ちゃんとしてる”ってなんだよ」
「散らかってない感じ」
私はトーストの皿を受け取りながら、その言い方を心のどこかへメモした。
散らかってない感じ。
若い人間は、案外そういう雑な言い方で核心を突く。
昨夜の私は、たしかに少し散らかっていたのだろう。
落選したこと。
でも新企画の続きを少し書けたこと。
賞が取れなかった悔しさと、別の熱がまだ消えていないという救い。
その全部が混ざって、うまく整理できていなかった。
今朝の私は、それより少しだけ整っている。
整っているというより、落選したまま朝になれたのかもしれない。
それだけでも、四十七歳の兼業作家としては案外大きい。
◇
会社へ向かう電車の中で、私はようやく昨夜の結果をもう一度だけ見返した。
受賞作一覧。
やはり、作品名はない。
悔しい。
その感情は、まだちゃんとある。
ただ、昨夜のそれとは少し質が違っていた。
昨夜はもっと鈍く重かった。いまは輪郭が少しはっきりしている。痛みが消えたわけではないが、少なくともどこが痛いのかは分かる。
賞を取れなかったこと。
それは一つ。
でも、もう一つある。
それでも、新企画の続きを書きたい気持ちが消えなかったこと。
昨夜いちばん驚いたのは、たぶんそこだった。
普通なら、落選した作品を見返して、自分の足りなさを数えて、しばらく何も書きたくなくなるかもしれない。若い頃の私は、少なくともそういう落ち込み方をしていた。全部の企画が少し馬鹿らしくなって、しばらく新しいことを考える気力が失せる夜もあった。
でも昨夜の私は違った。
落選ページを閉じたあとで、『再構成_危ない案』を開いた。
そして、少しだけでも続きを打った。
その事実を、私はいま、通勤電車の揺れの中で静かに噛みしめていた。
賞は取れなかった。
でも、書く熱は戻ってきた。
それは、もしかすると受賞より小さい。
いや、商業的には比べるまでもなく小さいだろう。
けれど、書き手としての自分にとっては、かなり本質的な違いかもしれなかった。
◇
営業管理課の朝は相変わらず慌ただしかった。
榎本が見込み表の修正で営業部とやり合い、三浦は客先から返ってきたメールの意図を読み違えないように首をひねり、本城は静かに一覧表と会議資料を並べている。私はそこへ入り、いつものように一番荒れそうなところから順に手をつけた。
「係長、これ、営業がまだ上げたいって言ってます」
榎本が数字を指す。
「まだ早い」
「ですよね」
「今は根拠が薄い。向こうの返答見てからでいい」
「分かりました」
「三浦、その“前向きに調整します”は消そう」
「やっぱ強いですか」
「相手が勝手に期待値を上げる」
「係長、そういうのほんと即答ですよね」
「長くやってると、まずい言い方だけは先に見えるんだよ」
三浦が「嫌な大人の能力だなあ」と笑う。
私はその笑いを聞きながら、頭のどこかでまた企画の人物が喋っているのを感じていた。
長くやってると、まずい言い方だけは先に見える。
それも使える。
昨夜までなら、こういうことを思いついても、せいぜい手帳の余白に留まっていただろう。
今は違う。
頭の中の人物が、その言葉をもう少し深いところで受け取っている感じがある。
企画が生きている。
その感覚は、仕事の流れの中にいても分かった。
だから不思議と、今日は昨日より前向きだった。
落選の翌日なのに。
むしろ、落選の翌日だからこそかもしれない。
結果は出た。
駄目だった。
では次どうするのか。
そこへ頭が向き始めている。
◇
昼休み、私は自席でコンビニのパスタを食べながら、私物のスマホではなく会社の手帳を開いていた。
手帳の後ろのメモページには、この数日で拾った断片がいくつも並んでいる。
『現実より便利に見えるやつは大体危ない』
『期待しすぎると後が面倒だ』
『長く生きると、期待を上げない言い方だけ上手くなる』
『四十を過ぎてからの希望は、だいたい誰にも見せづらい』
私はそれを見ながら、改めて思う。
コンテストの賞を取れなかったことと、
この新企画の人物が少しずつ声を持ち始めたことは、
同じ週の中で起きている。
どちらか一方だけを取ることはできない。
受賞できれば、そのまま人生の追い風になったかもしれない。
でも、受賞できなかったからといって、創作の熱まで一緒に消えるわけではない。
それどころか、いまの私には、落選の悔しさが少しだけ別の方向へ流れ始めているように見えた。
受賞作の明るさではなく、自分の新企画の粗さへ。
“また駄目だった”という疲れではなく、“じゃあ次はもう少し危ないところまで行くか”という気持ちへ。
それは、若い頃のような勢いではない。
でも、ただの諦めよりはずっといい。
「係長」
本城が静かに声をかけてきた。
「少し顔色戻りましたね」
私は思わず顔を上げた。
「そんなにはっきり分かるか」
「昨日と違います」
彼女はそれだけ言って、資料の束を机へ置く。
「午後の一覧、先に揃えておきます」
「助かる」
本城は去り際に、少しだけ笑った。
何を読み取ったのかは分からない。もしかすると、本当にただ“昨日よりまし”だと思っただけかもしれない。
でも、その何気ない一言が妙に残った。
顔色戻りましたね。
そうか。
戻っているのかもしれない。
賞を逃した事実は消えていないのに。
人間は、結果だけで気力が決まるわけではないのだろう。
自分の中でまだ何かが動いていると感じられるだけで、少しは前を向けるらしい。
◇
午後、部長との短い確認を終えてフロアへ戻る途中、私はエレベーターホールの小さな窓から外を見た。
曇っている。
でも、今にも降り出しそうな灰色ではない。
どこか半端な空だ。
その半端さに、私は少し親近感を覚えた。
賞は取れなかった。
でも、何も残らなかったわけでもない。
中間まで届いた。
最後には残れなかった。
悔しい。
でも、その悔しさごと次の企画へ戻ることもできている。
それはとても中途半端で、
とても説明しづらくて、
でも、たぶん今の自分に一番近い場所だ。
若い頃は、その半端さが嫌だった。
成功でも失敗でもない結果が、ひどく宙ぶらりんに見えた。
だが今は、その宙ぶらりんの中でしか見えないものもあると、少しだけ分かってきた。
全部が大成功でなくても、
全部がきれいに決着しなくても、
次の一行が書けるなら、それは十分に前進なのだと。
私は自席へ戻りながら、そんなことを考えていた。
◇
夜、書斎へ入った時、私は珍しく落選した作品のファイルを開かなかった。
見返すべきだとは分かっている。
どこが弱かったのか、何が最後の一押しにならなかったのか、いずれはちゃんと向き合わなければならない。
でも、今夜は違うと思った。
今夜必要なのは、過去の不足を数えることではない。
戻ってきた熱のほうを、ちゃんと逃さないことだ。
私は『再構成_危ない案』を開いた。
数ページ分の荒い本文が並んでいる。
まだ高梨には見せられない。
でも、自分の中では明らかに“悪くない”では終わっていない何かがある。
私はキーボードに手を置いた。
主人公が、若い受賞者の報告を横目で見て、自分がもうそこへ戻れないことを知りながら、それでも別の仕方で戦うしかないと思う場面。
それを少しだけ書き足す。
『彼は若い人間の明るい受賞報告を羨ましいと思った。羨ましいと思う自分をみっともないとも思った。でも、そのみっともなさを感じられる年齢まで来たからこそ、見える景色もあるのだと、完全には否定しきれなかった。』
少し長い。
でも、今夜はこれでいい。
私はさらに数行、主人公の独白を書き進めた。
賞が欲しくないわけではない。
専業になりたくないわけでもない。
でも、それだけでは説明できない熱がまだ残っていること。
そして、その熱こそが、いま夜の机へ自分を戻していること。
打ちながら、私は昨日までの自分との違いをはっきり感じていた。
結果が悪かったのに、創作の温度は上がっている。
それは少し不思議で、少し嬉しい。
受賞できなかった。
でも、新企画の続きを書きたい。
その両方が本当なら、自分はまだ大丈夫なのかもしれない。
私は一度だけ手を止め、メモ帳を開いた。
『賞は取れなかった。でも、書く熱は戻ってきた。』
その一文を、今夜あらためて保存する。
たぶん、これが第二章の転換点なのだろう。
結果としては負けている。
でも、心まで負け切っていない。
むしろ、どこかで再点火している。
私はそのことに、少しだけ安心した。
若い頃のような眩しい勝ち方はもうないかもしれない。
でも、四十七歳の兼業作家には、落選した夜にも別の企画の一行目を書きたくなるような、しぶとい熱がまだ残っている。
それはきっと、小さなことではない。




