第26話 会社の会議中に、企画の台詞が浮かぶ
企画が生きている時は、こちらが呼ばなくても勝手に言葉が寄ってくる。
それは経験上、たぶん本当だ。
逆に言えば、寄ってこない時はだいたい駄目である。机に向かっても、通勤電車でも、風呂の中でも、何も浮かばない。ただ“考えている”という疲労だけが残る。そういう時の企画は、たいてい頭の中ではそれらしく見えても、実際に文章へ落とした瞬間に温度を失う。
だが、今夜の『再構成_危ない案』は少し違った。
前の晩に数ページだけ書き足した、そのわずかな火種が、翌朝になっても消えていなかったのだ。
それどころか、月曜の通勤電車の中で、私はまたひとつ台詞を拾ってしまった。
『四十を過ぎてからの希望は、だいたい誰にも見せづらい。だから余計にしぶとい。』
東西線の揺れる車内で、私は吊り革につかまりながら、片手でスマホのメモ帳へそれだけ打ち込んだ。打ち込んでから、少しだけ口元が緩みそうになる。
来ている。
言葉が、少しずつ向こうから寄ってきている。
その感覚が久しぶりだった。
若い頃は、こういう朝がもっと頻繁にあった気がする。どこを歩いていても、頭の中に人物がいて、会話が湧き、場面が勝手に膨らんでいく。もちろん記憶は美化されるから、実際にはそんなに都合よく毎日書けていたわけでもないのだろう。だが少なくとも、“企画が生きている時の感じ”は体が覚えている。
今日は、その感じに少し近かった。
◇
営業管理課の午前は、いつも通りの慌ただしさで始まった。
月末は一応過ぎたが、過ぎたからといって急に世界が静かになるわけではない。むしろ、締めの時に先送りされた細かな案件が、今度は“月が変わったので早めに”という顔で戻ってくる。
榎本が営業部から戻された数字を抱えていて、三浦はまた先方のメールの温度に振り回されていた。本城は一覧表を揃えつつ、午前の会議用に必要なデータを静かに抽出している。私は自席に座るや否や、ノートパソコンを開いて一番面倒そうなメールから順に片づけ始めた。
「係長」
榎本が少しだけ疲れた顔で画面を向けてくる。
「ここの数字、営業がまだ粘ってます」
「どれ」
「この案件です。先方の反応見込みをもう少し上で置きたいって」
私は表を見て、即座に首を横に振った。
「まだ早い」
「ですよね」
「反応が見えてからならいいけど、今ここで上げると願望の数字になる」
「願望の数字、便利な言い方だなあ」
「現実より便利に見えるやつは大体危ない」
榎本が苦笑する。
そのやり取りをしながら、私は頭の片隅で別のことを考えていた。
願望の数字。
現実より便利に見えるやつ。
その言い方、使えるかもしれない。
小説の会話へ、そのまま入るわけではない。
でも、主人公が言いそうな温度だ。生活を知っていて、言葉の裏に少しだけ疲れがあり、それでも投げきってはいない感じ。
私は画面を見たまま、左手でこっそり手帳を引き寄せた。
会議メモの余白に、誰にも分からない程度の小さな字で書く。
『現実より便利に見えるやつは大体危ない』
これでいい。
会議中に見返しても、ただの係長の走り書きにしか見えない。
こういう瞬間、少しだけ可笑しくなる。
会社では仕事をしているふりをして創作をしているのか、創作のために仕事を観察しているのか、自分でもよく分からなくなるからだ。
だが、たぶんどちらも本当なのだろう。
◇
午前十時半からの会議は、案の定長かった。
部長が数字の精度を気にし、営業部が少しでも前向きな見込みを残したがり、現場の返答待ち案件が二つほど途中で差し込まれる。私はその中で、誰かが強く言いすぎたところを少しだけ丸くし、曖昧すぎたところを少しだけ具体へ寄せる仕事をしていた。
昔はこういう会議が嫌いだった。
いまも好きではない。
だが最近は、会議そのものより、会議の中で人がどう言い換えるかのほうが気になる。
「こちらとしては前向きに検討を――」
営業部の課長が言いかけたところで、私は口を挟んだ。
「“前向きに”は今入れないほうがいいと思います。まだ条件の整理段階なので」
部長がこちらを見る。
営業部の課長も、少しだけ言葉を飲み込む。
「……たしかに、そうだな」
部長が言う。
「先方が期待しすぎると後が面倒だ」
「はい」
私は頷いた。
頷きながら、また別の台詞が頭をよぎる。
期待しすぎると後が面倒だ。
私は危うく笑いそうになった。
本当に、今日の会議は新企画の台詞の宝庫みたいだと思う。
もちろん、そのまま使えるわけではない。
だが、この“後が面倒だ”という言い方の疲れ方はすごくいい。人生経験の浅い人物にはたぶん言えない温度だ。若いキャラクターなら「それだと困ります」とか「それはまずいです」と言うだろう。だが四十を過ぎた人間は、もっと疲れた言い方をする。
後が面倒だ。
たったそれだけで、これまで何度も痛い目を見てきた感じが出る。
会議資料の端に、私はまた小さくメモした。
『期待しすぎると後が面倒だ』
こういう時、本当に企画が生き返っているのだと分かる。
普段なら流れていく会社の会話が、全部少しずつ別の文脈へ接続されて見える。
新企画の人物が、こちらの生活の中へ戻ってきている。
◇
会議が終わって席へ戻ると、三浦が待ちかまえたように寄ってきた。
「係長、ちょっとだけいいですか」
「どうした」
「先方への返信、これでいけそうか見てほしいです」
私はモニターをのぞき込む。
文面は前よりずっといい。少なくとも、勢いのまま“できそうです”と書いてしまっていた頃よりは、明らかに慎重になっている。
「悪くない」
「マジですか」
「ただ、ここだけ」
私は最後の一文を指さした。
「“可能な限りご期待に沿えるよう努めます”は少し危ない」
「うわ、そこ駄目か」
「気持ちはわかるけど、相手の期待値を上げる」
「じゃあ何がいいですか」
私は少しだけ考えてから言った。
「“現時点でご提示可能な範囲を整理のうえ、改めてご案内します”くらいが無難かな」
三浦は「うわあ」と妙な声を出した。
「係長、それ、どうやって思いつくんですか」
「長く生きると、期待を上げない言い方だけ上手くなる」
「嫌なスキルだなあ」
「仕事はそういうのばっかりだ」
三浦が笑う。
私はその笑いを見ながら、また頭のどこかが反応しているのを感じた。
長く生きると、期待を上げない言い方だけ上手くなる。
そのままでは使えない。
でも、かなり近い。
中年の会話として、かなり生っぽい。
私は三浦が席へ戻ったあと、また手帳を開いて小さく書き足した。
もう今日は、会議メモなのか企画メモなのか、自分でも少し曖昧だ。
でもそれでいい。
今日はたぶん、そういう日なのだ。
◇
昼休み、私は自席でコンビニのサンドイッチを食べながら、こっそり朝のメモを見返していた。
『現実より便利に見えるやつは大体危ない』
『期待しすぎると後が面倒だ』
『長く生きると、期待を上げない言い方だけ上手くなる』
並べてみると、全部かなり会社員的だ。
でも、そこがいい。
新企画の人物がもし中年会社員なら、こういう台詞を自分の血肉として持っていなければ嘘になる。
私はサンドイッチを一口食べ、紙コップのコーヒーを飲んだ。
少しぬるい。
ぬるいコーヒーを飲みながら、ふと気づく。
最近の私は、新企画を“考えよう”としてうまく行かなかったのだ。
考える、という姿勢そのものが、少し守りに入りすぎていたのかもしれない。
だが今日は、考えていない。
会社の言葉を拾っているだけだ。
そのほうが、かえって企画が立ち上がってくる。
つまり、頭で組む前に、まず体の中へ戻してやればいいのだろう。
企画はアイデアではなく、人の喋り方や、疲れ方や、諦め方の手触りから始まる。
少なくとも私の書くものは、たぶんそうだ。
そのことを、いまさら少し思い出している。
◇
午後の仕事も忙しかった。
本城が一覧の差し替えを持ってきて、榎本が営業部の希望値をもう一度現実へ戻し、三浦は修正した文面でなんとか先方とのやり取りを着地させた。私はその間を縫って部長の確認を二度受け、会議の要点を一枚にまとめ、夕方にはようやく一息つけた。
その頃には、手帳の余白がだいぶ埋まっていた。
仕事のメモのふりをした、企画の断片。
誰にも見せない、小さな盗み。
こんなやり方でしか新企画が育たないのかと思うと、少し情けない気もする。
だが、会社員の一週間というのは、たぶんそういうものなのだろう。
まとまった時間はない。
あるのは、細切れの集中だけだ。
その細切れの中で拾い集めた言葉を、夜にどうにか繋げていくしかない。
五時半を回り、フロアの空気が少しだけ緩む。
私はパソコンを閉じる前に、朝からのメモを私物のスマホへ打ち直した。
手帳だけに残しておくと、あとで自分でも読めなくなるからだ。
『四十を過ぎてからの希望は、だいたい誰にも見せづらい。』
『現実より便利に見えるやつは大体危ない。』
『期待しすぎると後が面倒だ。』
『長く生きると、期待を上げない言い方だけ上手くなる。』
並べただけなのに、すでに何かの輪郭が見えてくる。
主人公の声だ。
たぶんもう、かなり近いところまで来ている。
私はそれを見て、久しぶりに少しだけ胸が熱くなった。
まだ一行目しかない。
構成も決まっていない。
高梨に見せられる段階ではまったくない。
それでも、“勝手に言葉が寄ってくる”という状態そのものが、いまは何よりありがたかった。
◇
帰りの電車では、私は珍しく座れた。
座ると人は、少しだけ余計なことを考える余裕ができる。
私は膝の上に鞄を置き、窓ガラスに映る自分をぼんやり見ていた。
会社では係長。
夜は書き手。
そのあいだで、新企画の人物が少しずつ言葉を取り戻し始めている。
若い頃のように、誰にも邪魔されずに一気に没頭できるわけではない。
コンテストの結果に一喜一憂するだけの身軽さももうない。
生活は細かく現実的で、会社の予定表は来週も再来週もきっちり埋まっている。
それでも、企画が生きている時は、こうして会社の会議中にまで台詞が浮かぶ。
浮かんでしまう。
それは、少しだけ救いだった。
飛び抜けた才能とか、若さとか、そういう武器がなくても、まだ創作の火が完全には消えていない証拠だからだ。
私はスマホのメモをもう一度見た。
その四行だけで、すでに主人公の輪郭が少し出ている。
疲れていて、慎重で、少し皮肉っぽくて、それでもどこかでまだ希望を手放していない中年の男。
それは、今の私にしか書けない種類の人物なのかもしれない。
◇
夜、書斎へ入ると、私はほとんど迷わず『再構成_危ない案』を開いた。
今日はメモ帳からではなく、いきなり本文へ行ける気がした。
それだけで少し嬉しい。
画面の上には昨夜までに書いた数段落がある。
まだ粗い。
でも、そこへ今日の会議中に拾った台詞を差し込めば、人物の声が一段深くなる気がした。
私はキーボードに手を置いた。
主人公が会社の会議で誰かの期待値を下げる言い方を選ぶ場面。
そのあと、独り言みたいにこぼす一文。
『期待しすぎると後が面倒なんだよ。仕事も、人間も。』
打って、少し考える。
悪くない。
もう少し削る。
『期待しすぎると後が面倒だ。仕事も、人間も、だいたいそれで揉める。』
こっちのほうがいい。
より疲れていて、より本音に近い。
私はそのまま数行を書き進めた。
会議室の空気。
相手の語尾。
言い換えの順番。
昼間に拾ったものが、ほとんど抵抗なく物語の中へ流れ込んでいく。
久しぶりだった。
こんなふうに、生活の現場からそのまま企画へ血が通う感じは。
私は打つ手を止めずに思う。
会社の会議中に、企画の台詞が浮かぶ。
昔はそれを“仕事に集中していない証拠”みたいに少し後ろめたく感じていた時期もあった。
でも、今の私には分かる。
たぶん逆なのだ。
ちゃんと仕事をして、ちゃんと人の言葉を聞いているからこそ、企画がそこから勝手に育ち始める。
会社員の生活が創作の邪魔をすることは確かにある。
だが、同時に、その邪魔の中にしか出てこない声もある。
それがいま、ようやく戻ってきている。
私は時計を見る。
もう零時が近い。
遅い。
でも、今日は少しだけいい遅さだった。




