第25話 やりすぎるくらいで、やっと届くのかもしれない
昔の自分の書いたものを読み返すのは、だいたい少し恥ずかしい。
文章の癖がいまより露骨だったり、会話に妙な気取りがあったり、人物の感情が必要以上に尖っていたりする。うまくない。整っていない。よくこれで人に見せようと思ったな、と、十年前の自分に対して半分呆れることもある。
けれど、その恥ずかしさの中に、今の自分が少し羨ましく思うものが混じる時もある。
怖がっていない感じだ。
少なくとも、今よりは。
その夜、私は書斎の机で、複製したばかりのファイル――『再構成_危ない案』――を開いていた。
画面の中には、昔の自分が書いた粗い書き出しと、箇条書きの人物メモと、途中で放り出した会話の断片が残っている。いまの私が普段組む企画よりも、明らかに温度が高い。危ない、というより、ちょっと無遠慮なのだ。
それが今夜は、妙に眩しく見えた。
デスクライトの下で、私はその古い文をゆっくり読み返した。
『その男は、四十代のくせに、人生のどこかでまだ逆転できると思っていた。だから滑稽で、だから少しだけ泣ける。』
やはり乱暴だ。
でも、弱くはない。
今の私なら、まずこういう一行目にはしないだろう。
もっと含みを持たせる。
もっと穏当な入り方を選ぶ。
読者が身構えすぎないように、やわらかく整えた空気から始めるはずだ。
でも、この一文には、整える前の熱がある。
少しだけ恥ずかしくて、少しだけみっともなくて、それでも“この先を読ませたい”という腕力があった。
私はそこで、少しだけ呼吸を深くした。
高梨が言っていたのは、たぶんこういうことなのだ。
上手くまとまる前の熱。
安全運転へ入る前の危なさ。
今の私はそれを、企画の段階で自分から消してしまっていた。
ファイルの下へスクロールする。
主人公は中年の会社員で、家にも会社にも別の顔を見せている。そこまでは今の私がよく考える題材と似ている。だが、この案の主人公は、いまの私より明らかに危ない。生活を守りながら書いている人間というより、生活が崩れかけているからこそ何かを書かずにいられない男として立っている。
同僚たちも、今の私が作るより少しだけ嫌な角がある。
言葉がやさしくない。
でも、そのやさしくなさの中に、変に消えない体温がある。
私はマウスを止めたまま、画面を見つめた。
もしこのまま書いたら、たぶん危うい。
いまの読者がどこまでついてきてくれるかも分からない。
営業がどう説明するのかも想像しづらい。
会社員を続けながら、毎晩この温度へ入り込むのは、正直しんどいかもしれない。
けれど、それでも思う。
読みたいのは、こっちだ。
少なくとも、いま画面の前に座っている私は、そう思ってしまっている。
◇
私はメモ帳を開いた。
最近は、本文へすぐ入る前に、その夜の自分が何に引っかかっているのかを一度だけ言葉にしておくことが増えた。そうしないと、考えすぎがそのまま停滞になるからだ。
『昔の自分の企画は、粗い。けれど、粗いまま押し切ろうとする力がある。』
まずそう打つ。
『今の自分の企画は、読める。けれど、読めるところまで整えた時点で満足しかけている。』
そこまで書いて、少しだけ笑った。
満足しているわけではない。
むしろずっと足りないと思っている。
だが、その“足りない”の前に、まず“ちゃんと読めるものにしよう”を優先している時点で、私はどこか守りに入っているのだろう。
私は続けて打った。
『やりすぎるくらいで、やっと届くのかもしれない。』
それが、今夜の核心だった。
コンテストで最後の壁を越える作品も、新シリーズとして強く立ち上がる企画も、たぶんどこかで「そこまでやるのか」という一歩を含んでいる。読者を少しだけ困らせるかもしれないし、営業会議では説明しづらいかもしれない。でも、その“少し困る”くらいのところに、記憶へ残る強さが生まれるのではないか。
私は若い受賞者たちのタイムラインを思い出していた。
あの勢い。
あの“人生変わりました”と言い切れるまっすぐさ。
私はもう、あんなふうには飛べない。
でも、飛べないからといって、企画まで全部を丸くする必要はないのかもしれない。
危ない温度を、そのまま生活へ持ち込むのではなく、物語の中へきちんと封じること。
四十七歳の今の私にできる“やりすぎ”は、たぶんそこにある。
◇
その時、ドアの外で足音がした。
軽い足音。
結衣だろう。
「お父さん、起きてる?」
「起きてるよ」
ドアが少しだけ開いて、娘が顔をのぞかせた。スウェット姿で、髪は適当に後ろで束ねられている。片手にマグカップ。夜更かしして勉強していたのか、それともただ喉が渇いただけなのか、その中間みたいな顔だった。
「牛乳、もう一本開けていい?」
「いいよ」
「ありがと」
そこで終わるかと思ったら、結衣は少しだけ部屋の中を見渡して言った。
「今日はまだ起きてるんだね」
「いつも起きてるだろ」
「でも、今日はなんか……」
彼女は少し言葉を探した。
「機嫌は悪くない感じ」
私は思わず笑った。
「機嫌が悪い日もあるみたいな言い方だな」
「あるよ」
きっぱり言われる。
「書けてない日はわりと分かる」
その一言に、私は少しだけ目を上げた。
分かるのか。
家族には。
やはり、そういうものは顔や空気に滲むのだろう。
「今日は書けそう?」
結衣が聞く。
無邪気というほど幼くはないが、まだ大人の遠慮へ完全には寄っていない問い方だった。
「……少しだけな」
私は正直にそう言った。
結衣はそれを聞いて、小さく頷いた。
「じゃあ、いい日じゃん」
それだけ言って、彼女は部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
足音が遠ざかる。
私はそのあと、しばらく何も打てなかった。
少しだけな。
いい日じゃん。
たったそれだけの会話が、妙に胸へ残る。
若い受賞者みたいに人生が一気に変わるわけではない。
新シリーズがその場で決まるわけでもない。
でも、“今日は少しだけ書けそう”が言える夜は、たしかに悪くない日なのかもしれない。
私はふと、いまの企画に足りないのは、こういう雑な一言の肯定なのかもしれないと思った。
上手くまとまっていない。
でも、少しだけ前へ行けそう。
そのくらいの不安定さを、私は最近の企画から消しすぎていたのではないか。
◇
私は原稿ファイルではなく、『再構成_危ない案』の本文へ戻った。
古い一行目を残したまま、その下へ新しい文章を書き足していく。
昔のままではない。
でも、今の私の守りすぎた言葉だけでもない。
その中間より、もう少しだけ熱のほうへ寄せたい。
『その男は、人生をちゃんと失敗しないように生きてきたつもりだった。だからこそ、四十を過ぎてからまだ何かを欲しがる自分が少しだけみっともない。けれど、みっともないと思えるうちは、たぶんまだ終わっていない。』
そこまで打って、私は少しだけ首を傾げた。
悪くない。
でも、まだ少し整っている。
Deleteで二行ほど戻し、別の流れを試す。
『その男は、四十代にもなって、まだ人生のどこかで逆転できると思っていた。そんなものは滑稽だと知っている。知っているのに、月曜の電車の中でだけ、時々その滑稽さにしがみついてしまう。』
今度は少しだけ、熱が近い。
私はそのまま続けた。
会社の朝。
吊り革。
くたびれたスーツ。
それでも頭の中にだけある別の物語。
そして、その物語が生活へ食い込んでくる感じ。
書いているうちに、少しずつ自分の呼吸が整っていくのが分かった。
これは、今のシリーズとは少し違う。
今の読者がそのまま同じ温度でついてきてくれる保証はない。
でも、自分の中で“続きを読みたい”という気持ちは確かに立ち上がっている。
それは、最近の企画にはなかった手応えだった。
私はそこでようやく、昨日までの停滞と今夜の違いを認識した。
今夜の私は、整える前に先を読みたがっている。
それだけで、かなり大きい。
◇
時計を見ると、もう零時半を回っていた。
遅い。
明日も会社だ。
ここでさらに無理をすると、朝の通勤電車で確実に後悔する。
それでも、今日はすぐに閉じたくなかった。
久しぶりに、書きながら少しだけ前のめりになっている。若い頃みたいな勢いではない。でも、四十七歳のいまの私なりの熱としては、かなり珍しい。
私は最後にメモ帳へ一行だけ残した。
『やりすぎるくらいで、やっと届くのかもしれない。少なくとも、自分自身には。』
それを書いてから、少しだけ笑った。
そうだ。
まず自分自身へ届かなければ、たぶん誰にも届かない。
編集にも。
読者にも。
コンテストの選考にも。
私はこれまで、“読める企画”を作ることにかなり心を使ってきた。
でも、今夜の自分が求めているのは、“自分が続きを読みたい企画”のほうだ。
その順番へ、ようやく少し戻れたのかもしれない。
ファイルを保存し、パソコンを閉じる。
机の上には見本誌と会社の手帳と健康診断の紙が、相変わらず少しだけ雑に並んでいる。
整っていない。
でも、それでいいのだろう。
生活が整いきらないまま、
企画も少しだけ危ないまま、
それでも次の一行が書けるなら、
その夜はたぶん、十分に前へ進んでいる。




