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選ばれた夏、選び直す未来  作者: 孔雀丸


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第4話 こういう夏もある

お読みくださりありがとうございます。


第4話「こういう夏もある」です。


前の3話で、清王学園は福江県大会の決勝を戦い、創部以来初めて甲子園への切符をつかみました。

今回は、その結果を受け取る「球場の外」の話です。


舞台は二つあります。

ひとつは福江東中学校の、テニス部の部室。

もうひとつは、鬼たちが占拠している平永寺の法堂です。


同じ試合、同じスコアを見ているのに、二つの場所で空気はまるで違います。

その違いを、ぜひ味わってみてください。


部室の場面には、第四章で恐竜の鬼に命を狙われた中学生たちが登場します。

牛山智徳と清滝聖矢です。

あの夏を越えた彼らが、いまどんな顔で笑っているのかを書きたくて、この回を用意しました。


派手な戦闘はありません。

その代わり、汗とタオルとロッカーの音のような、ごくありふれた夕方を丁寧に書きました。

スマートフォンでも読みやすいよう、行間を広めにとっています。


それでは、第4話をお楽しみください。

 七月二十八日、夕方。福江(ふくえ)東中学校、テニス部の部室。

 九回裏、一対一のまま止まった画面を、清滝聖矢(きよたきせいや)は何度も引き下げていた。

 練習を終えたばかりの部室には、汗と洗剤と、乾ききらない土の匂いが混じり合って籠もっていた。

 窓の外では、傾き始めた夏の日差しが、テニスコートの白線を金色に縁取っている。ネットの影は長く伸び、その根元に、誰かが拾い忘れたボールがひとつ転がっていた。

 牛山智徳(うしやまとものり)は、壁際の長ベンチの端に腰を下ろした。座る前に、手のひらで座面を軽く押して具合を確かめてしまうのは、体の大きな人間の癖のようなものだ。ベンチは小さくきしんだが、壊れはしなかった。

 汗を吸って重くなったシャツを脱ぎ、濡れたタオルで首筋を拭う。冷えたスポーツドリンクの蓋をひねって一口含むと、冷たさが喉から胸の奥まで落ちていき、火照りの残る体がようやく静まっていった。

 ロッカーの扉が鳴り、誰かが丸めたソックスを放り投げて、「臭っ」と笑い声が起きる。椅子の背に掛けられたタオルからは水が滴り、床に小さな染みを作っていた。どこの部室にもある、ごくありふれた夕方だった。

 隣では、聖矢がスマートフォンを両手で握りしめたまま、同じ動作をまだ繰り返している。

「更新しすぎだろ。指がもげるぞ」

「だって牛山先輩、決勝ですよ。九回裏、一対一のまま止まってるんですよ。今更新しないで、いつ更新するんですか」

「まあ、落ち着けって」

「落ち着いてます」

 そう言う聖矢の膝は、小刻みに上下していた。ラケットの柄を指で叩く癖が、今日は空の手でスマートフォンの縁を叩いている。智徳はそれ以上何も言わず、ボトルを傾けた。

 聖矢の親指が、ぴたりと止まった。

「出た!」

 部室の隅まで届く声だった。智徳の手の中で、ペットボトルが小さくへこんだ。

 突き出された画面には、太い文字の見出しが並んでいる。清王(せいおう)学園高校、創部以来初の甲子園出場決定。その下に、宮王(みやおう)高校との試合結果が記されていた。

 九回裏、一対一。藤川誠志郎(ふじかわせいしろう)の三塁打から、多賀谷修平(たがやしゅうへい)のサヨナラ打。二対一で清王学園高校が勝利。

 数秒のあいだ、誰も動かなかった。ロッカーの前で靴下を持った手が止まり、ベンチの反対側で水を飲んでいた一年生は、喉を鳴らしかけたまま固まっている。

 最初に声を上げたのが誰だったのか、智徳にはわからなかった。気づいたときには、部室は天井が浮くほどの歓声に包まれていた。タオルを頭上で振り回す者がいる。ロッカーを拳で叩いて、金属の鈍い音を何度も響かせる者がいる。

 智徳も、いつのまにか立ち上がっていた。普段は大声を出さない喉が、勝手に息を吐き出している。

「すげえな……本当に勝ったんだ」

 聖矢は画面をもう一度だけ見つめた。唇が小さく動き、声にならない声で、いま読んだ数字と名前をなぞっている。人の言葉を覚えるときの、聖矢の癖だった。

「九回裏、一対一。藤川さんが三塁打で、多賀谷さんがサヨナラ打で、二対一……」

「お前、もう覚えたのかよ」

「こういうのは忘れませんよ」

 聖矢は得意げに鼻の下をこすった。その指先が、本人も気づかないうちに、ほんの少しだけ震えていた。

「慎悟(しんご)先輩たち、今ごろ球場で大騒ぎですよね」

 誰かの声をきっかけに、話題はそちらへ流れていった。

「寿満寺(じゅまんじ)の合宿を終えて、そのまま応援に行ったはずだ」

 智徳が言うと、部員たちが「そういえば言ってましたね」と口々に頷く。

「友紀(ゆき)先輩、絶対飛び跳ねてますよ。隣の人の肩とか叩きまくって」

「叩かれた人、明日は腕が上がらないな」

 笑いが弾けた。智徳も、目尻が下がるのを止められなかった。友紀が拳を突き上げ、隣に座った見ず知らずの客の背中まで叩いている様子が、見てきたようにはっきりと浮かぶ。

「歩美(あゆみ)先輩もいるんだよな?」

 三年の同級生が、頬杖をついたまま言った。

「泣いてる」

 聖矢が、間髪入れずに答えた。

「泣いてるな」

 智徳の声も、ほとんど同時に重なった。

「二人とも即答かよ!」

 部室の壁に、笑い声が跳ね返った。智徳は首の後ろをかきながら、少し照れくさそうに付け足す。

「泣きながら、手だけは休まず叩いてるんだ。あの人は」

「ああ、目に浮かびます……」

 聖矢がしみじみ頷いて、また誰かが噴き出した。

「甲子園、か」

 窓際で、誰かがぽつりと言った。テレビの向こうにあるものだと思っていた名前の前に、知っている学校の名が並ぶ。八月の空の下、遠い球場へ続く道が、窓の外の光の向こうに細く一本伸びたような気がした。

 そのとき、ロッカーの前で誰かがふざけて扉を叩いた。金属の乾いた音が、部室いっぱいに響き渡る。

 窓際に立っていた二年生の肩が、びくりと跳ねた。

 ――雨に濡れた校庭で、何かが軋みながら折れる音。泥を蹴る、重い足音。

 智徳の耳の奥にも、ほんの一瞬、あの日の音が甦った。首の後ろをもう一度かき、その音を笑い声の下へ押し戻す。

「わりい、驚かせた」

 扉を叩いた部員が、慌てて頭を下げた。二年生は「平気平気」と片手を振り、自分でも可笑しそうに息を吐く。

「ちょっと、思い出しただけだから」

 それきり、誰もその話を続けなかった。続ける必要がなかった。あの日、彼を助けた手が誰のものだったか、この部室の何人かは知っている。知っているから、笑い声のほうを少しだけ大きくした。

 壁のホワイトボードには、几帳面な字で明日の練習予定が並んでいた。7/29、八時半集合、基礎打ち、サーブ練習、ゲーム形式。その隣には、誰かが消し忘れた先週の落書きが、薄く残っている。

 二年生はしばらくそれを眺めていたが、やがて、独り言のように呟いた。

「……こういう夏もあるんだな」

 智徳は、自分の手を見下ろした。

 グリップに擦れて硬くなった掌が、今日の練習の名残でじんじんと熱を持っている。指を開くと、巻き直したばかりのテープの跡が、赤く残っていた。

 この手は今日、誰の前にも立たなかった。何かを受け止めるためではなく、ただ打ち返すためにラケットを握り、握りすぎて痺れるほど、ただそれだけを繰り返していた。

 それがどれほどのことなのか、智徳自身にも、うまく言葉にできない。ただ、掌の熱さが、少しも嫌ではなかった。

「あるよ」

 智徳が言うと、二年生が振り返った。

「こういう夏だって」

 その先を続けようとして、言葉が見つからなかった。だから智徳は、それ以上は何も足さず、小さく頷いた。

 聖矢は、ほんの少しのあいだ黙っていた。

 智徳の横顔と、その手元とを見比べる視線が、いつもの人懐っこさをひととき手放している。唇がまた小さく動いた。いまの言葉を、一字ずつなぞるように。

 智徳はそれに気づいたが、気づかないふりをしてボトルに口をつけた。

 次の瞬間には、聖矢はもう、いつもの明るさに戻っていた。

「じゃあ明日、記念にダブルス一本やりましょうよ、牛山先輩!」

「何の記念だよ」

「清王学園甲子園出場記念です」

「俺たち関係ないだろ」

「細かいこと言わない!」

 部室の隅から、また笑いが広がっていく。誰かがタオルを投げ、誰かが「俺も入れろ」と叫んだ。

 ほんの短いあいだ、ここにいる全員が、守る側でも守られる側でもなく、ただ同じ部室で汗を拭く部員でいられた。

 ◇

 平永寺(へいえいじ)の法堂(はっとう)は、音の少ない場所だった。

 板敷きの床に、格子窓を抜けた西日が細い縞を引いている。須弥壇の燭台には火が入っていたが、その明かりは堂の奥まで届かず、天井の梁のあたりに暗がりを溜めていた。

 須弥壇の前に立てかけられたタブレットには、試合終了直後の球場が映し出されていた。ホームベースのあたりに群がる白いユニフォーム。崩れるように膝をつく相手側の選手たち。スコアボードには、清王学園二、宮王高校一の数字が、動かぬ事実として並んでいる。

 長畝志穂(のうねしほ)――鬼としての名を紫蓮(しれん)という少女は、その画面を見つめたまま、動かなかった。

 宮王高校が勝つ。紫蓮はそう見ていた。県内での実績、戦力の厚み、投手の安定感、守備の堅さ、大舞台を何度も踏んだ経験。どの項目を並べ直しても、天秤は宮王のほうへ傾いた。傾かない理由が、見つからなかったのだ。

「……負けた?」

 声は、堂の天井へ吸われて消えた。

「戦力差では、宮王高校が上だったはず……」

 紫蓮は羽扇を握る指が、羽根の付け根で止まっていた。考えを組み立てているあいだは、いつも静かに揺れているはずの羽扇が、いまは一枚の板のように動かない。

「だから負けない、とは限らないでしょう」

 少し離れた柱にもたれていた河間純二郎(こうまじゅんじろう)――滄爪(そうそう)が、水筒の蓋を閉めながら言った。

「実績は過去の結果です。今日の勝敗まで保証するものではない」

「結果論では?」

「もちろん。勝負なんて、終わってしまえば全部結果論ですよ」

 皮肉の匂いのする言い方だった。

「根拠は?」

「切り替えの速さですよ。ミスのあと、誰も下を向かなかった。数字には出ない部分だ。もっとも、外れる公算のほうが高いとは思っていましたが」

 肩をすくめる仕草には、余裕があった。だがその余裕は、未来を見通した者のものではない。紫蓮にはそう見えた。賭け金を惜しまない者の、軽さだった。

 紫蓮は視線を、堂の中ほどに座る少女へ移した。

 稲越茉耶(いなごえまや)――霧香(むこう)は、床に裏返した札を三枚並べたまま、身じろぎもせずにいる。黒髪が前に落ちて、顔の半分を隠していた。

「あなたも清王学園を選んでいたわね。あなたは占いで分かったの?」

「そう出ていた」

 平坦な声だった。抑揚がないのに、耳に残る。

「未来を見た?」

「全部は見えない」

 霧香は、札の一枚に指先だけを添えた。めくりはしなかった。

「見えるのは、流れだけ」

 紫蓮は、それ以上を訊かなかった。

 分析の紫蓮。観察の滄爪。占いの霧香。同じ結果へ向かった道は、三人とも違っていた。ひとつの試合に、三通りの読み方があった。

 画面の中では、宮王高校の選手たちが泣いていた。霧香は、勝った側を祝わず、負けた側を悼みもしない。画面のなかの涙を、天気でも眺めるように見ているだけだった。

 法堂の奥、須弥壇の前の一段高い場所に、金津美里(かなづみり)が座っていた。

 彼女は、黙って画面を見ていた。国影(くにかげ)の脇差が、膝の傍らに置かれている。西日は美里の足元までしか届かず、その表情は暗がりの側に残っていた。

 映像が切り替わる。甲子園の常連だった宮王高校が、ベンチの前で肩を寄せて泣いている。初めて甲子園の切符を掴んだ清王学園が、マウンドのあたりで団子になって跳ねている。

「実績のある者が、選ばれるとは限らない……」

 紫蓮の呟きが、堂の静けさへ落ちた。

 美里が「第三の進路」と呼んで差し出してきたのは、学校にも、社会にも、家族にも、この先の未来にも「選ばれなかった者」のための道だった。選ばれなかったのなら、選ぶ側へ回ればいい。その言葉の輪郭は、紫蓮も知っている。

 だが今日、画面の中では、選ばれるはずだった側が敗れた。選ばれなかったはずの側が、選ばれた。

 もちろん、これは反証にはならない。野球の一試合と、人が生きていく年月とを、同じ秤に載せるほうがどうかしている。紫蓮の理性は、正しくそう告げていた。

 ただ、その秤の針が、ほんのわずかに揺れた。

「一試合よ」

 美里が言った。画面から目を離さないままで、声には少しの揺れもなかった。

「今日選ばれたからといって、その人間に価値があるとは限らない」

 鞘へ添えられた美里の指が、一度だけ、鍔を小さく鳴らした。

 滄爪が、目を細める。反論はしなかった。水筒を持つ手を下ろし、それきり口を閉ざした。霧香も、札の前で沈黙している。

 紫蓮は、その言葉の向きを測りかねた。

 勝った者の価値を疑う言葉にも聞こえる。勝敗と価値とを別々のものとして扱う言葉にも聞こえる。もし後者なら、それは人を二つの側へ分ける美里自身の線に、同じ刃を返すことにもなる。

 けれど、誰もそれを口にしなかった。美里の言葉は、堂内の誰の異議も呼ばないまま、静かに床へ沈んでいく。あるべき場所へ収まるように、と紫蓮には見えた。

 紫蓮は、もう一度画面を見た。

 人の未来は、本当に分析し尽くせるのか。選ばれた側と、選ばれなかった側は、固定されたものなのか。

 そこまで言葉になりかけて、紫蓮は思考を止めた。これは疑問ではない。計算に現れた、ただの誤差だ。誤差なら、修正すればいい。

 そう決めたはずなのに、羽扇の根元に置いた指は、まだ動かなかった。

 タブレットのスピーカーから、清王学園の校歌が流れ始めた。

 小さな音が、堂の暗がりのなかで、割れ気味に震えている。誰も、それを止めようとはしなかった。

 ◇

 同じ県の、同じ夏の、同じ試合結果だった。

 平永寺の堂内では鬼たちが勝利の意味を測りかね、福江東中学校の部室では、同じ勝利がただ笑い声の種になって弾んでいる。

 部室では、ホワイトボードの隅に、聖矢が赤いマーカーで新しい一行を書き足していた。ダブルス一本(清王学園甲子園出場記念)。

「だから、何の記念なんだよ」

 智徳がもう一度突っ込むと、笑い声がロッカーの列に跳ね返って、また部室いっぱいに広がった。

 壁に立てかけられたラケットのグリップテープが、夕日を受けてほのかに橙色に光っている。窓の外のコートには、拾い忘れたボールがひとつ、まだ転がっていた。

 明日は誰かが、あれを拾うのだろう。

 こういう夏も、あるのだろうか。


ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。

第4話「こういう夏もある」、いかがでしたでしょうか。


今回は、あえて「勝った側」の話をほとんど書いていません。

書いたのは、その勝利が遠くへ届いたときの、周囲の反応です。


部室の中学生たちにとって、清王学園の勝利は、ただ笑い声の種になります。

タオルを振り回し、ロッカーを叩いて、「歩美先輩は絶対泣いてる」と言い合う。

それだけで、あの夏を越えた彼らには十分すぎるほど大きな出来事でした。


その部室で、二年生がぽつりと呟く一言が、タイトルの「こういう夏もあるんだな」です。

智徳の答えは短いものにしました。

言葉を足しすぎると、あの部室の空気が壊れてしまう気がしたからです。


一方の平永寺では、勝敗の読みが外れた紫蓮が、羽扇を握ったまま動けなくなります。

紫蓮は分析、滄爪は観察、霧香は流れ。

同じ結果にたどり着いた三人の読み方が、三通りだったことは、ちょっとした遊び心として入れました。


美里の「一試合よ」という一言には、いろいろな読み方ができると思っています。

勝者の価値を疑う言葉なのか。

勝敗と価値を切り離す言葉なのか。

どちらにも聞こえるように書いたつもりです。

皆さんの耳には、どう聞こえたでしょうか。

よろしければ、感想で教えてください。


この回の最後は、拾い忘れられたボールがひとつ、コートに転がったまま終わります。

明日、誰かが拾うのでしょう。

そういう「続いていく日常」を描くことが、この第八章の大きなテーマのひとつです。


さて、次回は第5話「希望を殺す札」です。


甲子園出場が決まった、その夜。

いちばん泣いていたあの人のもとに、ひとつの通知が届きます。

嬉しい夜になるはずだった時間が、どう変わっていくのか。


次回は、今回の穏やかさとは打って変わって、重く暗い展開になります。

流血や死亡を示す描写も含まれますので、苦手な方はご注意ください。


ブックマークや評価、感想は、更新の何よりの励みになります。

誤字脱字のご指摘も、いつもありがとうございます。


それでは、また次話でお会いしましょう。

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