35 一撃
討伐隊12名に、飛び入り参加の5名が加わり、改めて大扉の前に布陣する。
微妙に空気が悪い気がする。
高級ワインに混ぜ物をしたのだから美味しくないのは当然だが、空気に無頓着なグノンでさえ眉を歪めるテイストにはいささかの不安を覚えてしまう。
このままで大丈夫か、本当に。
「君たち5人は右側に展開しろ」
トルネライトがコバンザメーズにそう指図する。
「ええ、ええ。右ですね、ええ。指示通り動かせていただきましょ」
チューは小物商人のように物腰低く揉み手で頷く。
ただし、その目は詐欺師のそれだ。
ますます空気が悪くなった気がしないでもないが、
「案ずるな」
とトルネライトは一同を見渡す。
「この一戦、一人の脱落者もなく、我々の完全勝利に終わる。そう告げているのだ。私の直感が」
それは心強い。
トルネライトの直感は絶対に当たる。
その言葉は勝利の女神のお告げに等しい。
成功を約束された我々に、もはや迷いはなかった。
「ここを開けよ! 我らは試練に挑む者なり!」
一瞬の静寂を経て、見上げるほどの大扉が動き始めた。
階層主の間がついに開かれたのだ。
扉の隙間から水が流れ出してきた。
その流れに乗って帰りたい気分がしないでもないが、
「進め――!」
という合図で足は動き出す。
団長のトルネライトと『鉄亀』のデッガードナーを先頭に、ボス部屋へとなだれ込む。
中は神殿の内部とは思えないほど広かった。
一面くるぶし丈に水没していて、ところどころ深く切れ込んでいる。
宙には巨大なマリモがいくつも浮いていた。
まるで緑色のシャボン玉のよう。
なんとなく、これが足場です、と言われている気がした。
グノンならあれをうまく活かして三次元の立ち回りを可能にすることだろう。
「おい! 貴様ら!」
ガーファスが吼えた。
コバンザメーズが右ではなく左に動いたからだ。
こちらを振り返って悪童のように笑っている。
一杯食わせてやったぜ、とばかりに。
「私は右だと言ったのだがな」
俺は寒気を覚えて体を固めた。
そうつぶやいたトルネライトの声は凍ったように冷たかった。
悪魔が微笑んだようにさえ感じられた。
まあ、それはほんの一瞬の錯覚のようなもので、すぐに別のことに関心が移った。
「いないな……」
もぬけの殻だった。
階層主と呼べるような巨大魔物は影も形も見当たらない。
あえての後ろじゃね?
と勢いよく振り返ってみたが、膝上まで濡らしたシエが可愛く微笑しただけだった。
「警戒しろ」
トルネライトの目は水の中、深く切れ込んで黒くなったところに向けられている。
「おそらく水棲魔物だとは思うが」
ガーファスが作戦会議で出たボス像を改めて述べた。
魚、サメ、ワニ、貝、イカ、クジラ……。
候補が多すぎて予想がつかない。
しかし、何かがここにいるという感覚はたしかにある。
問題は、そいつが何かだが……。
「……」
トルネライトが濡れた袖を払った。
輝く白い手が俺の視界を横切る。
昨日、あの手が俺の指に絡みついてきたのだ。
タコみたいに。
剣ダコは硬かった。
だが、それでも総評としては柔らかくて、温かくもあった。
ひんやりした頬の感触と、儚げな横顔も憶えている。
「っ」
俺は犬みたいに顔を振った。
こんなことばかり考えてはいかん。
今は集中だ。
「何が来てもトラッシュハルトさんがいるから大丈夫ですっ! きっとなんとかなりますよ!」
シエが大粒サファイアみたいな瞳をぶつけてくる。
俺はその煌めきに活躍を誓った。
さすがトラッシュハルトさんですっ、って言われたいので頑張ろうと思う。
ぽこ、ぽこぽこ……。
真っ暗な水底から白い泡が上がってくる。
泡はしばし水面で揺れ、不意に弾ける。
小さな音だが、不気味なほどよく響いた。
「ようやくお出ましのようだ」
トルネライトほどの冴えた勘がなくとも、わかる。
階層主様の御成りだと。
水面が沸騰したように荒れ狂い、急に丸く盛り上がった。
水を割って島が浮かび上がる。
否、島に非ず。
それは巨大で丸いもの。
色合いは熟した柿のようであり、うねる無数の触手には吸盤がびっしりと並んでいる。
つい最近、似たようなものを見たことがある。
昨晩もデッガードナーが捕獲を試みていた。
スケール感こそケタ違いだが、明らかにあいつと酷似している。
「酒噴蛸……」
と俺がつぶやくと、ギンジェロウがぶるりと恵体を震わせた。
そいつは巨大なタコだった。
いや、巨大なんてもんじゃない。
デカさがアホだ。
クジラを毎日何頭も食ってそうな糞デカさ。
何本あるかわからない足がうねるたびに大波小波が起きる。
俺の体は浮かび上がって足はたびたび地を離れた。
「サケフキ大王といったところか」
そう命名したのが誰あろうトルネライトだったので、安直すぎるセンスに俺は妙な笑いを堪えなければならなくなった。
しかし、妥当なところだろう。
サケフキの変異個体。
あるいは、上位個体か。
いずれにせよ、王を名乗るにたる威容を誇っている。
「止まっている今のうちに――」
鞭を打つようなトルネライトの号令を、ぽこぽこ、という小さな音が上書きした。
砲のように巨大な漏斗から泡がこぼれている。
あっ、と思ったそのときにはコバンザメの5人が消えていた。
高圧水流のブレスだった。
それが俺には巨大なレイピアによる稲妻のごとき刺突攻撃に見えていた。
すぐ隣にいたチューたちが悲鳴を上げることさえなく消し飛んだ。
遥か後方の壁が、赤い。
「トマドぉ……?」
ギガンポスが不謹慎なことを言う。
だが、トマトというのが一番近い。
壁に叩きつけられたトマトのようだった。
人間が一瞬で。
5人が一瞬でそうなった。
「チューさん……っ!」
ヒーラーのシエがすっ飛んでいこうとする。
俺は手を引いて止めた。
無駄だ。
もはや原型すら定かではあるまい。
おいおいおいおい、と思った。
この一戦、一人の脱落者もなく、完全勝利に終わるんじゃなかったのか?
そう告げていたんじゃなかったのか?
勝利の女神が。
トルネライトの直感がいきなり外れた。
床が抜けたような気分だった。
日の浅い俺でさえこれだ。
信じ切っていた古参たちはさぞや面食らっているだろう。
確認して回るまでもない。
月でも降ってきたように押し黙っているのがいい証拠だ。
サケフキ大王が浅瀬に乗り上げてくる。
ただでさえでかい体がさらに大きくそびえ立つ。
緊張の糸が急激に張り詰め、それが恐怖となって一気に弾ける、――その寸前。
風が吹いた。
巨木のごときタコ足が斬れて落ち、爆発じみた水柱を打ち立てる。
サケフキ大王は新雪のような断面をさらしていた。
「慌てるな。我々は勝つ!」
トルネライトが剣を振り終えた姿で立っていた。
最前に立つ団長の背中はタコよりよっぽど大きく見えた。
勝つ。
勝てる。
百の言葉より、その背中がなによりの証拠だった。
気づけば、みんな一本の剣のように前を向いていた。




