第6話 十六歳の願い
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第八章「選ばれた夏、選び直す未来」、第6話をお届けします。
前話までで、清王学園は創部以来初の甲子園出場を決めました。
歩美のもとには、嬉しい知らせと一緒に、決して消えない影も届いています。
今回は、その翌日の七月二十九日です。
舞台は福江駅前のファストフード店「マクドネル」。
坪江南海、十六歳の誕生日会です。
この回には、戦闘も鬼も出てきません。
あるのは、ハンバーガーとポテトと、シェイクと、少し騒がしい友人たちだけです。
ただ、この章にとって、この何も起きない夕方がとても大切になります。
勝つ夏も、負ける夏も、その先を生きる誰かの夏だからです。
「普通の日常」がどれほどの重さを持つのか。
その一端を、どうか肩の力を抜いて楽しんでいただければ嬉しいです。
それでは、第6話「十六歳の願い」、どうぞ。
七月二十九日、午後五時二十五分。
福江駅前のファストフード店で、坪江南海の十六歳が祝われようとしていた。
ガラスの向こう、福江駅の構内には、西日が斜めに差し込んでいた。
ガラス越しの光は、床のタイルに人々の影を長く引き伸ばしている。キャリーケースを引く旅行客、上着を腕に掛けた会社員、部活帰りらしい大きなバッグを背負った高校生たち。夏休みの夕方の駅は、誰もがそれぞれの行き先を持って、急ぐでもなく立ち止まるでもなく流れていく。
改札の向こうでは、入線した列車がブレーキを軋ませていた。続けて、発車を告げるアナウンスと、ドアが閉まる短い電子音。
その騒がしさも、自動ドアを一枚隔てたこの店「マクドネル」の中では、少し遠い波の音のように聞こえた。
冷房の涼しさが、外の暑さでほてった首筋に心地よい。奥のフライヤーからは、ポテトを揚げる油の匂いがひっきりなしに流れてくる。窓際に寄せ合わせた二つのテーブルには、ハンバーガー、ポテト、ナゲット、アップルパイ、水滴をまとったシェイクや炭酸飲料が、所狭しと並んでいた。
「主役はここ!」
友紀に背中を押され、坪江南海は窓を背にした席に座らされた。ツインテールの先に、西日がふわりと絡む。隣には慎悟。反対側の椅子だけが、友紀の鞄で場所取りをされたまま空いている。
つい昨日の朝まで、寿満寺で戦いに備えていた者たちが、いまは包み紙と紙ナプキンに囲まれて席に着いていた。
誰かが決めたわけではない。それでも、鬼の話を切り出す者は一人もいなかった。翔一の鞄からはみ出しているのは、札でも武器でもなく、ドラムスティックが二本きりだ。
友紀が、紙コップを高く持ち上げる。
「それじゃ、南海の十六歳に――乾杯!」
「乾杯!」
ばらばらの声が重なり、紙コップとシェイクのカップが宙でぶつかって、頼りない音を立てた。
「マクドネルで乾杯って、俺たち高校生感すげえな!」
翔一が目を輝かせて言う。
「高校生だろ」
健太が、ナゲットを口に放り込みながら短く返した。
一拍置いて、テーブルじゅうに笑いが弾ける。
南海は、両手で包んだシェイクのカップを持ち直し、視線を少し落とした。冷房が効いているはずなのに、頬だけが熱い。
「ありがと。みんな」
「南海さん、お誕生日おめでとうございます」
窓から一番遠い席で、脇出美奈子が、湯気の立つホットティーを両手で抱えたまま、小さく頭を下げた。冷房の効いた店内で、彼女の膝には薄い膝掛けが載っている。
「……お誘いいただけて、嬉しかったです。ほんとうに」
「あたしのほうこそ。来てくれたのが、いちばん嬉しいよ」
南海がそう返すと、美奈子の目元が、湯気の向こうでふわりと緩んだ。
友紀は、テーブル中央のポテトをシェイクに浸してから頬張り、「ほら南海も」と、南海のカップの縁へ勝手にもう一本を差し出した。
「え、それ、ほんとにおいしいの?」
「騙されたと思って」
齧ってみると、塩気の後ろから甘さが追いかけてくる。南海が目を丸くすると、友紀が得意げに顎を上げた。
少し離れた席では、綾実が、アップルパイの端を小さく崩している。その隣で、伊織は、バーガーを紙ナプキン越しに小さく持ち、背筋を伸ばしたまま少しずつ口へ運んでいた。
綾実が、ガラスの向こうを流れていく人波へ目をやる。
「こういう日が続けばいいのだけれど」
「……そうですね」
伊織が、それだけを静かに返した。
その先を、二人は続けなかった。代わりに翔一の「続くって! 毎週やろうぜ、誰かの誕生日!」が飛んできて、「毎週は誰かの財布が死ぬ」という健太の一言が、それをあっさり叩き落とした。
「その前に、私と慎悟の八月十三日も忘れないでよね」
友紀が指を立てる。
そのとき、自動ドアが開く音がして、大きなバッグを肩に掛けた歩美が、小走りで駆け込んできた。
「ごめん、遅れた!」
肩で息をしながら、テーブルへ近づいてくる。バッグの口からは、野球部のロゴ入りのクリアファイルと、付箋だらけの書類の束がのぞいていた。
「お疲れ、マネージャー様」
翔一が片手を挙げる。
「歩美の分のポテト、俺が死守しといたぞ」
「さっき半分食おうとしてただろ」
「してねえよ!」
「した」
「ふふっ」
歩美が吹き出した。空けてあった南海の隣の椅子に腰を下ろし、まず両手を合わせる。
「南海、お誕生日おめでとう。ほんとは一番に言いたかったのに、ごめんね」
「ううん。来てくれただけで、もう十分」
友紀が身を乗り出した。
「で、準備ってそんなに大変なの? 甲子園」
「壮行会の段取りでしょ、遠征の日程でしょ、宿泊先の確認に、応援団との打ち合わせに、保護者向けの連絡も……」
指を折って数えていた歩美が、途中で「あ、ほとんど先輩と顧問の先生がやってくれてるんだけどね」と手を振って笑う。
「私は名簿と日程表を突き合わせたり、電話で人数を数え直したり、その手伝い。でも、そういう地味なやつほど、間違えると全部ずれるから」
「一番ミス許されないやつじゃん」
蓮の言葉に、歩美は頷いて、おどけたように肩をすくめた。
「甲子園って、出るまでより出てからの方が大変なのかも」
笑いが起こる。歩美も、口元を押さえて笑った。
彼女は、鞄から取り出したスマホを、画面を下にしてトレーの脇へ置いた。「先輩からの確認、いつ飛んでくるか分からなくて」と、言い訳のように付け足しながら。
南海は、その笑い方を見ていた。声は明るい。肩も揺れている。
それなのに、笑いの終わりだけが、ほんの一拍遅れる。頬の力が、最後まで抜けきらない。
歩美の前に置かれたポテトの箱へ、彼女の手は一度も伸びていない。
――疲れてるのかな。
甲子園を決めた翌日に、あれだけの書類を抱えているのだから、無理もない。南海は袖口を軽くつまんで、それだけを思った。それ以外の理由があるのかどうか、今ここで尋ねるのは、なんだか違う気がした。
「そういえばさ」
友紀が頬杖をついて、南海の顔を覗き込んだ。
「慎悟からプレゼントは?」
その瞬間、南海と慎悟の動きが、ほとんど同時に止まった。
慎悟は、摘まんだポテトを口の手前に掲げたまま。南海は、ストローへ唇を寄せかけた姿勢のまま。二人の周りだけ、店内の音が半歩ぶん遠のく。
――寿満寺で交わした、あの短い時間。
触れたのは、ほんの一瞬だったはずだ。それなのに、体温も、息の近さも、やけに鮮明に戻ってくる。
――今は思い出しちゃだめ、今は。
南海は慌ててストローを咥え、シェイクを吸い上げた。冷たさは、頭の中の熱にはちっとも届かない。
向かいの席で、綾実と伊織が、無言のまま視線を交わした。
綾実は、涼しい目元をすっと細め、口元だけをわずかに持ち上げる。伊織は、背筋を伸ばしたまま、紙ナプキンを丁寧に畳み直して、笑みを膝の上に隠した。
「え、なに今の」
目ざとく気づいた翔一が、二人を交互に指さした。
「綾実と伊織、今、目ぇ合わせたよな。絶対なんかあんだろ」
「気のせいよ」
綾実が、涼しい顔でアップルパイを口へ運ぶ。
「ええ。なんでもありません」
伊織も、穏やかに微笑んだまま小さく首を傾げた。
「二人揃って言うのが怪しいんだって! なあ健太」
「……落ち着け。ポテトが冷める」
「もう冷めてるっての!」
健太はそれきり関心を失ったように、ナゲットの箱を自分の側へ引き寄せた。
慎悟が、こほん、と咳払いをする。
「プレゼントというのはだな。形のあるものだけを指すとは、限らないというか」
「へえ」
友紀の目が、猫のように細くなった。
「形のないプレゼント。何それ、詳しく」
「……ポテトを食え。冷めるぞ」
「今、健太と同じこと言った」
「耳、赤いよ、慎悟」
蓮が、頬杖をついて面白そうに眺めている。
「赤くない」
「赤い」
美奈子は、ホットティーのカップで口元を隠して、肩を小さく揺らしていた。南海はストローを咥えたまま、目線の置き場を探して、テーブルの模様を数えはじめる。
「――南海」
そこへ、翼の落ち着いた声が入り込んだ。
「十六歳になって、最初にしたいことは?」
「うわ、翼が逃がした」
翔一が声を上げる。
「戦術的撤退と言ってほしいね」
翼は平然と、ストローの袋を几帳面に畳んでいる。
「……助かった」
慎悟が、消え入りそうな声でこぼした。
「助かったって言った。今、絶対に言った」
友紀が即座に拾い、南海の肩まで、こらえきれずに震え出した。
最初にしたいこと。
南海は、ストローを咥えたまま考えた。欲しいものなら、いくつか思い浮かぶ。新しいレシピ本。コタと一緒に歩ける、長い河原の散歩道。夏の間だけ店先に並ぶ、桃のゼリー。
けれど、視線はどれにも辿り着く前に、テーブルの上で止まってしまった。
友紀の紙コップの下で、紙ナプキンが水滴にふやけている。健太の大きな手の中で、ナゲットの箱がやけに小さく見えた。翔一の鞄から突き出したスティック。食べかけの包み紙。並んで座る綾実と伊織の肩が、触れるか触れないかの距離で揃っている。湯気の向こうでは、美奈子が両手でカップを抱えている。反対の隣では、歩美の指先が、伏せたスマホの縁に触れたまま動かない。
そして隣には、膝の上で拳を軽く握った慎悟がいる。
ここに、みんながいる。
それは、どんなプレゼントの包みよりも、ずっと重たく、ずっとあたたかかった。
南海は、微笑んで口を開く。
「みんなで、ちゃんと二年生になりたいかな」
返事は、すぐには来なかった。
包み紙が擦れる、乾いた音。奥のフライヤーが揚げ上がりを知らせる、電子音。そして駅の向こうから届く、車輪が線路を叩く低い響き。
会話が止まった途端、それまで背景に溶けていた音が、ひとつずつ耳に入ってきた。
高校一年生が、二年生になる。カレンダーを一枚ずつめくっていけば、いつか当たり前に訪れるはずの春。
けれど、この席にいる全員は、その「当たり前」を、当たり前と呼べなくなって久しかった。戦いはまだ終わっていない。誰も口にしないだけで、それはここにいる全員が知っていることだった。
慎悟は、膝の上の拳を、ゆっくりと開いた。
南海が望んだものは、あまりにも小さい。小さすぎて、だからこそ、腕が痺れるほどに重い。
「……私も、そうしたいです」
沈黙を破ったのは、美奈子だった。
カップを抱く指に、少し力がこもっている。二か月遅れて開いた教室の扉。名簿の三十七番に並んだ、自分の名前。みんなが先に歩いてきた道を、あとから追いかけてきた彼女にとって、来年の春も同じ席に座っていられることは、遠い棚に置かれた宝物のようなものだった。
「するさ」
慎悟が、短く言った。
「全員で二年になろう」
保証は、どこにもない。それは彼自身が、誰よりもよく分かっている。それでも、言葉にしなければ、そこへ向かって足を出せない気がした。だから、口にした。願いを、約束の形にして。
「当たり前でしょ。私だっているんだから」
友紀が鼻を鳴らして、ストローを噛む。その目の縁が、少しだけ赤かった。
「……ああ」
健太は、ナゲットの箱を、何も言わずに美奈子のほうへ半分押しやった。
「うん。なら、ちゃんと全員で行かないとね」
蓮が、いつもの笑みを少しだけ引き締めて頷く。翔一は、いつもなら茶化すはずの口を珍しく閉じたまま、ストローを咥えて二度深くうなずいた。
その真面目な空気を、最初にほどいたのは南海だった。
「まあ、その前に、夏休みもいっぱい遊びたいけどね」
「そっちが本音だろ!」
翔一が、待ってましたとばかりに指を突きつける。
「両方本音!」
南海が笑うと、堰を切ったように、笑い声がテーブルへ戻ってきた。
「海だろ、まずは!」
翔一が両手を広げる。
「あと花火! 屋台! 音のデカいやつ!」
「花火なら河川敷ね。人が多いから、場所取りは計画的に」
綾実が、淡々と言い添えた。
「……浴衣も、着てみたいですね」
伊織がぽつりとこぼすと、友紀が「それ採用!」と机を叩く。
「あの」
美奈子が、遠慮がちに小さく手を挙げた。
「水族館に、行ってみたいです。ペンギンが、見たくて」
「行こ行こ! 平日の朝イチなら空いてるって聞くし」
友紀が身を乗り出す。
「往復の移動と、館内で座れる場所も先に調べておくよ。人の少ない時間帯もね」
翼が当然のように言い、健太が短く言い添えた。
「荷物は持つ」
「……ありがとうございます」
美奈子の頬に、ほんのりと色が差す。
「夏休みってさ、遊ぶ期間じゃん?」
翔一が言うと、健太が真顔で返した。
「休む期間だ」
「そこ真面目に取んなよ!」
「言葉の意味で揉めないで」
蓮の突っ込みに、また笑いが起こった。
そんな笑いの、ちょうど途切れ目だった。
ブブッ。
トレーの脇で、伏せたスマホが小さく震えた。
歩美の肩が、大きく跳ねた。
トレーの上の紙ナプキンが、肘に押されてくしゃりと潰れる。ついさっきまで笑っていた顔から、色と表情がすとんと抜けた。
歩美の耳から、テーブルの賑やかさが遠のいていく。
――拘束された男性。
――札。
――絶叫。
――角羅の笑顔。
『歩美ちゃーん。甲子園おめでとー』
息が浅くなる。指先から、ゆっくりと熱が引いていく。スマホを裏返すだけのことなのに、手が動かない。歩美は膝の上で一度拳を握り、それから息を吸って、画面へ手を伸ばした。
浮かんでいたのは、野球部の先輩からのメッセージだった。
〈遠征の宿泊先、明日の午前中に人数の最終確認お願いします〉
「……よかった」
声にして、息を吐く。肺の底まで空気が降りてくる。それなのに、指の力だけは、すぐには抜けなかった。
周りの会話は、もう次の話題へ流れはじめている。歩美も、その流れに乗りたかった。乗れるはずだった。
話したい、と思う。自分の回復札に似た力が、人の命を奪うために使われたこと。由加里の声が、まだ耳から離れないこと。通知が鳴るたびに、また何かを見せられる気がしてしまうこと。
けれど、今日は南海の誕生日で、ようやく全員がそろって笑っているこの席を、自分の一言で壊したくはなかった。それに、どこから、どうやって話せばいいのか、自分の中でさえ、まだ言葉の順序が定まっていない。
「歩美ちゃん」
隣から、南海の声がした。
「……大丈夫?」
大きな声ではなかった。他の誰にも届かないくらいの、ちいさな声。
歩美は、口角を持ち上げた。自分でも分かるほど、ぎこちない形で。
「うん。ちょっと疲れてるだけ」
その返事を聞きながら、南海は、疲れていること自体は本当なのだろうと思った。
けれど、それだけではない気がした。何がそうさせているのかは、南海には分からない。分からないことを、分かったふりで言葉にするのは、いちばんしてはいけないことだと、南海は思っている。だから、問い詰めなかった。
代わりに、テーブルの上のポテトの箱を、歩美の前へ、少しだけ押した。
「そっか。じゃあ、ちゃんと食べなよ。今日は、いっぱい働いたんでしょ?」
歩美は、一瞬きょとんとして、それから、ふっと肩の力が抜けたように、小さく笑った。
「……うん。ありがと」
食べ物を勧められたくらいで、何かが癒えるわけではない。それでも、理由をうまく説明できない今の自分にも、ここに座っていてよい場所がある。それだけで、肺の奥に入ってくる空気が、ほんの少しだけ増えた。
「よっしゃ、最後のアップルパイ、もらった!」
「待て。それ、俺が狙ってたやつ」
「アップルパイに名前書いてあんのか」
「俺の胃には書いてある」
友紀の笑い声が弾けた。
「半分に割れば済む話だろう」
翼が冷静に告げると、翔一と健太が、同時に声を揃えた。
「それは違う」
綾実は、指先で口元を隠して、そっと視線を逸らした。伊織は、肩を小さく震わせて、こらえきれなかった笑いを、ひとつだけこぼす。美奈子は、湯気の向こうで、静かに目を細めていた。歩美も、押し出されたポテトの箱から、ようやく一本だけ摘まんで口へ運び、少しだけ声を出して笑う。テーブルの端では、彼女のスマホが、画面を伏せたまま黙っていた。
慎悟の隣で、南海も笑った。笑いすぎて滲んだ涙を、指の背でぬぐう。
窓の外では、夕方の光が、床の影をまた少し長くしている。ホームへ入ってくる列車の音が、遠くから、ゆっくりと近づいてきた。ドアが開き、誰かが降り、誰かが乗る。それぞれの家へ、それぞれの明日へ、続いていく足音。
南海は、目の前の光景を、焼きつけるように見つめた。
言い合う翔一と健太。笑う友紀。小さく笑う美奈子。そして、歩美の指先に、ほんの少しだけ戻ってきた温度。
――来年も、みんな、ここにいられるだろうか。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
第6話「十六歳の願い」、いかがでしたでしょうか。
今回は、第八章の中でもいちばん「何も起きない」回です。
ですが、書いている側としては、決して穏やかな気持ちではありませんでした。
この話を書いている間、ずっと思っていたことがあります。
南海の願いは、あまりにも小さい。
小さすぎて、読み手の胸にはかえって重く落ちるのではないか、ということです。
「みんなで、ちゃんと二年生になりたい」
高校一年生が二年生になる。
本来なら、願いと呼ぶほどのことではありません。
けれど、鬼との戦いに巻き込まれた彼らにとって、それは保証されていない未来です。
だから南海は、この願いを選びました。
世界を救うとも、強くなりたいとも言わなかった。
テーブルを見渡して、そこにいる全員の顔を見て、いちばん手放したくないものを口にした。
あの場面の南海は、きっと慈の名前にいちばん近い場所に立っていたと思っています。
そして慎悟の「全員で二年になろう」は、約束というより、まだ叶っていない願いに足を前へ出させるための言葉です。
保証はどこにもありません。
それでも言葉にしなければ、そこへ向かって歩き出せない。
その気持ちを、彼なりの不器用な形で書いたつもりです。
◇
もうひとつ、今回の裏の主役は歩美です。
笑い方の終わりが、ほんの一拍遅れる。
ポテトに一度も手が伸びない。
伏せたスマホが震えただけで、肩が跳ねる。
彼女は前話で、あまりにも重いものを一人で見てしまいました。
けれど、南海の誕生日の席で、それを言葉にすることはできなかった。
話さなかったのは、弱いからではありません。
全員がようやくそろって笑っている席を、自分の一言で壊したくなかったからです。
そして南海は、問い詰めませんでした。
分からないことを、分かったふりで言葉にしてはいけない。
だから、ポテトの箱を少しだけ押した。
あの小さな動作が、二人の今後の関係にどう効いてくるのか。
気にかけていただけたら嬉しいです。
◇
ちなみに、慎悟と南海のあの「空気」ですが。
事情を知っているのは、綾実と伊織だけです。
翔一は何も気づいていません。
いつもの調子で突っ込んで、いつもの調子で健太に叩き落とされています。
この二人の秘密がいつまで保つのか。
そこは温かい目でお見守りください。
あと、ポテトをシェイクに浸す食べ方は、私の周りでは意外と賛否が割れます。
南海は気に入ったようです。
皆さんはどちら派でしょうか。
◇
さて、次回は第7話「蝉の声が止んだ日」です。
誕生日会の翌日、七月三十日。
夏の盛りのはずの福江県で、いつもなら途切れることのない音が、ふいに消えます。
静かすぎる空気が、何を連れてくるのか。
そして、笑い合っていた彼らの日常のすぐ隣で、何が起きようとしているのか。
ここまでの穏やかさが、そのまま「落差」になる回です。
心の準備をして、お待ちください。
◇
ブックマークや評価、感想をいただけると、執筆の大きな励みになります。
「このシーンが好き」
「この台詞が刺さった」
そんな一言でも、本当に力になります。
それでは、次回「蝉の声が止んだ日」でお会いしましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




