第3話 最後の一球
こんにちは。
いつも『十彩獣団』を読んでいただき、ありがとうございます。
第八章・第3話「最後の一球」です。
九回裏、一対一。
清王学園、最後の攻撃です。
前話で綾実が引いたカードの答えが、この回で出ます。
ただ、今回の主役はカードではありません。
打席に立つ二人と、ダグアウトで氷嚢を握る一人です。
今回は戦闘がありません。
その代わり、一球ごとの間と、スタンドの息遣いを丁寧に描いたつもりです。
スマホで読む方は、よければ蝉の声を想像しながら、ゆっくりめに読んでみてください。
それでは、第3話をお楽しみください。
七月二十八日、福江県民球場。
夏の高校野球福江県大会、決勝。
清王学園高校対宮王高校。
九回裏、一対一。次の一点で、勝負が決まる。
蝉の声を、ブラスバンドと太鼓の響きが押し流していた。
真昼の陽が黒土を焼き、内野の白線は目に刺さるほど眩しい。
スタンドを渡る風は、熱をかき混ぜるだけで、涼しさを運んではこなかった。
試合は、序盤から動かなかった。
両校のエースが、同じ速さの球を同じ高さに置き続ける。宮王は、甲子園の常連校だ。清王の打線は、その壁の表面を撫でるばかりで、奥へ入り込めない。
四回に宮王が一点を先に奪い、六回に清王がようやく追いついた。
それきり、掲示板の数字は増えていない。
好機がなかったわけではなかった。
五回、一死一、二塁。三番の痛烈な当たりは、三塁手の真正面へ飛んだ。併殺。帽子のつばを引き下げた背中に、誰も声をかけられなかった。
宮王の攻めも、清王の守備に阻まれ続けた。
七回、二死二、三塁。三遊間の深い打球を、多賀谷が逆シングルで拾い、崩れた体勢のまま一塁へ投げた。判定はアウト。八回には、右中間へ伸びる飛球を、藤川が背走のまま掴んでいる。
ただ、疲れは隠せなかった。
清王のエースのユニフォームは、汗で色が変わっている。回の合間に歩美が差し出す氷嚢は、握られたそばから溶けていった。
九回表を、エースは三人で締めた。
ベンチへ戻ってくる選手たちは、誰も口を開かない。タオルと水筒が、言葉のないまま、手から手へ渡っていく。
一対一のまま、九回裏。
一点取れば、甲子園。取れなければ、延長戦。清王は、規定の最終回の攻撃を迎える。
掲示板の九回の欄が、空白のまま、次の数字を待っていた。
ダグアウトの隅で、歩美は両手を胸の前で握りしめた。
指の間に汗が滲み、手のひらが滑る。乾いた土の匂いと、遠い応援の響きが、身体の奥まで入り込んでくる。
自分の心臓の音が、太鼓の拍に重なっているのに気づいた。
「……ここだね」
隣で、二面悠が低く呟いた。
スコアブックを膝に載せたまま、鉛筆の先は止まっている。声が静かなときほど、この先輩の内側で強く何かが動いていることを、歩美は知っていた。
歩美は、ただ頷いた。
喉が乾ききって、声にならなかった。
◇
左打席の土を、藤川誠志郎はスパイクの先で二度均した。
一番、中堅手。三年生。
負ければ、高校野球が終わる。その事実は、腹の底にずっと沈んでいる。だが、顔には出さなかった。出したところで、ベンチの後輩たちの背中が重くなるだけだ。
マウンドの右腕も、藤川と同じ三年生だった。
同じ夏を、逆の側から背負っている。そう思うと、球場の熱が、少しだけ近くなった気がした。
初球。
外角へ、白球が走ってくる。手を出せば当てるだけの、ぎりぎりの高さだった。見送る。
「ストライク!」
球審の腕が上がる。文句のつけようのない球だ、と藤川は思った。あそこは、当てにいっても内野ゴロにしかならない。打つ球ではなかった。
二球目。
胸元へ食い込む速球に、身体が勝手に反応した。バットの根元を叩いた打球が、三塁側のネットへ跳ね込む。ファウル。
これでストライクが二つ。追い込まれた。
藤川は、ゆっくりと打席を外した。
ヘルメットのつばをつまみ、深く息を吐く。焦るな。一番打者の仕事は、ホームランを打つことじゃない。まず塁に出て、相手に「面倒なのが出た」と思わせることだ。
視線を、外野へ流す。
右翼手が、いつもより浅い。藤川の足を警戒して、単打を二塁打にさせない位置だ。理屈は正しい。ただ、その分、頭の上と右中間には、広い空間が空いている。
三塁コーチャーが、帽子のつばに触れた。
迷うな、のサインだった。
打席へ戻る。
三球目。低めへ、沈む変化球。ボールだと見切った瞬間、バットが止まった。
「ボール」
外、内、低め。バッテリーは、三つの場所を見せてきた。
九回の先頭打者に、四球を出したい投手はいない。次は、必ずストライクゾーンへ来る。ベルトの高さ、真ん中からわずかに内。待つ場所を、そこに決めた。
四球目。
来た。
甘くはなかった。ただ、藤川が待っていた高さだった。
振り抜く。
芯を食った音が、球場の空気を裂いた。
白球が、右翼手の横を抜ける。
背走した右翼手のグラブが、白い残像の端をかすめた。打球は右中間の深いところで芝を叩き、フェンスへ向かって転がっていく。
走る。
一塁を蹴る。右翼手も中堅手も、白球に背中を向けたまま追っている。拾って、振り向いて、投げる。そこまで、あと二秒はかかる。
二塁ベースを踏んだ。
視界の端で、三塁コーチの右腕が、大きく回っているのが見える。この距離で、あの人の目に狂いはない。
二塁で止まる選択肢も、確かにあった。
だが、打球の転がり方も、二人の外野手の身体の向きも、コーチの腕も、同じ方向を指している。無謀な賭けではない。三つの答えが、一つに揃っただけだ。
中継に入った二塁手が、振り向きざまに送球する。
白球が空気を切る音が、背中を追ってきた。
――間に合わせる。
頭から、滑り込んだ。
右手を伸ばす。胸が土をなぞり、顎が砂を削る。指先が三塁ベースに触れた瞬間、頭上でミットが鳴った。
砂煙が、舞い上がる。
球場から、音が消えた。
蝉の声だけが、遠くで一つ、鳴いている。
三塁塁審の両腕が、ゆっくり、水平に開いた。
「セーフ!」
一拍遅れて、一塁側スタンドが爆発した。
無死三塁。
藤川は、ベースに手を置いたまま、荒い息を一度だけ吐いた。
それから立ち上がり、ユニフォームの土を払う。派手な仕草は、いらない。
対角線の向こう、一塁側のダグアウトへ向けて、拳を一度だけ握ってみせた。
◇
「藤川先輩!」
歩美は、自分でも驚くほどの声を出していた。
気づけば、ダグアウトの最前列で身を乗り出している。手すりを掴んだ指が、震えていた。
悠は、スコアブックから目を離さないまま、低く呟く。
「これで、宮王は嫌でもバントを考える」
声は冷静だった。
だが、鉛筆を握る指の関節は、白くなっていた。
◇
ネクストバッターズサークルで、多賀谷修平は屈伸を止めた。
三塁ベースの上で、藤川が立ち上がっている。
土にまみれた顔が、こちらを向いた。
「修平、任せた!」
歓声のなかでも、あの声だけは真っ直ぐ届く。
多賀谷は、ヘルメットのつばの下で、口の端だけを動かした。
「うるせえ。そこ動くなよ」
それだけで、足りた。
藤川は歯を見せて笑い、リードの幅を一歩分だけ縮めた。言われた通りに。
打席へ向かおうとしたところで、宮王が動いた。
伝令がマウンドへ走り、内野手たちが輪をつくる。短い相談のあと、輪が解けたとき、内野陣は前に出ていた。
無死三塁、同点の九回裏。
一点を失えば、その瞬間に試合が終わる。前進守備は、当然の選択だ。多賀谷は、宮王の判断を少しも疑わなかった。自分が向こう側に立っていても、同じことをする。
右打席の土を踏む。
バットを寝かせて、顔の前に構えた。
バントの構え。
その途端、三塁手と一塁手が、半歩、前へ詰めてくる。遊撃手も、三塁のカバーへ体重を寄せた。スクイズを、潰しに来ている。
多賀谷は、目だけで守備の隙間を数えた。
三塁手が前へ出れば、三遊間は開く。バントを警戒すればするほど、そこは口を広げていく。
バントが得意だから、バントをするのではない。
一点を取る確率が一番高い方法を、選ぶだけだ。宮王がバントを消しにきたのなら、その分、別の道が開く。
マウンドの右腕の顎から、汗が一滴、落ちた。
九回まで一人で投げ抜いてきた呼吸が、肩の上下に出ている。それでも、構えは少しも緩んでいなかった。
投手が、セットに入る。
初球。高めの速球が、顔の前をかすめた。バントの構えを崩しにきた、外しの球だ。バットは、微動だにさせなかった。
「ボール」
三塁の藤川は、投球と同時には飛び出さなかった。
打球が飛ぶまでは走らない。サインがなくても、この二人の間では、それが決まりごとになっている。
一塁側のダグアウトでは、誰もが声を殺していた。
歩美は氷嚢を握りしめ、悠は鉛筆を止めたまま、打席を見つめている。
一塁側スタンド。
「多賀谷ぁ! 決めろ、決めてくれぇ!」
柿原翔一が、フェンスに身を乗り出して、喉が裂けそうな声を張り上げている。隣では熊坂健太が、黙って両の拳を固めていた。関節が白い。坪江南海は、胸の前で両手を合わせ、固く目を閉じている。
北潟慎悟は、フェンスに置いた手を動かさない。その隣で、北潟友紀が、無意識に兄の袖を掴んでいた。
山室綾実は、スカートのポケットに指を入れていた。
薄い紙の縁が、指先に触れる。棒の六。取り出しはしない。ただ、その角の硬さを、確かめ続けている。
投手が、二球目の動作に入る。
足が上がる。腕が振られる。
三塁手が、前へ突っ込んだ。
遊撃手が、その裏へ寄る。
三遊間が、口を開けた。
バットが、引かれた。
構えを解く動きに、迷いはなかった。肩の高さまで戻し、そのまま、鋭く回す。
内角高めの速球。
スクイズを潰すには、一番いい球だった。
だから、それを打った。
金属音が、球場の空を突き抜けた。
白球が、飛ぶ。
突っ込んだ三塁手の頭上を越え、飛びついた遊撃手のグラブの、さらに上を越える。
落ちろ、とは思わなかった。
落ちる。
芝が、白球を叩いた。跳ねる。
左翼手が、前へ突っ込んでくる。
多賀谷は、一塁へ走りながら、視界の端で三塁を見ていた。
藤川は、まだ動かない。打球が遊撃手のグラブを越え、芝に落ちるまで、待っていた。それから、白い背中が、弾かれたようにベースを蹴った。
左翼手が拾い上げ、本塁へ送球する。
低く、速い送球だった。だが、藤川の左足が本塁を踏むほうが、わずかに早かった。
その瞬間、多賀谷は一塁ベースを踏んだ。
踏み損なわないように。二年間で一番丁寧に、白い袋の真ん中を。
掲示板の九回裏に、「1」が灯る。
二対一。
サイレンが、鳴り響いた。
清王学園、サヨナラ勝ち。
◇
藤川誠志郎は、本塁を踏んだあとも、しばらく止まれなかった。
勢いのままホームベースの向こうまで抜け、ようやく足が地面に追いつく。膝が、小刻みに揺れていた。
サイレンの長い音が、耳の奥でまだ鳴っている。スタンドから降ってくる歓声が、雨のように肩を叩いた。
一塁の向こうで、ベンチから飛び出した清王の選手たちが、一つの塊になっている。
その真ん中に、多賀谷がいた。
帽子は飛ばされ、頭を掴まれ、背中を叩かれ、押し潰されている。
「重い、やめろ、離せ」
普段は、輪の中心に立つことを絶対に選ばない男だ。
その口が、言葉とは裏腹に、笑いの形に崩れている。目の縁が赤い。抑えようとして、抑えきれずにいるのが、遠くからでも分かった。
――ああ。あいつも、同じか。
藤川は、そこへ走った。
走りながら、断片が浮かんでは消えた。
去年の夏の終わり。あと一本が出なかった、最後の打席。ベンチの隅で、帽子を深くかぶったまま動かなかった先輩の背中。その先輩たちが去ったグラウンドで、凍った土を蹴りながら走った冬の朝。
誰もいない外野から、遠いホームベースを眺めて、独り言を落とした夕暮れ。
――あと何試合、ここで野球できるんだろうな。
輪の中へ、飛び込んだ。
誰かの腕が首に巻きつき、誰かの拳が背中を叩く。誰かが藤川の名を呼び、誰かが多賀谷の名を叫び、誰かは名前ですらない声を上げている。息が、うまく吸えなかった。
「動くなって言ったのに」
押し潰されたまま、多賀谷が藤川を見上げた。
「打つまでは動かなかっただろ」
「……知ってる」
多賀谷の口の端が、ほんの少しだけ持ち上がる。それで、藤川の中の何かが、切れた。
「行けるぞ……」
声が、震えた。
三年間、後輩の前では一度も崩さなかった声が。
「俺たち……まだ野球できるぞ!」
叫んだ瞬間、視界が滲んだ。
汗なのか、それ以外なのか、自分でも分からない。周りの後輩たちの顔が、みんな、くしゃくしゃに笑っていた。
止んでいた蝉の声が、歓声の隙間から、また一つ、二つと戻ってくる。
スコアボードの上で、清王学園の名前が、夏の光を弾いていた。
清王学園高校、創部以来初の甲子園出場。
◇
ダグアウトから、選手たちが一斉に飛び出していった。
歩美だけが、最前列の手すりを掴んだまま、動けずにいた。
「……勝った……」
声が、かすれて出た。
「私たち……甲子園……」
口にした途端、堪えていたものが、一気に溢れた。
膝から力が抜け、ベンチの縁に手をつく。頬を伝う熱を拭っても、拭っても、追いつかない。
手の中には、まだ氷嚢があった。
溶けかけた氷が、指の間から、ぽたぽたと足元の土へ落ちている。
朝、まだ暗いうちに製氷機から氷をすくった、冷たさ。砂で白くなったタオルを、何度も水に通して絞った、手のひらの痛み。試合前に、球を一つずつ拭いた指の腹。あの一打を飛ばした白球も、その中の一つだったかもしれない。
悠に「念のため」と叩き込まれて詰めた予備のテーピングは、今日、エースの指を守っていた。
打ったのは、先輩たち。走ったのも、先輩たちだ。
それでも、今日の三塁で藤川が口にした水は、私が詰めた氷で冷えていた。エースの肩を包んだタオルも、この手が絞ったものだった。
――お前も、もう完全に野球部だな。
県大会の終盤に言われた一言が、氷の底から浮かび上がってくる。
ああ、と歩美は思った。
私も、この夏を、一緒に戦ってきたんだ。
輪の中から、藤川が帽子を取って、こちらを向いた。
ダグアウトへ向けて、深く頭を下げる。ベンチにいる全員に向けたものだと、分かっている。それでも歩美には、自分に向けられた一礼に見えた。
「悠先輩……泣いてます」
隣を見て、歩美は思わずそう言っていた。
二面悠は、スコアブックを胸に抱えて立っていた。頬に、二本の筋が光っている。それを、隠そうともしていない。
「歩美にだけは言われたくない」
声は、いつもよりずっと低く、震えていた。
悠が人前で泣くのを、歩美は初めて見た。
歩美は、吹き出した。泣きながら。
悠の口元も、歪む。それが少しずつ、笑いの形になっていく。二人は額を寄せるようにして、涙をこぼしながら、笑い合った。
悠の鉛筆が、スコアブックの九回裏の欄へ、震える手で記号を書き込む。
落ちた涙が、鉛筆の線をにじませた。悠はそれを、消さなかった。
◇
一塁側スタンドは、揺れていた。
柿原翔一は、両腕を高く突き上げて、意味の取れない言葉を叫び続けている。熊坂健太の大声が、空へ叩きつけられた。北潟友紀と坪江南海は、互いの肩を掴んで抱き合い、二人とも涙で顔がぐしゃぐしゃになっている。
瓜生翼の口元は、普段の落ち着きを保てずに、ほどけていた。
細呂木蓮は、静かに笑って額の汗を拭う。波松伊織は、ひたすら手を叩いていた。
北潟慎悟も、拳を突き上げる。
太鼓が鳴る。メガホンが叩かれる。帽子が宙を舞う。
サイレンの余韻が、まだ空に残っていた。
歓声は、球場の隅々まで満ちていく。三塁側の、あの静けさの上にも。
◇
歓声の渦のなかで、山室綾実は、音の外側に立っているような気がした。
ポケットの中の指が、紙の縁をなぞる。
取り出す。
小アルカナ、棒の六。
月桂冠を巻いた杖を高く掲げ、馬上の騎士が、群衆に迎えられている絵柄。勝利。称賛。凱旋。
目の前のグラウンドで、白いユニフォームの塊が、抱き合い、跳ね、揺れていた。カードの中の群衆と、あまりによく重なる。
「……当たった」
自分の声が、思ったより小さかった。
喜びは、確かにある。同時に、指先に、細かなざらつきが残った。
未来を当てたのか。
それとも、カードはただ、ありえた一本の道を照らしただけなのか。
答えは、出なかった。
占いはいつも、結果の絵だけを先に連れてくる。そこへ至る道のりは、誰かが自分の足で走るしかない。
分かっているのは、これだけだ。
藤川が待ち、多賀谷が引き、白球が落ちた。あの一打を作ったのは、彼らが積んできた時間と、二人の判断。紙の一枚は、どこにも触れていない。
綾実は、カードをポケットへ戻した。
隣で手を叩いていた伊織が、ちらりとこちらを見て、唇だけで問う。当たったの、と。
綾実は、頷いていいのか分からないまま、小さく首を動かした。伊織は何も言わず、目元だけで笑った。それで足りた。
視線を、スタンドの仲間たちへ戻す。
◇
歓声の熱のなかで、慎悟の視線が、ふと、三塁側へ流れた。
そこだけ、音の質が違っていた。
宮王の選手たちが、膝をついている。
三塁手は、ベースの後ろで帽子を顔に押しつけていた。左翼手は、芝に転がった白球のそばに立ったまま、スコアボードを見上げて動かない。ベンチの前では、洗ったばかりのタオルを抱えた女子生徒が、立ち尽くしている。
三塁側スタンドのブラスバンドは、途中の小節で止まったままだった。
マウンドには、背番号1が、まだ立っていた。
自分の右手を、じっと見ている。何千球と握ってきた指が、開いたまま、もう何も掴んでいない。
捕手がミットを外して駆け寄り、その背中に手のひらを置いた。背番号1は、それでもしばらく動かなかった。やがて足元のロージンバッグを拾い上げ、マウンドの後ろへ、丁寧に置いた。
慎悟は、その光景から目を離せなかった。
ユニフォームの膝は、どれも黒く染まっている。一日で付く汚れではない。擦り切れたグラブ。何度も巻き直されたテープ。あの色の分だけ、時間がある。甲子園の常連校という名前の裏側にも、毎日の、毎日の積み重ねがあったはずだ。
清王の勝利を飾るための背景ではない。
彼らには、彼らの今日までがあって、それが今日、終わった。
テニスコートのネット越しに、負けた相手の顔を見たことは、何度かある。握手をした手の冷たさは、覚えている。
だが、その相手の翌日から先を、自分は一度も知らない。
今年、福江県代表として甲子園へ進めるのは、一校だけ。
清王は、選ばれた。宮王は、選ばれなかった。
――選ばれなかった者。
その言葉に引かれるように、金津美里の声が、頭の奥で立ち上がった。
「第三の進路」。
宮王の選手たちが、この先どうするのか。慎悟には、分からない。
あの背番号1が、来年の春、何を握っているのか。バットか、ペンか、まだ名前のないものか。それも、分からない。
それでも。
今日の一敗で、この先のすべてが決まるとは、どうしても思えなかった。
――負けたからって、その先までなくなるわけじゃない。
言葉と呼べるほどの形は、まだなかった。
ただ、腹の底に、小さな石のように落ちた。
勝った側の席から言う言葉の軽さは、分かっている。
自分は今、拍手を受ける側から、あの景色を見ているだけだ。あの胸の内を、少しも知らない。
――勝った側にいる今日の自分の言葉を、いつか同じ顔で言える日が来るのだろうか。
喜びを、引っ込める必要はなかった。
足の裏には、まだ歓声の熱が残っている。喉も、さっきの声で痛んだままだ。それは、確かに本物だった。
球審の声が、整列を告げた。
宮王の選手たちが、一人、また一人と立ち上がる。土を払い、帽子をかぶり直し、顔を上げて、ホームベースへ歩いていく。誰も、下を向いたままでは歩かなかった。
「慎悟?」
隣から、南海が覗き込んでいた。
涙の跡の残る頬のまま、首をかしげている。
慎悟は、少し笑った。
「いや……何でもない」
視線を、仲間たちへ戻す。
翔一が、まだ何かを叫んでいる。友紀が、笑いながら手を振っている。
――この笑い声の続きを、自分はいつまで、同じ場所から見ていられるのだろう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第3話は、第八章の中でも、私が特に時間をかけた回です。
書いている間は、自分も九回裏のスタンドにいるような気持ちでした。
今回、視点は何度も入れ替わります。
藤川は、三つの答えが揃ったから三塁へ走りました。
多賀谷は、バントを消しに来た守備の隙を見て、バットを引きました。
歩美は、溶けていく氷嚢の中に、この夏の時間を見ました。
打ったのも走ったのも先輩たちです。
けれど、あの三塁で藤川が口にした水は、歩美が詰めた氷で冷えていました。
選手ではない人にも、その人だけの夏がある。
今回、書きたかったことの一つです。
多賀谷と藤川の「動くなよ」のやり取りは、私のお気に入りです。
言葉は少ないのに、二年分の信頼が詰まっている気がして、気に入っています。
綾実の「棒の六」は、ひとまず当たりました。
でも、綾実本人は素直に喜びきれていません。
カードは未来を当てたのか。
それとも、ありえた一本の道を照らしただけなのか。
その答えは、これから先の話で、少しずつ形になっていきます。
そして最後に、慎悟が三塁側を見ます。
歓声の中でそこだけ音の質が違っていた、という場面です。
慎悟はまだ、うまく言葉にできていません。
それでも「第三の進路」という言葉が、頭をよぎりました。
彼がこの景色から何を受け取るのかは、第八章の最後まで、ぜひ見届けてください。
勝った側と、負けた側。
同じ球場の同じ夏でも、見えている景色はまったく違います。
この対比が、第八章全体の背骨になっていきます。
さて、次回は、第4話「こういう夏もある」です。
舞台は、福江東中学校の男子テニス部の部室。
清王学園の勝利を伝えるニュースが、思わぬ場所に届きます。
その部室にいる中学生たちには、ほんの少し前に、命を狙われた夏がありました。
そして場面は、平永寺へ。
鬼たちもまた、この試合を見ていました。
結果を受けて、誰かが言葉を失います。
そして、誰かだけが表情を変えません。
甲子園出場の余韻は、まだ続きます。
次回も、よろしければお付き合いください。
感想、ブックマーク、評価をいただけると、とても励みになります。
誤字脱字のご指摘も、いつもありがとうございます。
それでは、また次回お会いしましょう。




