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選ばれた夏、選び直す未来  作者: 孔雀丸


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第2話 棒の六

お読みいただき、ありがとうございます。

『十彩獣団』第八章、第2話「棒の六」です。


第1話に引き続き、舞台は福江県民球場。

夏の高校野球福江県大会決勝、清王学園対宮王高校の一回裏から始まります。


今回は、スタンドの熱気の中でひとり静かにカードを見つめる綾実と、同じ試合を別の場所から見ている鬼たちの二つの視点で進みます。


タイトルの「棒の六」は、タロットの小アルカナにあるカードです。

英語名は「Six of Wands」。

月桂冠を戴いた騎士が、棒を掲げて凱旋する絵柄で、意味は「勝利」「称賛」「成功」。

ただ、あの絵が描いているのは、勝ったあとの姿です。

勝利に至るまでの道のりは、どこにも描かれていません。


そのことを少し頭の片隅に置いて読んでいただけると、綾実の指先の動きが、きっと違って見えると思います。


今回は、鬼たちが総出で高校野球を観戦するという、少々シュールな場面もあります。

真剣な顔で「どっちが勝つか」を議論する彼らを、肩の力を抜いて眺めてください。


それでは、第2話「棒の六」をどうぞ。

「抜けた! 抜けた抜けた! ランナー出たぞ!」

 誰より先に叫んだのは、翔一(しょういち)だった。

 座席に片足を掛け、両腕をまとめて振り回している。その声も、周りの音にすぐ混ざっていった。

 一塁側の応援席は、音でできた壁のようだった。

 トランペットが同じ旋律を何度も押し上げ、その下で大太鼓が腹に響く拍を刻んでいる。学ランの応援団長が声を裏返らせながら腕を振ると、返事の代わりに、スタンドじゅうから割れた歓声が跳ね返った。

 福江(ふくえ)県民球場の午前は、すでに焼けていた。

 コンクリートの段は靴底越しに熱を返し、金属の座席は、触れた指を反射的に引っ込めさせる温度をしている。汗が背中を伝い落ちる前に、首に掛けたタオルが吸っていった。

 グラウンドは遠い。守備につく選手たちは背番号を読むにはまだ小さく、乾いた内野の土だけが、照り返しの中で白く光っている。それでも揃いのユニフォームだけは、どんな点よりも先に目が拾った。

 清王(せいおう)学園は、創部以来初めての甲子園を懸けてここに立っている。相手は全国の舞台を知る宮王高校。その宮王を一回表で無失点に抑えたところから、応援席の熱は一段上がっていた。

 叫びの理由は、一回裏の先頭打者だった。引っ張った打球が、三遊間を抜けたのだ。

 スタンドが、ひと息に持ち上がる。

 翔一の腕は、まだ止まらない。

 その隣で、慎悟(しんご)も立ち上がっていた。普段は誰より先に状況を測り、感情を後ろへ回す男が、膝を前列の背もたれにぶつけそうなほど身を乗り出して、一塁ベース上の白い点から目を離さない。

「……よし」

 声は低い。それなのに、握った拳が膝の横で一度だけ跳ねた。

 健太(けんた)が、飲みかけのペットボトルを翔一の胸へ押し付ける。

「お前、試合終わる前に喉潰すぞ」

「潰れたら太鼓の隣で叩く!」

「そういう問題じゃねえだろ」

 呆れた顔をしながら、健太の口の端は下がりきっていなかった。周りの保護者席から笑いが起こり、前の列の卒業生らしい男性が振り返って、翔一に親指を立てる。

 友紀(ゆき)は笑ったまま、それでも手拍子を止めない。

「ほら南海(みなみ)、歩美(あゆみ)いたよ。ベンチの端!」

「ほんとだ、スコアブック抱えたまま固まってる。なんとかなるよ、歩美ー!」

 届くはずのない距離へ、南海が両手を大きく振った。

 後ろの段では、蓮(れん)が日陰の席を、担任の吉崎瑞紀(よしざきみずき)へ譲っていた。

「先生、こっち空いてます。直射よりは少しましですよ」

「ありがと。……あなたたち、水分! 倒れたら応援もできないんだからね」

 つばの広い帽子の下から飛んだ声に、美奈子(みなこ)が頷いて、冷えたお茶を列の端から回していく。翼(つばさ)はその隣で、膝の上のノートに投球数を書き付けていた。鉛筆の先は、拍手の合間にだけ動く。

 伊織(いおり)は、その列のいちばん端にいた。

 白い扇子を膝に置いたまま、背筋を伸ばして、グラウンドだけを見ている。歓声が上がっても、彼女の周りだけ音が一段沈んで見えた。声を出さない代わりに、球が投じられるたび、まばたきが一つ遅れる。

 そしてその隣。

 同じ応援席に座り、同じ日差しを浴びながら、綾実(あやみ)だけが、少し違うものを見ていた。

 ◇

 綾実は立ち上がらなかった。

 総立ちの列の中で、座席の縁に浅く腰を掛け、背筋を崩さないまま、視線だけを細かく動かしている。追っているのは白球ではなかった。

 二番打者が打席へ向かうまでの歩幅。素振りを二度で切り上げたこと。マウンドの投手が、一塁走者を目で押さえたあと、一度だけ長く吐いた息。ベンチの前で腕を組む監督の肘が、さっきより外へ開いていること。

 それから、スタンドそのもの。

 声は大きい。けれど手拍子が、拍の頭より半拍ほど前へのめっていた。

 ひとつずつは、何も語らない。けれど集めれば形になる。綾実は、それをこれまで何度も集めてきた。

 答えが欲しいわけではない。今日という一日が、どちらへ傾こうとしているのか。その傾きの端に、指先だけで触れておきたかった。

 二番打者が、バントの構えを取る。

 スタンドが息を吸い、誰もが身を乗り出して、視線が一斉にグラウンドへ吸われた。その一瞬に、綾実は膝の上のバッグの口を開ける。

 掌に収まるほどの小さな束を取り出した。

 角の丸くなったカードの縁を、親指で一度だけなぞる。考え込むときの、昔からの癖だった。

 問いは、ひとつだけ。

 今日、この試合で、清王学園は勝てるのか。

 儀式めいたことは何もしない。膝の上で、ゆっくり二度切る。紙の擦れる音は、太鼓の拍に紛れて誰にも届かなかった。

 束の中ほどから、一枚。

 手首を返さず、掌の影の中で、カードの面を起こす。

 棒の六。正位置。

 馬上の男が、月桂冠を戴いて進んでいく。掲げた棒の先にも、同じ冠。その周りで、五本の棒が、彼を迎えるように空へ立ち上がっている。

 意味は、習うまでもなく知っていた。勝利。称賛。凱旋。

 綾実の指先が、一瞬だけ止まる。

 自分の占いが、異様なほど当たることを知っている。受験の冬に引いた札が、そのまま合否の通知になって返ってきた日から、カードは道具ではなく、触れるたびに指が重くなるものになった。

 だから、口にはできない。

「勝てる」と言えば、前の列で声を枯らしている翔一は、「なら大丈夫だ」と笑って、ほんの少し声を落とすかもしれない。慎悟は肩の力を、一拍だけ抜くかもしれない。その一拍が白球の行方に触れないと、誰に言い切れるだろう。

「負ける」と言えば、今まさに名前を呼び続けている友紀の声が、半歩遅れるかもしれない。まだ動ける人から、動く理由を抜き取ってしまうかもしれない。

 ――言葉は、予報では終わらない。外へ出た瞬間に、誰かの足元へ落ちる。

 それなのに。

 唇の端が、ほんの少しほどけた。自分でも止められなかった。カードを掌で覆い隠すように胸元へ寄せ、呼気にも満たない声で、呟く。

「……勝てる」

 隣で、扇子の動きが止まった。

 伊織が、視線だけをこちらへ流している。

 綾実は目を合わせた。ほんの数秒。問い詰める色はなく、説明を求める色も、説明する言葉もなかった。

 伊織は何も訊かない。

 代わりに、膝の上の扇子をゆっくり持ち上げ、開いたまま、わずかに傾けた。日差しが綾実の手元へ落ちない角度に。そして何事もなかったように、グラウンドへ顔を戻す。

 綾実は、カードを束の中へ戻した。バッグの口を閉じる。指先に、紙の縁の感触だけが残った。

 棒の六の騎士は、たしかに凱旋している。けれど描かれているのは、帰ってきたあとの絵だ。そこへ至る道のりは、どのカードにも描かれていない。

 あの白い土を踏んで、一球ずつ積み上げていくのは、グラウンドに立つ人たちだった。

 ――なら、知ってしまった私は、何を言わずにいればいいのだろう。

 その問いを胸に抱えたまま、綾実はグラウンドへ向き直った。トランペットの旋律が、また高く押し上がっていく。

 ◇

 同じ旋律が、平永寺(へいえいじ)の法堂(はっとう)では、割れた音で鳴っていた。

 トランペットの高音が、小さなスピーカーの限界を超えて濁る。それは板張りの高い天井へ吸い込まれ、二度と返ってこなかった。

『一回裏、清王学園は二塁まで進めましたが、あと一本が出ず無得点。二回表、宮王高校の攻撃です』

 平永寺は、一昨夜のうちに鬼たちの手へ落ちた。堂内の広さは、昨日まで読経を受け止めていたぶんだけ、今は余っている。須弥壇の金色は煤けたまま、蔀戸の隙間から入る夏の光は細く、床板には拭き切れなかった黒ずみがいくつも染みていた。

 線香の残り香に、焦げた匂いが混じっている。

 その中央、経机の上に、大型のタブレットが立てかけてあった。

 青空と、応援席の波と、白い土。それを囲んで、鬼たちが集まっていた。

 金津美里(かなづみり)は、須弥壇の段に腰を掛けている。覇竜十傑(はりゅうじゅっけつ)、五天王(ごてんのう)、そして昨夜生まれたばかりの十二角魔衆(じゅうにかくましゅう)。誰もが人の姿のまま、画面の光に顔を白く浮かべていた。

 人の世を離れた者たちが、人の少年たちの試合を見ている。

 その異様さは、誰の口からも語られなかった。ただ、暗い堂内と、画面から溢れる歓声との落差だけが、冷えた空気の中に張りつめている。

 美里が言った。

「ねえ。どっちが勝つと思う?」

 堂内の全員に向けた声だった。彼女はまだ、どちらの学校の名も口にしていない。

 答えは、ほとんど間を置かずに返ってきた。

 宮王(みやおう)。宮王高校。低い声が堂内のあちこちから短く落ち、重なっていく。理由を付け足す者はいない。堂内のほとんどが、宮王を選んだ。

 柱に肩を預けた咬覇(こうは)が、鼻で笑った。

「常連が初出場狙いに負けるかよ」

 画面へ最も近い位置に座る牛竜(ぎゅうりゅう)が、目を外さないまま答える。

「宮王だ。こういう試合は、慣れてる方が最後に持ってく」

 答えが出そろっても、牛竜だけは画面から目を離さなかった。

 宮王の先頭打者が、バットを短く握り、軸足を半足引く。清王の内野は、三遊間が定位置より一歩詰まっている。宮王ベンチでは、監督が帽子のつばに触れ、指を細かく動かした。何かの合図だとは分かる。何を意味するのかまでは、この画面からは読み取れない。

 牛竜の目が、わずかに細くなる。膝の上で、指が何かを握り込むように動いた。

 そこへ、静かな声が挟まる。

「宮王高校です」

 紫蓮(しれん)だった。長い黒髪の片側へ前髪を流し、切れ長の目を、画面の隅の得点表示と両校ベンチの人数、選手の並びへ、順に一定の速さで動かしている。球を追う目ではない。盤面を読む目だった。

「戦力、経験、試合運び。清王学園が上回っている要素はほとんどありません。宮王高校が勝ちます」

 言い切ったのに、声に力みはなかった。断言というより、計算の答えを読み上げる調子に近い。

 その答えに理屈で異を唱える者は、堂内にはいなかった。

 ◇

 宮王優勢で揃った空気に、小さな石が落ちたのは、その直後だった。

「清王学園」

 霧香(むこう)だった。

 長い黒髪の陰から、灰色がかった紫の目が、画面ではなく自分の手元へ落ちている。膝の前で、細い指が小さなカードの束を揃えていた。声は小さく、抑揚がない。それなのに、堂内のざわめきが一拍遅れて引いていく。

 美里が、初めて画面から目を離した。

「理由は?」

 霧香はカードの縁を、指先で整える。

「そう出ているから」

 それだけだった。何が、どう出たのかという説明は、続かない。

 紫蓮の指が、膝の上でわずかに止まった。

「へえ、少数派じゃん」

 牙蓮(がれん)が面白そうに笑う。その笑いが消えきらないうちに、堂内の後ろの暗がりから、柔らかな声が上がった。

「私も清王学園ですね」

 滄爪(そうそう)だった。壁に近い暗がりに、半歩引いて立っている。口元には薄い笑みがあり、目は画面を見ていた。

「根拠は?」

 紫蓮が問う。声を荒らげることはない。

「戦力なら宮王です」

 滄爪は、あっさりと認めた。

「ですが、今日勝つのが戦力の高い方とは限らない」

「野球知ってんのか、お前?」

 牛竜が首だけを捻って振り向く。疑いを隠す気もなかった。

 滄爪は笑みを崩さない。

「知る必要がありますか? 人間を見るだけなら十分ですよ」

 挑発だと、誰の耳にも分かる言い方だった。牛竜の眉間が深く寄り、咬覇が喉の奥で面白がるように鳴らす。

 滄爪が続きを口にしかけたところへ、画面から乾いた打球音が響いた。

『打った! 三遊間、遊撃手が捕って一塁へ――ああっと、低い!』

 一塁手のグラブが送球を弾き、打者が駆け抜ける。実況が『エラーです』と言い切る前に、牛竜が短く舌を打った。

「言わんこっちゃねえ。決勝の初舞台じゃ、足も浮くさ」

「ええ、ミスです。ただ、その直後をご覧なさい」

 滄爪の視線が、画面の隅へ向く。

 遊撃手が一度だけ、自分の胸を叩いていた。一塁手は片手を挙げて口を動かし、外野から「次だ、次!」の声が飛ぶ。マウンドの投手は内野へ向けて、掌を下へ押し下げる仕草をした。

「誰も、下を向いていない」

 滄爪の声は、静かなままだった。

「失敗した本人が、次の一球までに顔を上げている。周りは、それを待たずに声を掛けている。あの切り替えの短さは、いつも通りのものなのか、今日だけ生まれたものなのか。私には、後者に見えますが」

『バッター、初球を見送ってストライク』

 画面の中で、宮王の次の打者が打席に立ち、一球目を見逃した。

「それから、宮王のあの打者。今、ほんの少しだけ首を傾げましたね。想定した球と違ったのでしょう。悪いことではありません。経験があるぶん、相手を知っている型に当てはめて見る。その型から、今日の投手が少しだけはみ出している」

 そこで滄爪は、口元の笑みを僅かに深くした。

「たまたま、かもしれませんが」

「見送っただけだ。ありゃ球筋を見てる」

 牛竜が、画面から目を離さずに言った。

「それに、声が出たくらいで球は速くならねえ。あの宮王が、あんなミス一つで焦れる連中に見えるか? 見えねえだろ。あそこは焦れねえんだよ」

「ええ。私にもそう見えます」

 滄爪は、拍子抜けするほど素直に頷いた。

 牛竜は一度、鼻から息を抜く。それから、渋々といった調子で付け足した。

「……ただ、ミスの後に声が切れてねえのは、悪くねえ。あそこで黙るチームは、そのまま崩れる。それでも、最後に持ってくのは宮王だと思うけどな」

「それでも、確率は宮王高校の方が上です」

 紫蓮の声が、そこへ静かに重なった。

「一度の落球と、一度の声掛けは、標本として小さすぎます。九回を通して同じ水準で戦い続けられるかどうか。再現性で比べるなら、宮王高校です」

 理にかなった反論だった。堂内の何人かが小さく頷き、角羅(かくら)が「えー、由加里(ゆかり)ちょっと分かんなくなってきた」と足を組み替える。

「ええ。ですから面白いんですよ」

 滄爪が言った。

「平均通りに動かないものが、今日、あそこには立っている」

 紫蓮の視線が、そこで霧香の手元へ移った。

「霧香さんの根拠は、検証ができません」

「検証は、要らない」

 霧香は、カードから目を上げないまま答える。

「確率は、起こるかもしれない、の話。私が言っているのは、起こる、の話」

「では、外れたときは」

「そのときは、私が見誤っただけ」

「それを、外れた、と呼ぶのでは」

 紫蓮の声は淡々としていた。感情の起伏はなく、ただ矛盾の位置を指で押さえるような正確さがあった。

 霧香は答えなかった。指先だけが、束の上で一度、動きを止める。

 霧香は、滄爪の方を見なかった。滄爪もまた、同じ答えにたどり着いた相手へ、視線ひとつ寄越さない。二つの声は、交わらないまま、並んで堂内に置かれた。

『ファウルボール! 三塁側、ネットに絡みます』

 実況が、その沈黙を埋めた。

 打球がネットを揺らした音のあとを、応援席の太鼓が追いかけてくる。

 ◇

 美里は、議論のあいだ、一度も口を挟まなかった。

 須弥壇の段に腰を掛けたまま、頬に指を添え、視線は画面から動かない。ただし、そこにとどまっているのは、打者でも投手でもなかった。

 画面が切り替わる。清王学園のベンチ。その一番奥で、背番号を持たない部員が、帽子を握りしめて声を張っている。次に映るのは、応援席で太鼓を叩く上級生の、汗に濡れた背中。

 誰かが、美里の予想を促す気配を見せた。けれど、その気配は言葉になる前に、堂内の空気へほどけた。

 美里は答えない。

 彼女が拾っているのは、勝つ側の顔ではなかった。歓声の外側に立つ顔ばかりを、画面の中から選び取るように見ていた。

 堂内には、いくつもの言葉が、まだ浮いている。戦力。慣れ。人間の揺らぎ。そう出ているから。

 画面の中では、ごく普通の高校生たちが、甲子園を目指して白球を追っている。堂内では、人の世を離れた鬼たちが、その姿を見ている。

 同じ試合を、同じ画面で。

 美里が、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。

「……さて、どちらが先に折れるのかしら」

 ◇

 一塁側スタンドでは、太鼓が、次の拍を刻み始めていた。

 綾実の膝の上のバッグは、口を閉じている。カードは、その中にあった。

 綾実はバッグの口をわずかに開け、棒の六だけを抜いて、ポケットへ滑らせた。

 隣では、伊織の扇子が、また静かに動き出している。綾実の手元へ、ちょうど影が落ちる角度で。

 前列では、翔一が声を張り上げ、健太が「だから潰れるって」と笑いながら水を差し出す。友紀と南海の声が重なり、慎悟は腕を組み直して、フェンスの向こうを見据えたまま、小さく頷いた。

 綾実は、グラウンドへ視線を戻す。

 宮王だ、と誰かが言った。清王学園、と誰かが言った。勝てる、と誰かが呟いた。

 どの声も、まだ何ひとつ、球を動かしてはいなかった。

 マウンドで、投手がセットポジションに入る。

 一塁走者が、少しだけリードを広げた。打席の宮王の打者が、バットを低く構え直す。

 スタンドの声が、一度、深く沈んだ。

 その静けさの底で、大太鼓が、ひとつだけ鳴った。この一球は、誰の手に落ちるのか。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

第2話「棒の六」、いかがでしたでしょうか。


今話は、「同じ試合を見ているのに、見ているものが全員違う」というお話でした。


応援席の翔一や友紀たちは、白球の行方に声を枯らしています。

けれど綾実が追っていたのは、白球ではありませんでした。

打者の歩幅、投手の吐いた息、手拍子の半拍のズレ。

彼女は、小さな手がかりを集めて、今日の傾きに触れようとしていました。


そして引いたのが、棒の六です。

占いが「当たる」ことを知っている彼女にとって、「勝てる」という言葉は、ただの喜びではありませんでした。

言葉にした瞬間、誰かの足元に落ちてしまうかもしれない。

知ってしまった人間は、何を言わずにいればいいのか。

綾実がその問いを抱えたまま試合を見つめる姿が、今話の芯です。


隣で何も訊かず、扇子で日差しを遮った伊織のさりげない優しさも、書いていてとても好きな場面でした。

言葉にしない支え方もある、ということを、この二人の短いやり取りに込めています。


一方の平永寺では、美里が鬼たちに問いかけます。

「どっちが勝つと思う?」


多数派は宮王高校。

実績、経験、戦力を考えれば、当然の予想です。

紫蓮に至っては、確率という理屈で押し切ってきました。

そんな中で、霧香と滄爪だけが清王学園を選びます。


同じ答えにたどり着いた二人ですが、根拠はまるで違います。

霧香は「そう出ているから」。

滄爪は「人間を見ているから」。

占いと観察、予言と分析。

二人は視線ひとつ交わさないまま、並んで堂内に立っていました。


牛竜が「宮王だ」と言いながら、誰よりも画面から目を離さなかったところも、実は密かにお気に入りです。

口では否定しても、目だけは試合の細部を拾っている。

彼もまた、勝負を見る人なのです。


そして美里だけは、どちらが勝つとも答えませんでした。

彼女が見ていたのは、勝つ側の顔ではなく、歓声の外側に立つ顔でした。

最後に呟いた「どちらが先に折れるのかしら」という一言の意味は、これから先の物語で少しずつ、形になっていきます。


さて、気づけば試合は、まだ序盤です。

綾実のポケットには棒の六。

霧香の手元にも、占いの札があります。

けれど、どのカードも、どの予想も、まだ何ひとつ、球を動かしてはいません。


誰が勝つと言おうと、決めるのはグラウンドに立つ人たちです。


次回、第3話「最後の一球」。


試合は一気に終盤へ向かいます。

投手戦の果てに、最後の打席に立つのは誰なのか。

そして、最後の一球は、誰の手に落ちるのか。


慎悟には、歓声の向こう側に見えてしまうものがあります。

その答えまで、どうぞ見届けてください。


ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございます。

ブックマーク、評価、感想などをいただけると、とても励みになります。


それでは、また次回お会いしましょう。

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