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四十七歳、現役ラノベ作家。オリコンランカーだけれど生活はまだ会社員のままだ  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第24話 失敗しない企画は、たぶん勝たない

その夜、私は高梨の言葉を持ち帰ったまま、ずいぶん長く風呂に浸かった。


 熱い湯に肩まで沈み、天井の白い換気口をぼんやり見上げる。風呂場という場所は、思考に向いているのか向いていないのか、今でもよく分からない。いい案が急に浮かぶこともあれば、ただ疲れだけが湯の中へ溶けていくこともある。


 その日は、どちらかといえば後者だった。


 高梨の言葉が、頭の中で何度も同じ形に戻ってくる。


 上手くまとまりすぎている。

 失敗しない企画を考えすぎている。

 この話じゃないと駄目だ、が少し足りない。


 どれも正しい。

 悔しいが、正しい。


 私は目を閉じた。

 風呂の湯が少しぬるくなってきている。


 若い頃なら、こういう指摘をもっと単純に受け取っていたかもしれない。

 もっと尖れ、というなら尖ればいい。

 もっと危ないものを書け、というなら書けばいい。

 そういう乱暴な元気があった。


 でも今の私は、もうそういう雑な元気では動けない。


 会社がある。

 家がある。

 毎月の引き落としがあり、娘の進学があり、健康診断の紙には去年より少しだけ現実的な数字が並ぶ。

 そういう生活を抱えたまま書く人間は、たぶん無意識に“外しすぎない”方向へ寄る。


 それは弱さなのだろうか。

 あるいは、年齢を重ねた人間の当然の防御なのだろうか。


 私は湯の中で両手を見た。

 指先が少しふやけている。

 会社の資料をめくり、夜はキーボードを叩く手だ。若い頃みたいな勢いだけの手ではない。生活の重さを覚えた手だ。


 たぶん、そこが問題なのだろう。


 私はいま、生活を壊さないまま書ける企画を先に探している。

 会社員兼作家として無理なく回せるもの。

 読者が大きく離れないもの。

 営業会議で説明しやすいもの。

 高梨が「この方向でいきましょう」と言いやすいもの。


 つまり、失敗しにくい企画だ。


 でも、失敗しにくいということは、時々そのまま勝ちにくいへ繋がる。


 私はそれを、今ようやく正面から認めようとしていた。


     ◇


 風呂から上がると、リビングにはまだ灯りがついていた。


 真由美がソファでタブレットを見ながら、洗濯物を畳んでいる。結衣は自室に戻ったらしい。テレビは消えていて、家の中は静かだった。そういう夜の静けさは好きだ。会社のざわつきと違って、ここには“もう今日を閉じてもいい”感じがある。


「長かったね」


 真由美が顔を上げる。


「考えごとしてた」


「仕事?」


「半分仕事で、半分仕事じゃない」


 私がそう言うと、彼女は「いちばん面倒なやつだ」と笑った。


 その通りだと思う。

 創作のことは、私の中では仕事でもあり仕事でないものでもある。商業としては仕事だし、生活から見れば副収入でもある。だが同時に、それだけでは済まない。少なくとも、私の精神の置き場としては、もう少し深く生活へ根を下ろしてしまっている。


「ごはん少し足りてる?」


「足りてる」


「顔は足りてない感じ」


「何がだよ」


「元気が」


 私は思わず苦笑した。

「家族、最近、顔ばっか見てないか」


「前から見てるよ」


 真由美は洗濯物を一枚畳んで、テーブルの上へ重ねた。


「ただ、あなたが前より顔に出るようになっただけじゃない?」


 その言葉に、私は少しだけ考える。


 顔に出るようになった。

 そうだろうか。

 若い頃の私はもっとポーカーフェイスだった気がしていた。会社でも、家でも、疲れや迷いはできるだけ顔へ出さないようにしていた。出さないのが大人だと思っていたし、それができるのが自分の取り柄でもあると思っていた。


 でも、最近は本城にも言われた。

 榎本や三浦にはさすがにそこまで細かく見抜かれていないだろうが、それでも職場の人間は思っている以上にこちらの疲れや間を見ている気がする。


 四十七にもなると、隠す力より、漏れるもののほうが増えてくるのかもしれない。


「そんなに出てるか?」


「出てるよ」


 真由美はあっさり言った。

「ただ、前みたいに無理して消してない感じもするけど」


 私はそこに少し救われた。


 無理して消していない。

 それは、たぶん悪いことばかりではない。


「新しい話のこと考えてた?」


 その問いには、一瞬だけ返事が遅れた。

 真由美は私がいまのシリーズ以外にも次のことを考えているのを、ぼんやりとは知っている。具体的な企画までは話していないが、“次を考える時期”が来ると私の顔つきが少し変わることくらいは、長く一緒にいれば分かるのだろう。


「うん」


「うまくいってない?」


「うまくいってない、というか」


 私はそこで言葉を探した。

 生活の言葉で、創作の痛点を説明するのは難しい。


「ちゃんと作りすぎてるのかもしれない」


 真由美が少しだけ首を傾げる。


「ちゃんと?」


「整ってる。読める。たぶん悪くない。でも、それだけだと弱い、みたいな」


 彼女はすぐには答えなかった。

 洗濯物のタオルを一枚、二つ折りにしてから言う。


「それって、あなたっぽいね」


「褒めてるのか」


「半分は」


 私は笑った。

「高梨と同じこと言うな」


「担当さんにも言われたの?」


「言われた。失敗しない企画を考えすぎてるって」


 真由美は、その言葉を聞いて「なるほど」とだけ言った。

 あっさりしているようで、でもその“なるほど”にはちゃんと何かを理解した感じがある。私は昔から、彼女のこういう受け取り方に何度も助けられてきた。


「生活があると、そりゃそうなるよね」


 彼女はそう続けた。


 生活があると。

 その一言は、ひどく当たり前で、だからこそ正確だった。


 若い受賞者の勢いも、コンテストの熱も、新シリーズの立ち上がりの危なさも、結局は“生活があると”少しずつ角度を変える。私はもう、生活の外側で創作を考えられる人間ではない。


 それは不利でもあるし、たぶん今の私の文章の土台でもある。


「でも」と真由美が言う。「ちゃんと作りすぎて弱くなるって、ちょっとわかるかも」


 私は顔を上げた。


「たとえば?」


「料理でもあるよ。失敗しない味にしようとすると、きれいだけど記憶に残らないこと」


 私は思わず黙った。

 料理にたとえられるとは思わなかったが、妙に腑に落ちたからだ。


「塩が強すぎるのはもちろん駄目だけど、怖がって全部薄味にすると“おいしいね”で終わるじゃない」


「……なるほどな」


「毎日食べるならそれでもいいけど、“また食べたい”ってなるのは、ちょっとだけ危ない味だったりするよね」


 私はその言葉を頭の中で転がした。

 危ない味。

 それはまさに、いま高梨に求められているものなのかもしれない。


 いや、求められているというより、自分でも本当は欲しいのだろう。

 整っているだけでは、自分自身が次を書きたいところまで燃えない。

 中間選考までは行く。編集にも「悪くない」と言われる。けれど、その先へ抜けない。

 その原因の一つは、たぶんその“薄味”にある。


「今のシリーズは?」


 真由美が聞く。


「今のは……」


 私は少し考えた。


「たぶん、自分の中ではちょうどよかったんだと思う。だから続いてる」


「じゃあ次は、まだ“ちょうど”になってないんじゃない」


 それだけのことかもしれない。

 私はその時、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 壮大な才能の問題ではなく、

 自分が何者かという哲学でもなく、

 単にまだ“ちょうど”が見つかっていないだけ。


 そう考えると、少しだけ呼吸がしやすい。


     ◇


 書斎へ入ったのは、もう零時近かった。


 遅い。

 でも、今日はどうしても企画フォルダをもう一度開いておきたかった。


 デスクライトをつける。

 パソコンを開く。

 机の上の見本誌と手帳と健康診断の紙を少しだけ脇へ寄せる。


 その動作をしながら、私はぼんやりと考えていた。


 失敗しない企画。

 それはたぶん、会社員としての私が無意識に求めるものだ。


 炎上しない。

 説明できる。

 無茶な締切になりにくい。

 家庭を壊さない。

 営業会議で扱いやすい。

 読者層が急に切れない。


 そういう条件を、私は最近ほとんど反射で付け足している。

 でも、それは裏返せば、最初から“危ない熱”を一つずつ抜いていく作業でもある。


 若い頃の私は、そこまで考えていなかった。

 考えられなかった、と言うべきかもしれない。

 だからこそ、危うくて、粗くて、でもどこか一箇所だけ強かった。


 今の私は、その粗さを削る技術を持っている。

 持っているが、その技術に助けられすぎると、勝ち切る前に整いすぎる。


 私は古い企画ファイルの中から、前にも一度開いた「未整理_やりすぎ案」を探し出した。


 ファイルを開く。

 荒い。

 相変わらず荒い。

 でも、読む側の気持ちが少し前のめりになるのを感じる。


 そこで私は、ようやく自分の弱点を言葉にできた気がした。


 私は、勝ちに行く前に、恥をかかない形へ整えてしまうのだ。


 会社員を長くやっていると、それはかなり自然な癖になる。

 見込みは強すぎないように。

 説明は詰めすぎないように。

 相手の顔を潰さないように。

 自分も後で困らないように。


 その癖が、創作にも染みている。


 だが、賞を取る企画や、新シリーズとして立つ企画は、たぶんどこかで恥をかく危険を含んでいる。滑るかもしれない。やりすぎと言われるかもしれない。それでも、その危うさごと押し出してくる。


 私はそこへ、まだ足を出し切れていない。


 メモ帳を開く。


『失敗しない企画は、たぶん勝たない。』


 まず、その一行を打った。


 続ける。


『少なくとも、自分の今の“安全運転”のままでは、最後の一押しにならない。』


 そこまで書いてから、私は少しだけ指を止めた。

 悔しい。

 でも、その悔しさが今夜は変に澄んでいる。


 昨日までの悔しさは、もっと曖昧だった。

 中間通過の通知。

 若い受賞者のまぶしさ。

 仕事の忙しさに削られる一週間。

 その全部が混ざっていて、何に腹が立っているのか自分でも少し曖昧だった。


 でも、今夜は違う。


 私は自分がどこで弱くなっているのかを、かなりはっきり見ている。


 それは、才能が足りないとか、年齢でもう遅いとか、そういう大きすぎる話ではない。

 もっと地味で、もっと修正しにくい癖だ。


 生活を守ろうとするあまり、企画まで守りに入っている。


 会社員としては立派なのかもしれない。

 でも、書き手としては、そこで止まる。


     ◇


 私は「未整理_やりすぎ案」の冒頭を少しだけ読み返し、それから新しく複製ファイルを作った。


 名前は、そのままではなく少しだけ整えてつける。


『再構成_危ない案』


 少しだけ笑ってしまった。

 結局、名前からしてもう守りに入っている。

 やりすぎ、より危ない、のほうが少しだけ柔らかい。そういうところが、もう自分らしい。


 でも、それでいい。

 いきなり若い頃の自分に戻る必要はない。

 戻れもしない。


 必要なのは、今の自分のままで、どこまで安全運転をやめられるかだ。


 私は古い書き出しの下へカーソルを置いた。


 すぐには打てない。

 でも、昨日までとは違う沈黙だ。

 怖い。

 少し興味もある。

 そして、その両方があるからこそ、まだ触っていられる。


 私はゆっくりと一行目を打ち直した。


『その男は、人生をちゃんと失敗しないように生きてきたつもりだった。だからこそ、四十を過ぎてからまだ何かを欲しがる自分が、少しだけみっともなかった。』


 打ってから、私は少しだけ息を吐いた。


 前の一行より弱い。

 でも、今の私が書くならこれくらいだろう。

 若い頃の乱暴さをそのまま真似しても、ただの借り物になる。


 ならば、今の私の危うさで行くしかない。


 そのことを、今夜ようやく少しだけ受け入れられた気がした。


 失敗しない企画は、たぶん勝たない。

 でも、だからといって、今の私が全部を捨てて無茶だけに戻るわけでもない。


 会社員であること、

 家族がいること、

 時間が少ないこと、

 それでもまだ次を書きたいこと。


 その全部を抱えたまま、少しだけ危ない温度を企画の中に戻す。

 たぶん、第二章の今の私はそこへ向かえばいい。


 私はさらに二行、三行と続けて打った。

 まだ粗い。

 でも、昨夜までの“悪くないけど決まらない”感じとは少し違う手触りがある。


 これで企画が決まるとは思わない。

 高梨に見せれば、またいくつか不安点を言われるだろう。

 コンテストで戦えるかも、まだ分からない。


 それでも今夜の私は、一つだけはっきり言える気がした。


 この方向なら、少なくとも自分で退屈はしない。


 それは、新シリーズを考えるうえで、たぶんかなり大事な最初の条件だった。

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