第5話 希望を殺す札
お読みいただき、ありがとうございます。
第八章「選ばれた夏、選び直す未来」、第5話です。
前回、清王学園は創部以来初の甲子園出場を決めました。
その勝利の余韻が残る、同じ日の夜のお話です。
今話は、歩美のスマートフォンが二度震えるところから始まります。
一度目と二度目で、何が届くのか。
どうか、順番どおりに読んでいただけたらと思います。
※今話には、人が殺害される場面があります。
直接的な描写は抑えていますが、苦手な方はご注意ください。
それでは、第5話「希望を殺す札」をお楽しみください。
七月二十八日の夜、歩美のスマートフォンは、二度震えた。
一度目は、兄からだった。
その夜は、昼の熱をまだ壁に残していた。
歩美は自室のベッドの端に腰を下ろしたまま、しばらく靴下も脱がずにいた。窓は少し開けてあるのに、風はほとんど入ってこない。網戸の向こうで、虫の声だけが一定の間隔で鳴っている。
机の上には、野球部の資料が積まれていた。角の折れたスコアノート。テープで留めた選手名簿。応援関係の書類の束。帰ってきてそのまま置いたのだろう。鞄の口も開いたままだった。
片づけなきゃ、と思う。けれど、手が動かない。
目を閉じると、昼間の音が、順番も守らずに戻ってきた。
九回裏、藤川誠志郎の打球が外野の間を割った音。三塁ベースへ滑り込んだ背中から、白い土煙が上がったこと。ベンチから飛び出しかけた自分の袖を、悠に掴まれて止められたこと。
続いて、多賀谷修平のバットが白球を捉えた、あの乾いた一音。
あの音だけは、耳の奥に貼りついたまま剥がれない。
そのあとは、音の洪水だった。選手たちの叫び声。スパイクが土を蹴る音。応援席から波のように押し寄せた声の中に、慎悟たちの声も混じっていた気がする。混じっていた、と思いたいだけなのかもしれない。
悠と抱き合って泣いた。悠の肩は汗で湿っていて、日焼け止めと土の匂いがした。どちらが先に泣いたのかは、もう思い出せない。
喉が、まだ少しひりつく。叫びすぎたせいだ。掌には、ボトルの入ったケースを何度も持ち上げた重みが、うっすらと残っている。
「……甲子園、行くんだ」
声に出してみても、他人の話のようだった。
打席に立ったわけではない。マウンドに立ったわけでも、守備についたわけでもない。ベンチの端でスコアをつけ、ボトルを運び、タオルを取り替えた。それだけの夏だ。
それでも、机の上のスコアノートには、一行ずつ、確かに自分の字が並んでいる。
歩美は膝の上で、指先を組み合わせた。
嬉しい、と言い切るには、まだ少しだけ居心地が悪かった。祝われる側の席に座るのは、自分の役目ではない気がしてしまう。長いあいだ、拍手を送る側に立ってきたから。
そのとき、ベッドの上でスマートフォンが短く震えた。
画面が点く。ロック画面の通知に、名前が出ていた。
富津隼人。
背筋が、ひとりでに伸びた。兄からの連絡は、いつも少ない。何かあったのかと一瞬身構えて、通知を開く。
『甲子園初出場おめでとう』
それだけだった。
スタンプも、絵文字もない。「頑張ったな」も「お疲れ」も添えられていない。改行すらない、一行きりの文章。
歩美は一度読んで、もう一度読んだ。三度目は、文字を目でなぞるだけだった。
「……お兄ちゃんらしい」
小さく笑う。笑ったつもりが、息のほうが先に漏れた。
誰に向けた「おめでとう」なのか、文面からは分からない。野球部へなのか。選手たちへなのか。ただ、その一行は、歩美の名前の下に届いていた。
兄は、きっとそこまで考えていない。決勝の結果を知って、練習の合間か、帰り道の途中にでも、親指で打ったのだろう。そういう人だ。
それでも。
ベンチの端でスコアをつけていた自分にも、この一行は届いていい。
そう思ってしまった途端、胸の奥で、固く結んでいたものが緩んだ。
兄の試合は、ずっと見てきた。母の隣の、スタンドの日陰から。ヒットを打って笑う兄も、ファウルフライを追って転んで、泥だらけになった兄も。
そして、負けた日の兄も。
高校最後の夏、県大会で敗れた日のことだ。帰ってきた兄は、玄関で靴も脱がずに立ち尽くしていた。歩美は何と言えばいいのか分からなくて、結局、何も言えなかった。ただ、上がり框の隣に座った。
――お前さ、慰めるの下手だな。
ずいぶん経ってから、兄がそう言って笑った。
――だって、何言えばいいか分かんないもん。
――……それでいいよ。
あのとき、兄の言った「それでいい」の意味を、歩美は今でもはっきりとは掴めていない。ただ、言葉を持たない自分が、あの場所にいてよかったのだということだけは、ずっと覚えていた。
そして今夜は、その反対だった。
隣に座ってもらった気がした。何も言わずに。一行だけで。
視界の端が、ふいに滲んだ。
泣くつもりはなかった。試合が終わった直後にも、あれだけ泣いたのに。涙は頬の丸みをゆっくり伝って、顎の先でひとつ落ちた。声は出ない。肩が、ほんの少し下がっただけだった。ずっと入れっぱなしだった力が、指先から順番に抜けていく。
歩美は手の甲で目もとを押さえ、笑った。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
返信欄に打ち込もうとして、指が止まる。何と返せばいいのか分からない。分からないまま、口に出したほうが早かった。
「私も……ちゃんと、一緒に行ったんだよね」
行ったのは、まだ甲子園ではない。決勝のグラウンドまでの、あの長い道のりのことだ。朝の練習も、炎天下のボトル運びも、負けた試合の帰り道も。全部、みんなと一緒に歩いてきた。
その事実を、初めて自分の言葉で言えた気がした。
その涙が乾ききらないうちに、スマートフォンがもう一度震えた。
同じ震え方だった。短く、一度きり。
兄からの続きだと思って画面を見た歩美の呼吸が、そこで止まった。
浜坂由加里。
名前の横の小さな丸い写真は、初期設定の灰色のままだった。その下に、動画ファイルが一件だけ届いている。本文はなかった。
指先から、温度が引いた。
福江南高校で見た光景が、勝手に浮かび上がる。黒地の札。ピンク色の文字。傷口へ吸いつくように貼られていく、あの色。
歩美は、あの札を知っている。傷を治すために使ってきた自分の札と、あまりにもよく似た形をしていたから、忘れられなかった。
開かなければいい。
そう思った。削除して、通知を切って、何も見なかったことにすればいい。今夜は、そういう夜のはずだった。
けれど、由加里が何かを送ってきたのだ。
それを知らないふりで眠るほうが、ずっと怖かった。
数秒。喉が小さく鳴る。歩美は、震えの残る親指で、再生ボタンを押した。
画面が揺れて、ピントが合う。
最初に映ったのは、黒とピンクの装甲だった。道化師のような襟飾り。ツインテールに似た、細長い装甲房。顔の上半分を覆う仮面は、右側が笑い、左側が泣いている。
角羅だった。
口もとは、明るく笑っていた。
「歩美ちゃーん」
弾んだ声だった。友達の家の玄関先で、名前を呼ぶときのような。カメラの外で、小さな鈴が鳴る。
「甲子園おめでとー!」
ぱん、と手を叩く音がした。
言葉が、頭の中に入ってこない。おめでとう。さっきまで、兄の一行として胸の中にあった同じ言葉が、今は別の生き物のように、画面の中で跳ねている。
カメラが、ゆっくりと横へ動いた。
薄暗い部屋だった。コンクリートの壁。低い天井に、むき出しの管。その真ん中に、椅子がひとつ置かれている。
椅子に、男性が座っていた。
手首と足首を椅子の脚に固定され、口には布が噛まされている。年は、父より少し若いくらいだろうか。シャツの袖は破れ、剥き出しの腕に、浅い傷がいくつも走っていた。細かくて、数えきれない傷だった。
男性の目が、カメラを見た。
充血した目が、何かを訴えるように動く。布の隙間から、荒い息が漏れる。ひゅう、ひゅう、と細い音がした。
生きている。この人は、いま、ここで、生きている。
「この人?」
角羅が、画面へ顔を寄せた。
「公安の人だよ」
歩美がそう訊ねるのを、先に聞き取ったような調子だった。友達を紹介するときの、得意げな声だった。
角羅の手が、腰の札入れへ伸びる。笑った仮面の描かれた札入れから、一枚が抜き取られた。
黒地に、ピンク色の文字。
蛍光灯の下で、濡れたように光っている。
歩美の喉から、声が漏れた。
「……やめて」
画面の下で、細い再生バーが、ゆっくりと右へ進んでいる。届かない。分かっている。これは、もう終わったあとに送られてきた録画だ。それでも声が出た。
「やめて……お願い、やめて……」
角羅は男性の腕の傷へ、札を近づけた。
「じゃあ、いくよー?」
貼られた。
札の文字が、脈を打つように明るくなる。男性の身体が、椅子の上で跳ねた。布の奥から、獣のような声がこぼれる。背中が反り、固定された手足がぎしぎしと鳴る。札の周りから、皮膚が墨を落としたように黒ずんでいった。
歩美は、画面から目をそらせなかった。
そらしたら、この人が独りきりで終わってしまう気がした。
痙攣が、ふっと途切れた。
頭が、かくんと落ちる。あの細い息の音が、もう聞こえない。
静かだった。
角羅が、男性の顔を覗き込む。
「あれ?」
首を傾げる。細長い装甲房が、ゆらりと揺れた。
「寝ちゃった?」
返事はない。返事をする人が、もうどこにもいない。
角羅はそれを不思議そうに眺めてから、ゆっくりとカメラへ向き直った。仮面の右は笑い、左は泣いている。その下の口は、どちらにも寄らず、ただ笑っていた。
「でもね」
小さく、指を立てる。
「由加里は悪くないからね?」
念を押すように、にこりとする。
そこで、映像が途切れた。
再生の終わった画面には、最初の一コマが静止していた。
黒とピンクの、笑う仮面。真ん中に、もう一度再生するための矢印。
歩美は、動けなかった。
指先が冷たい。掌は汗で湿っているのに、芯のところだけが凍っていた。口の中が乾き、唾を飲み込もうとしても、喉の奥で引っかかる。息は浅く、胸の上のほうでしか入っていかない。
階下から、冷蔵庫の低い唸りが聞こえた。母がテレビをつけているのか、小さな笑い声が壁を伝ってくる。
同じ家の中の音だとは、思えなかった。
最初に動いたのは、親指だった。再生バーを、頭まで戻していた。
あの人には、家族がいたのだろうか。今夜は帰ると言って、家を出たのだろうか。名前も知らない。顔も、さっき初めて見たばかりだ。それなのに、あの人の目が最後にこちらを向いたことだけが、瞼の裏から離れなかった。
「……助けられなかった」
助けを求めるように、あの目はカメラを見ていた。カメラの向こうで、歩美は指ひとつ動かせなかった。動かせたとしても、届かなかった。
言葉では足りなかった。足りないものを無理に押し込もうとして、歩美は唇を噛んだ。
そのあとで、別の重さが、ゆっくりと胸へ沈んできた。
札。
あの札は、歩美の使う札と、形がよく似ている。貼る、という動作まで同じだった。傷へ近づけて、そっと押さえる。
歩美は、自分の両手を見た。
爪を短く切った、料理と応急処置の手。ボトルを運び、タオルを絞り、誰かの膝の擦り傷を消毒してきた手。
そして、札を握ってきた手。
崩れかけた仲間の傷へ、札を貼ったときの感触を思い出す。指先に伝わる、小さな脈。傷口が、ゆっくり塞がっていく気配。荒かった息が、少しずつ整っていく音。
――治る。立てる。もう一度、前を向ける。
あの感触が、掌に残っている。
それと同じ形の札が、あの人の腕で、あの人の命をほどいていった。
「……違う」
声が、ざらついた。
「そんなの……治すんじゃない」
指先が、シーツを掴んでいた。掴んでいると気づいたのは、爪の下に布が食い込んだからだ。
膝の震えは止まっていない。あの笑い声が、鈴の音と一緒に、まだ耳の中で鳴っている。
それでも、胸の底のほうで、熱いものがゆっくりと形になっていく。
由加里の声が、頭の中で繰り返された。
――由加里は悪くないからね?
あの言葉を、歩美は知っている。
知っているのは、ほんの断片だけだ。それでも、誰かに責められ続けた子が、自分の心が壊れないように、小さな声で唱えていた言葉だということは、分かる気がした。悪くない、悪くない、と。自分に言い聞かせるための、お守りのような言葉。
それが今、人を殺した直後の唇から、軽い調子で出てきた。
守るための言葉が、責任から逃げるための言葉に聞こえた。
そう聞こえてしまったことが、いちばん痛かった。
涙が、また落ちた。
さっきの涙とは、違っていた。頬を伝う前に、目の縁で熱く溜まって、あふれる。息が喉で引っかかる。肩が上下する。拭かなかった。拭くための手は、拳になって、膝の上で震えていた。
「治すって……そういうことじゃない」
言葉が、途切れる。
息を吸う。詰まる。
「痛い人を楽にして」
もう一度、吸う。
「傷ついた人を助けて」
声が、裏返った。それでも止めなかった。
「もう一回、立てるようにすることでしょ……!」
言い終えた瞬間、胸の奥で何かが切れた。
「人を助けるものを……!」
自分でも聞いたことのない声が、喉から飛び出した。
「人を殺すために使わないで!」
叫びが、部屋の壁に跳ね返った。
怒鳴ることなんて、ほとんどなかった。強い言い争いは、いつも苦手だった。感情をぶつけ合う場には、笑ってやり過ごすか、黙って席を外してきた。
なのに、止まらなかった。画面の中の、笑う仮面へ向かって、息が続く限り叫んだ。
叫び終えても、返事はなかった。
声が消えたあとの部屋は、おそろしく静かだった。
階下のテレビの音が、遠くなっている。母には聞こえただろうか。聞こえなかったなら、それでいい、と思った自分に、少しだけ驚く。
歩美は肩で息をしていた。涙で濡れた頬を、ようやく掌で拭う。掌が、熱かった。
叫んだあとに残ったのは、空っぽではなかった。
震えは、まだ残っている。指も、膝も、胃のあたりも。怒りが恐怖を追い払ったのではない。怒りの下に、恐怖がずっと居座っているだけだ。
それでも、その下に、一本、細い芯のようなものが通っているのが分かった。
由加里を、止めたい。
声にはならなかった。頭の中で、やっと言葉の形になった。
あの札で、これ以上誰かの命が奪われることを、止めたい。
傷を塞ぐための力が、命を壊すために使われる夜を、これ以上増やしたくない。
止める、とは、どういうことだろう。
言葉を尽くせば届くのか。そもそも、届く相手なのか。あの明るい声の奥に、まだ触れられる場所が残っているのか。答えは、分からなかった。
分からないものを、分かったふりで決めたくなかった。
過去に傷つけられた子だからといって、この映像を許せるわけではない。許せないからといって、あの子を最初から切り捨てられるわけでもない。二つの気持ちは、うまく重ならないまま、歩美の中に並んでいた。
指先を、ゆっくりと組み合わせる。
考えるときの癖だった。震えているせいで、うまく噛み合わない。何度かやり直して、ようやく指が組まれた。
誰かの後ろで、傷を塞ぐ。それが自分の場所だと思っていた。
けれど、傷を塞ぐ札と、命をほどく札が、同じ形をしているのなら。
この手は、何のために貼るのか。
その問いの答えは、今夜のうちに出るものではなかった。剣を取って飛び出すことも、由加里へ何かを送りつけることも、今の歩美にはできない。何も分かっていないのだから。
ただ、選ぶ側に立たされたのだということだけは、初めて分かった。
歩美は、動画の画面を閉じようとした。
指の下に、削除の文字が浮かぶ。
親指が、そこで止まった。消してしまえば、この夜に起きたことが、ただの悪い夢になってしまいそうだった。あの人が、あの部屋の、あの椅子にいた。それを、なかったことにはしたくない。
削除は押さず、戻る。
会話の一覧に、二つの名前が並んでいた。
浜坂由加里。
富津隼人。
同じ「おめでとう」が、こんなにも違う場所から届く。片方は、負けた夏の続きを生きている人の部屋から。もう片方は、誰かの続きを断ち切ったあとの部屋から。
歩美は、由加里の名前から目をそらし、兄の名前を押した。
画面が切り替わる。白い背景に、灰色の吹き出しがひとつ。
『甲子園初出場おめでとう』
さっきと同じ文字なのに、少しだけ違って見えた。
呼吸が、ゆっくりと落ちていく。怖さは消えていない。けれど、この一行の上に指を置いていると、胸の中の音が、わずかに静まる。
兄は、甲子園へ行けなかった。
あの日、玄関で立ち尽くしていた人が、今は東京のどこかで、バットを握っている。負けた夏の、その先を生きている。朝は来て、次の日は普通に始まって、それでも野球は続いている。
それを、歩美は誰よりも近くで見てきた。
終わったように見えても、続いていく。
そんな当たり前のことが、今夜はやけに重かった。あの人には、続きがなかったから。
明日も、練習がある。甲子園へ向かう日々は、これからも続く。けれど、あの人の来週は、もう来ない。
その二つを、同じ夜の中に置いておく方法が、歩美にはまだ分からなかった。
机へ目をやる。スコアノートの角が、電気の光を受けていた。応援関係の書類。名簿。明日には、また誰かの手に渡る資料たち。
歩美は立ち上がって、スコアノートを、一度だけ掌で撫でた。
戻って、連絡先の画面を開く。
慎悟の名前で、親指が止まった。
今送れば、誰かが、今夜のうちに動き出す。優勝の余韻がまだ残る夜へ、あの映像を持ち込むことになる。みんなの顔が、一瞬で変わってしまう。
――言わなきゃ。
――でも、今夜は。
文章を打ち始めて、消して、また打って、消した。
誰かの重さを受け取ることには、慣れている。けれど、自分の重さを、誰かに預けるやり方を、歩美はまだ知らなかった。
連絡先を閉じる。
もう一度、兄との画面を開き、震える親指で打った。
『ありがとう』
送信する。吹き出しが、兄の一行の下に並んだ。
それだけで、少しだけ、呼吸が楽になった。
スマートフォンを、画面を伏せて枕元に置く。充電ケーブルの先で、小さなランプが赤く灯った。
もう鳴らないでほしい、と思う。
次に震えるのが誰なのか、分からない夜が、これから続くのかもしれない。背中に、まだあの二度の震えが貼りついていた。
窓の外で、虫が鳴いていた。
――残したい。
――誰かの、続きを。
声には、ならなかった。ただ、組み合わせた指に、少しだけ力がこもった。
次にあの笑い声を聞くとき、自分はどんな顔で、画面の向こうの笑顔と向き合うのだろう。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第5話「希望を殺す札」、いかがでしたでしょうか。
前回までの三話は、県大会決勝の熱気と歓声の中にいました。
今話はその反対で、歩美が一人きりの自室にいる夜です。
同じ「おめでとう」が、まったく違う場所から二通届く。
この構図が、今話の背骨になっています。
一通目は、兄・隼人からのメッセージです。
一行だけで、スタンプも絵文字もありません。
それでも、選手ではない歩美にまで届く一行にしたいと思って書きました。
二通目は、角羅(浜坂由加里)からの動画です。
同じ言葉を、同じ笑顔の調子で口にしながら、画面の中では人の命が終わります。
この二通を、歩美は同じ夜の中で受け取ります。
祝福と殺意が、同じスマートフォンの同じ画面に並ぶ。
その居心地の悪さを、そのまま読者の方にも味わっていただきたくて、この順番にしました。
もう一つ、今話で描きたかったのが「札」です。
歩美が傷を塞ぐために貼る札と、由加里が命をほどくために貼る札。
形が似ていて、貼るという動作まで同じ。
だからこそ、歩美は「あれは自分の力と無関係ではない」と感じてしまいます。
力そのものに善悪はありません。
けれど、使う人間の選び方で、希望にも絶望にもなる。
第七章で積み上げてきた「力は資格ではなく責任」という問いが、歩美の掌の上に降りてきた回でもあります。
歩美の叫びについても、少しだけ。
彼女は、普段あまり怒鳴りません。
言い争いが苦手で、笑ってやり過ごすか、黙って席を外してきた子です。
その歩美が、息が続く限り叫びました。
ただ、怒りが恐怖を追い払ったわけではありません。
怒りの下に、恐怖はずっと居座っています。
そこを丁寧に書きたくて、膝の震えや指先の冷たさは、最後まで消さずに残しました。
そして「由加里は悪くないからね?」という一言。
歩美はこの言葉に、別の響きを聞き取ります。
彼女が何を聞き取ったのか、そしてそれが正しいのかどうかは、今後の物語の中で少しずつ明らかになっていきます。
兄の「それでいい」という言葉も、本当は今話だけで終わるものではありません。
負けた夏の先を生きている兄の背中は、今後も歩美の中で意味を変えていきます。
読み返したときに、また違う顔を見せてくれたら嬉しいです。
最後に、歩美は慎悟への連絡を打っては消して、結局送りませんでした。
誰かの重さを受け取ることには慣れている子が、自分の重さを預ける方法を知らない。
この一件は、まだ何も解決していません。
そんな夜のあとで、物語は少しだけ息をつきます。
次回は、第6話「十六歳の願い」です。
七月二十九日、福江駅のファストフード店「マクドネル」。
この日は、坪江南海の十六歳の誕生日です。
ハンバーガーとポテトとシェイクが並ぶ、久しぶりににぎやかな回になります。
十彩獣団の面々が、戦いのない顔で笑い合います。
ただし、昨夜のことを胸にしまったままの歩美も、その席にいます。
そして南海は、誕生日に何を願うのか。
鬼との戦いが続く夏の真ん中で、彼女が口にするのは、とても小さくて、とても大きな願いです。
重い夜のあとの、束の間の昼をお届けします。
どうぞ、次回もお付き合いください。
ブックマークや評価、感想をいただけると、執筆の大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。
それでは、また次回。




