第23話 担当編集は、優しく現実を言う
神保町の喫茶店は、平日の午後二時を少し過ぎると、急に人の気配が薄くなる。
昼休みのピークが終わり、近くの編集部や出版社の人間がまだ本格的な夕方の慌ただしさへ入る前の、少しだけ宙ぶらりんな時間帯だ。ランチの名残みたいに皿の触れ合う音がまだ残っているのに、店内の空気はどこか静かで、話し声も一段低い。窓際の席には一人客が数人、ノートパソコンを開いている。奥のテーブルでは、スーツ姿の男女が資料を広げている。カウンターの向こうでは、店主が無駄のない手つきでコーヒーを淹れていた。
私はその店の一番奥、壁際の二人席で、高梨と向かい合っていた。
いつもの打ち合わせ場所の一つだ。
出版社の会議室を使うこともあるが、新刊の数字より先の話、つまり“次”の話をする時は、こういう少しだけ曖昧な場所のほうが話しやすいことがある。白い会議室のテーブルの上だと、企画というのは急に判断されるものみたいな顔になる。だが喫茶店の木のテーブルの上では、まだ迷っていていい感じが少し残る。
今日は、その“まだ迷っていていい”を、私はかなり必要としていた。
高梨は鞄からA4のクリアファイルを出し、私のほうへ向けていた。中には私が昨夜までにまとめた新企画のラフメモが三本、プリントアウトされている。
一つは地方都市の小さな書店を舞台にした再会もの。
一つは中年会社員たちの小さな群像劇。
もう一つは、現代の生活の延長線上にほんの少しだけ奇妙なルールを差し込む話。
どれも、ここ数年の私が考えそうな企画だった。
派手すぎず、現実から離れすぎず、人間関係の温度に寄ったもの。アルファポリスのライト文芸を意識するなら、方向性として大きく外れてはいない。高梨も最初に読んだ時点で、「全部、先生らしさはあります」とは言ってくれていた。
問題は、その先だ。
「……いや、本当にどれも悪くないんです」
高梨が、三本目のラフを閉じながら言った。
その言い方に、私は少しだけ苦笑したくなる。
担当編集が「本当に悪くない」と言う時、大体その後には“でも”が来るからだ。
「でも、だろ」
私が先に言うと、高梨は困ったように少し笑った。
「先に言われると、こちらの仕事がちょっと減りますね」
「長い付き合いだからな」
「そうですね」
彼はコーヒーカップへ手を伸ばし、一口だけ飲んだ。目の下に、いつもより少しだけ疲れがある。こちらが会社員をやりながら書いているように、あちらもまた会社員として編集をしている。出版業界の寝不足は、こちらとは別の質感で顔へ出る。
「まず前提として」と高梨が言う。「先生の強みはちゃんとあります。会話の温度も、人物の距離の動かし方も、今のシリーズで読者さんがついてくださっている理由もそこだと思ってます」
「うん」
「だから、そこを消したいわけではないんです」
「そこも分かる」
「はい。ただ」
やはりその“ただ”が来る。
私はテーブルの木目を見た。
年輪みたいな模様が斜めに走っている。
ここからの言葉はたぶん少し痛いのだろう、と私はもう知っていた。
「全部、上手くまとまりすぎている感じがします」
高梨は静かな声でそう言った。
私はすぐには何も返さなかった。
上手くまとまりすぎている。
その言い方は、妙に正確だったからだ。
褒め言葉ではある。
少なくとも、壊滅的に駄目な案に対して出る言葉ではない。
だが、企画会議で“これを通したい”と本気で思っている時の言い方でもない。
「まとまりすぎてる、か」
私はようやくそう返した。
「はい。読めるんです。ちゃんと読めるし、先生の良さもある。でも、どこかで“こういうふうに整っていくだろうな”って予感が見えちゃうというか」
「危なげがない?」
「近いです」
高梨は少し考えてから言い直した。
「もっと言うと、先生ご自身が企画の中で一番安全な着地点を最初から見に行ってる感じがあります」
胸の内側に、少しだけ鈍いものが落ちた。
安全な着地点。
その言葉は、高梨に言われる前から、たぶんどこかで私も感じていた。
会社では安全に話す。
先方に誤解を与えすぎず、部長に突っ込まれすぎず、でもこちらの責任は曖昧にしない。その“ちょうどいい”を探るのが、営業管理課係長としての私の日常だ。
家庭でもそうだ。
娘に余計な心配をかけすぎず、真由美に無意味な期待もさせすぎず、自分の疲れ方も必要以上に dramatize しない。生活を壊さないための言葉を、私は毎日選んでいる。
その癖が、たぶん企画にも出ている。
大きく外さない。
説明しやすい。
読者層から極端には外れない。
今の自分でも書き切れそう。
その条件を満たす案は作れる。
いや、むしろ今の私は、そういう案を昔より上手く作れる。
問題は、それだけでは勝たないことだ。
「……安全運転すぎるんだろうな」
私がぽつりと言うと、高梨は少しだけ首を横に振った。
「“安全運転”も少し違うんです。先生って、全然つまらないわけじゃないので」
「それ、フォローになってるか?」
「半分はなってます」
私は吹き出しかけた。
こういう時の高梨の、不器用なくらい真面目な言い回しは嫌いではない。
「ただ」と彼は続ける。「先生、最近、企画を“成立させる”のが上手くなりすぎてる気がするんです」
成立させる。
その言い方もまた、かなり正しかった。
私はたぶん、成立する会話、成立する構成、成立する人間関係を書くことに長けてきた。
今のシリーズが動いている理由も、そこにあるのだろう。
読者が“この温度をもう一冊読みたい”と思ってくれるだけの安定感は、たしかに私の武器だ。
だが、新シリーズの企画として見ると、その“成立”が逆に熱を薄めることがある。
「先生の企画って」と高梨が資料を指で軽く叩いた。「“いい話”になる予感はちゃんとあるんです。でも、“この話じゃないと駄目だ”っていう押しが、あと少し足りない」
私は息を吐いた。
その通りだと思った。
それはたぶん、コンテストの中間止まりにも通じる話なのだろう。
悪くはない。
ちゃんと読める。
一定の評価はもらえる。
でも最後の一押しで残りきれない。
上手い。
でも、刺さりきらない。
若い頃の私は、それをもっと乱暴にやれていたのかもしれない。粗い代わりに、どこか一箇所だけ強引だった。いまの私はその粗さを削る技術を覚えた。覚えたが、その技術で自分の熱まで削ってしまっているのだとしたら、少し皮肉だ。
「先生」
高梨が、コーヒーカップを置いてから言った。
「たぶん今、失敗しない企画を考えすぎてます」
会話が一段、核心へ入った気がした。
私はテーブルの上で両手を組み、その指先をしばらく見た。
失敗しない企画。
その言葉は、私の年齢も、生活も、今の立場も、一気に言い当てていた。
四十七歳。
会社員。
夫。
父親。
現役の商業作家。
この肩書きで新企画を考える時、私は無意識に“大きく外せない”ほうへ寄る。
仕事でも生活でも、もう無茶だけで走る年齢ではない。時間も、体力も、気力も、全部有限だ。その有限さを知っている人間は、企画の段階からどこかで保守的になる。
それは弱さかもしれない。
でも、ただの現実でもある。
「……失敗しないほうへ行ってるのは、自覚あるよ」
私は正直に言った。
「会社と両立しながらでも回せそうとか、今の読者が完全には離れなさそうとか、そういうのを考える」
「はい」
「考えるな、って言われても無理だ」
「無理だと思います」
高梨はすぐに頷いた。
その頷き方がありがたかった。説教ではなく、本当に“そうですね”という理解の頷きだったからだ。
「だからこそ難しいんですよね」と彼は言う。「先生の現実がちゃんとしてるから、企画にもちゃんと出ちゃう」
私はその言葉に少しだけ笑った。
「ちゃんとしてる、か」
「少なくとも、無茶だけで飛べる立場ではないですよね」
「まあな」
店の奥で皿の触れ合う音がした。
会話が一度だけ途切れる。
私は窓の外を見た。神保町の午後は曇っていて、ビルの間を人が行き来している。たぶんあの中には、まだ何者にもなっていない書き手もいるだろうし、受賞通知を胸ポケットへしまって歩く若い人もいるのかもしれない。私はそういう場所をもう通り過ぎた。通り過ぎたはずなのに、まだどこかで横目で見てしまう。
高梨が静かに言った。
「でも、先生に若い頃みたいな無茶をそのまま求めたいわけじゃないんです」
「うん」
「今の先生だから出せる危なさ、みたいなのもあるはずだと思ってます」
私は顔を上げた。
「今の俺だから出せる危なさ?」
「はい。若い作家さんの尖り方とは違うと思うんです。もっと生活に近いところで、外したくないものがある人の危なさというか」
それは、少し新しい言い方だった。
若い尖りではない。
生活の近くにある危なさ。
たしかに、そういうものなら今の私にもあるのかもしれない。
全部を壊すような衝動ではない。
でも、守るものが増えたぶんだけ、逆に触れるとまずい場所も増えている。その“まずさ”の輪郭は、若い頃の私にはまだなかった。
「言ってること、ちょっとわかる」
私はゆっくり言った。
「ただ、それを企画にするのが難しいんだよな」
「だと思います」
「仕事みたいに“ここをこう直せば通る”って話じゃないし」
「そうですね」
高梨は笑った。
「創作が仕事より面倒なのは、その“通る正解”がないところですよね」
「会社の仕事は、まだ通るラインがあるからな」
「はい。企画は、ラインに乗っただけだとむしろ弱い時があります」
その一言が、妙に残った。
ラインに乗っただけだと弱い。
そうだ。
私はたぶん今、そのラインに乗せることばかり考えていた。
◇
打ち合わせの終盤、高梨は少しだけ声のトーンを柔らかくした。
「急いで決める必要はないです」
私は黙って聞く。
「今のシリーズが動いてるうちに、少しずつで大丈夫です。ただ、今ある案の延長線だけじゃなくて、先生ご自身が“これはちょっと危ないかもな”って思う方向も、一回見たいです」
「危ないかも、ね」
「はい。営業会議にそのまま出せる完成度じゃなくていいので」
私はその言い方に、少しだけ救われる。
完成度じゃなくていい。
それは、今の私にとってかなり大きな許可だった。
会社では、完成していないものを人へ渡すのはほとんど駄目だ。
部下の文面も、会議資料も、見込み表も、ある程度整ってからでないと表へ出せない。だから私はいつの間にか、企画も“人へ見せるなら、まず整っていなければ”と思い込んでいたのかもしれない。
だが創作のラフは、整う前の熱を見せるものでもある。
私はカップの底に少しだけ残ったコーヒーを飲んだ。
冷めている。
でも、飲めないほどではない。
「わかった」
私は言った。
「少し掘り返してみるよ。昔、やりすぎだと思って閉じたやつも含めて」
高梨が少しだけ目を上げた。
「それ、いいと思います」
「いいのか?」
「たぶん先生、昔のほうがいまよりちょっとだけ雑だったはずなので」
「雑、か」
「はい。でも、その雑さにしかない熱もある気がします」
私は思わず笑った。
「ずいぶん率直だな」
「今日くらいは率直に言わないと意味ないかなと思って」
「たしかにな」
会計を済ませて店を出る頃には、私の胸の中には痛みと少しの静けさが同居していた。
痛みはある。
自分の企画の弱さをかなり正確に言い当てられたのだから当然だ。
だが、それだけではない。
高梨の言葉は、ただ駄目出しをしたのではなく、まだ見たいものがあると言っていた。
それは、書き手としては十分にありがたい。
◇
帰りの電車で、私はスマホを開かなかった。
ランキングも見ない。
レビューも見ない。
SNSも見ない。
見れば少しは元気が出るかもしれない。
でも今日は、その元気で痛みをぼかしたくなかった。
失敗しない企画。
上手くまとまりすぎている。
いい話になる予感はある。でも、この話じゃないと駄目だ、が足りない。
その言葉を、今日はちゃんと持ち帰ろうと思った。
窓ガラスに映る自分は、相変わらずくたびれた会社員の顔だった。ネクタイは少し緩み、目元には打ち合わせ帰りの疲れがある。そこに“新シリーズの企画がうまく決まらない商業作家”の顔まで読み取れる人はいないだろう。
それでいい。
でも、だから少しだけ寂しい。
私は胸ポケットのスマホを軽く押さえた。
その中には会社のチャットも、高梨とのメッセージも、読者の感想も、コンテストの通知も、全部が入っている。そこまで混ざって初めて、今の私の生活なのだと思う。
若い受賞者たちみたいに、人生変わりました、と一行で言えるわけではない。
でも、変わっていないわけでもない。
私はただ、変わり方が静かすぎるのだろう。
◇
夜、書斎へ入ると、私は原稿ではなく企画フォルダを開いた。
デスクトップの端にある『次回作候補』。
その中のさらに古い階層。
日付だけが残っている古いメモ。
タイトルもまともについていない、勢いだけのファイル。
昨日までなら、その雑さに少しだけ気後れしたかもしれない。
今夜は違った。
成立させる前の熱。
危ないかも、と思う方向。
やりすぎだと閉じたもの。
そういうものを、今の私でもう一度掘り返す必要があるのかもしれない。
私はいくつかの古いファイルを開いては閉じた。
若い。
粗い。
でも、どこかで私自身がまだ身を引いていない。
いまの企画にはない乱暴さがある。
その中で、一つだけ、以前見つけて少し気になっていたファイルをまた開く。
古い書き出し。
乱暴な一行目。
生活を壊しかねない熱量。
私はその画面を見つめながら、思った。
もしかすると私は、新シリーズを決めたいのではなく、自分の中の“まだ雑だった書き手”へもう一度会いに行きたいのかもしれない。
それがうまく行くかは分からない。
むしろ危ないのだろう。
でも、その危なさを少し取り戻さなければ、中間止まりのまま歳だけ重ねてしまう気もしていた。
私はメモ帳を開き、短く打つ。
『その企画、前よりずっと“あなた”ですね。そう言われるものを、まだ一度も本気で出せていない気がする。』
書いてから、少しだけ息を吐いた。




