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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第26話 会社の会議中に、企画の台詞が浮かぶ

 企画が生きている時は、こちらが呼ばなくても勝手に言葉が寄ってくる。


 それは経験上、たぶん本当だ。


 逆に言えば、寄ってこない時はだいたい駄目である。机に向かっても、通勤電車でも、風呂の中でも、何も浮かばない。ただ“考えている”という疲労だけが残る。そういう時の企画は、たいてい頭の中ではそれらしく見えても、実際に文章へ落とした瞬間に温度を失う。


 だが、今夜の『再構成_危ない案』は少し違った。


 前の晩に数ページだけ書き足した、そのわずかな火種が、翌朝になっても消えていなかったのだ。


 それどころか、月曜の通勤電車の中で、私はまたひとつ台詞を拾ってしまった。


『四十を過ぎてからの希望は、だいたい誰にも見せづらい。だから余計にしぶとい。』


 東西線の揺れる車内で、私は吊り革につかまりながら、片手でスマホのメモ帳へそれだけ打ち込んだ。打ち込んでから、少しだけ口元が緩みそうになる。


 来ている。

 言葉が、少しずつ向こうから寄ってきている。


 その感覚が久しぶりだった。


 若い頃は、こういう朝がもっと頻繁にあった気がする。どこを歩いていても、頭の中に人物がいて、会話が湧き、場面が勝手に膨らんでいく。もちろん記憶は美化されるから、実際にはそんなに都合よく毎日書けていたわけでもないのだろう。だが少なくとも、“企画が生きている時の感じ”は体が覚えている。


 今日は、その感じに少し近かった。


     ◇


 営業管理課の午前は、いつも通りの慌ただしさで始まった。


 月末は一応過ぎたが、過ぎたからといって急に世界が静かになるわけではない。むしろ、締めの時に先送りされた細かな案件が、今度は“月が変わったので早めに”という顔で戻ってくる。


 榎本が営業部から戻された数字を抱えていて、三浦はまた先方のメールの温度に振り回されていた。本城は一覧表を揃えつつ、午前の会議用に必要なデータを静かに抽出している。私は自席に座るや否や、ノートパソコンを開いて一番面倒そうなメールから順に片づけ始めた。


「係長」


 榎本が少しだけ疲れた顔で画面を向けてくる。


「ここの数字、営業がまだ粘ってます」


「どれ」


「この案件です。先方の反応見込みをもう少し上で置きたいって」


 私は表を見て、即座に首を横に振った。


「まだ早い」


「ですよね」


「反応が見えてからならいいけど、今ここで上げると願望の数字になる」


「願望の数字、便利な言い方だなあ」


「現実より便利に見えるやつは大体危ない」


 榎本が苦笑する。

 そのやり取りをしながら、私は頭の片隅で別のことを考えていた。


 願望の数字。

 現実より便利に見えるやつ。


 その言い方、使えるかもしれない。


 小説の会話へ、そのまま入るわけではない。

 でも、主人公が言いそうな温度だ。生活を知っていて、言葉の裏に少しだけ疲れがあり、それでも投げきってはいない感じ。


 私は画面を見たまま、左手でこっそり手帳を引き寄せた。

 会議メモの余白に、誰にも分からない程度の小さな字で書く。


『現実より便利に見えるやつは大体危ない』


 これでいい。

 会議中に見返しても、ただの係長の走り書きにしか見えない。


 こういう瞬間、少しだけ可笑しくなる。

 会社では仕事をしているふりをして創作をしているのか、創作のために仕事を観察しているのか、自分でもよく分からなくなるからだ。


 だが、たぶんどちらも本当なのだろう。


     ◇


 午前十時半からの会議は、案の定長かった。


 部長が数字の精度を気にし、営業部が少しでも前向きな見込みを残したがり、現場の返答待ち案件が二つほど途中で差し込まれる。私はその中で、誰かが強く言いすぎたところを少しだけ丸くし、曖昧すぎたところを少しだけ具体へ寄せる仕事をしていた。


 昔はこういう会議が嫌いだった。

 いまも好きではない。

 だが最近は、会議そのものより、会議の中で人がどう言い換えるかのほうが気になる。


「こちらとしては前向きに検討を――」


 営業部の課長が言いかけたところで、私は口を挟んだ。


「“前向きに”は今入れないほうがいいと思います。まだ条件の整理段階なので」


 部長がこちらを見る。

 営業部の課長も、少しだけ言葉を飲み込む。


「……たしかに、そうだな」


 部長が言う。

「先方が期待しすぎると後が面倒だ」


「はい」


 私は頷いた。

 頷きながら、また別の台詞が頭をよぎる。


 期待しすぎると後が面倒だ。


 私は危うく笑いそうになった。

 本当に、今日の会議は新企画の台詞の宝庫みたいだと思う。


 もちろん、そのまま使えるわけではない。

 だが、この“後が面倒だ”という言い方の疲れ方はすごくいい。人生経験の浅い人物にはたぶん言えない温度だ。若いキャラクターなら「それだと困ります」とか「それはまずいです」と言うだろう。だが四十を過ぎた人間は、もっと疲れた言い方をする。


 後が面倒だ。

 たったそれだけで、これまで何度も痛い目を見てきた感じが出る。


 会議資料の端に、私はまた小さくメモした。


『期待しすぎると後が面倒だ』


 こういう時、本当に企画が生き返っているのだと分かる。

 普段なら流れていく会社の会話が、全部少しずつ別の文脈へ接続されて見える。


 新企画の人物が、こちらの生活の中へ戻ってきている。


     ◇


 会議が終わって席へ戻ると、三浦が待ちかまえたように寄ってきた。


「係長、ちょっとだけいいですか」


「どうした」


「先方への返信、これでいけそうか見てほしいです」


 私はモニターをのぞき込む。

 文面は前よりずっといい。少なくとも、勢いのまま“できそうです”と書いてしまっていた頃よりは、明らかに慎重になっている。


「悪くない」


「マジですか」


「ただ、ここだけ」


 私は最後の一文を指さした。


「“可能な限りご期待に沿えるよう努めます”は少し危ない」


「うわ、そこ駄目か」


「気持ちはわかるけど、相手の期待値を上げる」


「じゃあ何がいいですか」


 私は少しだけ考えてから言った。


「“現時点でご提示可能な範囲を整理のうえ、改めてご案内します”くらいが無難かな」


 三浦は「うわあ」と妙な声を出した。


「係長、それ、どうやって思いつくんですか」


「長く生きると、期待を上げない言い方だけ上手くなる」


「嫌なスキルだなあ」


「仕事はそういうのばっかりだ」


 三浦が笑う。

 私はその笑いを見ながら、また頭のどこかが反応しているのを感じた。


 長く生きると、期待を上げない言い方だけ上手くなる。


 そのままでは使えない。

 でも、かなり近い。

 中年の会話として、かなり生っぽい。


 私は三浦が席へ戻ったあと、また手帳を開いて小さく書き足した。

 もう今日は、会議メモなのか企画メモなのか、自分でも少し曖昧だ。


 でもそれでいい。

 今日はたぶん、そういう日なのだ。


     ◇


 昼休み、私は自席でコンビニのサンドイッチを食べながら、こっそり朝のメモを見返していた。


『現実より便利に見えるやつは大体危ない』

『期待しすぎると後が面倒だ』

『長く生きると、期待を上げない言い方だけ上手くなる』


 並べてみると、全部かなり会社員的だ。

 でも、そこがいい。

 新企画の人物がもし中年会社員なら、こういう台詞を自分の血肉として持っていなければ嘘になる。


 私はサンドイッチを一口食べ、紙コップのコーヒーを飲んだ。

 少しぬるい。


 ぬるいコーヒーを飲みながら、ふと気づく。


 最近の私は、新企画を“考えよう”としてうまく行かなかったのだ。

 考える、という姿勢そのものが、少し守りに入りすぎていたのかもしれない。

 だが今日は、考えていない。

 会社の言葉を拾っているだけだ。

 そのほうが、かえって企画が立ち上がってくる。


 つまり、頭で組む前に、まず体の中へ戻してやればいいのだろう。


 企画はアイデアではなく、人の喋り方や、疲れ方や、諦め方の手触りから始まる。

 少なくとも私の書くものは、たぶんそうだ。


 そのことを、いまさら少し思い出している。


     ◇


 午後の仕事も忙しかった。


 本城が一覧の差し替えを持ってきて、榎本が営業部の希望値をもう一度現実へ戻し、三浦は修正した文面でなんとか先方とのやり取りを着地させた。私はその間を縫って部長の確認を二度受け、会議の要点を一枚にまとめ、夕方にはようやく一息つけた。


 その頃には、手帳の余白がだいぶ埋まっていた。


 仕事のメモのふりをした、企画の断片。

 誰にも見せない、小さな盗み。


 こんなやり方でしか新企画が育たないのかと思うと、少し情けない気もする。

 だが、会社員の一週間というのは、たぶんそういうものなのだろう。

 まとまった時間はない。

 あるのは、細切れの集中だけだ。

 その細切れの中で拾い集めた言葉を、夜にどうにか繋げていくしかない。


 五時半を回り、フロアの空気が少しだけ緩む。

 私はパソコンを閉じる前に、朝からのメモを私物のスマホへ打ち直した。


 手帳だけに残しておくと、あとで自分でも読めなくなるからだ。


『四十を過ぎてからの希望は、だいたい誰にも見せづらい。』

『現実より便利に見えるやつは大体危ない。』

『期待しすぎると後が面倒だ。』

『長く生きると、期待を上げない言い方だけ上手くなる。』


 並べただけなのに、すでに何かの輪郭が見えてくる。

 主人公の声だ。

 たぶんもう、かなり近いところまで来ている。


 私はそれを見て、久しぶりに少しだけ胸が熱くなった。


 まだ一行目しかない。

 構成も決まっていない。

 高梨に見せられる段階ではまったくない。


 それでも、“勝手に言葉が寄ってくる”という状態そのものが、いまは何よりありがたかった。


     ◇


 帰りの電車では、私は珍しく座れた。


 座ると人は、少しだけ余計なことを考える余裕ができる。

 私は膝の上に鞄を置き、窓ガラスに映る自分をぼんやり見ていた。


 会社では係長。

 夜は書き手。

 そのあいだで、新企画の人物が少しずつ言葉を取り戻し始めている。


 若い頃のように、誰にも邪魔されずに一気に没頭できるわけではない。

 コンテストの結果に一喜一憂するだけの身軽さももうない。

 生活は細かく現実的で、会社の予定表は来週も再来週もきっちり埋まっている。


 それでも、企画が生きている時は、こうして会社の会議中にまで台詞が浮かぶ。

 浮かんでしまう。

 それは、少しだけ救いだった。


 飛び抜けた才能とか、若さとか、そういう武器がなくても、まだ創作の火が完全には消えていない証拠だからだ。


 私はスマホのメモをもう一度見た。


 その四行だけで、すでに主人公の輪郭が少し出ている。

 疲れていて、慎重で、少し皮肉っぽくて、それでもどこかでまだ希望を手放していない中年の男。

 それは、今の私にしか書けない種類の人物なのかもしれない。


     ◇


 夜、書斎へ入ると、私はほとんど迷わず『再構成_危ない案』を開いた。


 今日はメモ帳からではなく、いきなり本文へ行ける気がした。

 それだけで少し嬉しい。


 画面の上には昨夜までに書いた数段落がある。

 まだ粗い。

 でも、そこへ今日の会議中に拾った台詞を差し込めば、人物の声が一段深くなる気がした。


 私はキーボードに手を置いた。


 主人公が会社の会議で誰かの期待値を下げる言い方を選ぶ場面。

 そのあと、独り言みたいにこぼす一文。


『期待しすぎると後が面倒なんだよ。仕事も、人間も。』


 打って、少し考える。

 悪くない。

 もう少し削る。


『期待しすぎると後が面倒だ。仕事も、人間も、だいたいそれで揉める。』


 こっちのほうがいい。

 より疲れていて、より本音に近い。


 私はそのまま数行を書き進めた。

 会議室の空気。

 相手の語尾。

 言い換えの順番。

 昼間に拾ったものが、ほとんど抵抗なく物語の中へ流れ込んでいく。


 久しぶりだった。

 こんなふうに、生活の現場からそのまま企画へ血が通う感じは。


 私は打つ手を止めずに思う。


 会社の会議中に、企画の台詞が浮かぶ。

 昔はそれを“仕事に集中していない証拠”みたいに少し後ろめたく感じていた時期もあった。

 でも、今の私には分かる。


 たぶん逆なのだ。

 ちゃんと仕事をして、ちゃんと人の言葉を聞いているからこそ、企画がそこから勝手に育ち始める。


 会社員の生活が創作の邪魔をすることは確かにある。

 だが、同時に、その邪魔の中にしか出てこない声もある。


 それがいま、ようやく戻ってきている。


 私は時計を見る。

 もう零時が近い。

 遅い。

 でも、今日は少しだけいい遅さだった。

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