第1話 選ばれる夏
お読みいただき、ありがとうございます。
『十彩獣団』第八章「選ばれた夏、選び直す未来」、いよいよ開幕です。
第七章までの慎悟たちは、鬼や疾牙を相手に、刀や霊護獣の力で戦ってきました。
しかし、今回の舞台は、グラウンドです。
七月二十八日、福江県大会決勝。
清王学園が、創部以来初の甲子園出場をかけて、強豪・宮王高校に挑みます。
この第1話では、試合が始まる直前までを描きました。
主役は、打席にも立たず、守備にも就かない、マネージャーの富津歩美です。
そして、ダグアウトのクーラーボックスから、スタンドの慎悟たちまで、決勝戦当日の空気を、できるだけ丁寧に書いてみました。
戦う力を持つ彼らが、戦えない場所で、友達の戦いを見守る日。
そんな少し変わった一日を、どうぞお楽しみください。
※第八章は全十六話の予定です。
雲ひとつない青空から、真夏の太陽が真上に照りつけていた。
七月二十八日、福江県民球場。
グラウンドは、白く乾いた土と、刈り揃えられた外野の芝で、くっきり二色に分かれている。芝の緑は目に痛いほど鮮やかで、熱を含んだ風がその上をゆっくり撫でていく。バックスクリーンの大きな掲示には、上段に宮王高校、下段に清王学園高校。二つの校名が、青空を背に並んでいた。
コンコースには、靴底が石を打つ音が途切れなく続いている。「席、こっちだ!」と呼ぶ声に、誰かが笑って応える。入場口の前では、タオルを首に巻いた人の列が階段の上まで伸び、氷の入った紙コップを両手で持った子どもが、こぼさないように爪先立ちで歩いていく。
その脇を、楽器ケースを抱えた吹奏楽部員たちが小走りに抜けていった。留め金がぶつかってかちりと鳴り、ケースの角がリュックに当たって、「すみません」の声が重なる。
いつもの公式戦とは、空気の密度が違った。あと一つ勝てば甲子園。誰も口にしないその一言が、スタンドの隅々まで行き渡っている。
一塁側ダグアウトの陰で、富津歩美はクーラーボックスの蓋を持ち上げた。
白い冷気が頰に触れる。歩美は指を折りながら、頭の中の一覧と目の前の品を、一つずつ重ねていった。スポーツドリンク、水、経口補水液。塩タブレット、冷却スプレー、テーピング、絆創膏。洗いたてのタオルは山にして、選手の荷物は背番号順にベンチの奥へ寄せてある。
腰のポーチに手を当てると、予備の絆創膏の下で、寿満寺から持ち帰った珠が小さく触れた。熱くも冷たくもない。歩美はそれを確かめただけで、手を離した。
ダグアウトの中では、選手たちがそれぞれのやり方で息を整えていた。壁際で黙々と素振りを繰り返す者。グラブを開いては閉じ、開いては閉じる者。隣の背中に「肩、軽いか」と声をかけ、返事の代わりに小突かれて笑う者。やり方はばらばらなのに、全員の呼吸が、いつもより少しだけ浅い。
少し前まで、二面悠は選手の間を回っていた。「指、見せて」と三年生の手を取り、テーピングの端を親指で押さえて、「大丈夫。水、もう一本」と言って次へ移る。
淡々としたその手際に、歩美はいつも見とれてしまう。
「塩タブレットの数は」
背後からの声に振り向くと、悠がノートを開いたまま立っていた。
「三十、あります」
「……もう一度、数えて」
悠の視線は、ノートに落ちたままだ。首から提げたストップウォッチを持ち上げて、離す。この数分で、三度目だった。
歩美は袋を開け直し、一粒ずつ数えた。
「三十です」
「そう。念のため」
悠がうなずき、鉛筆を走らせる。すでに書いてある数字の上を、もう一度なぞっているだけなのが、横から見て分かった。
歩美は何も言わなかった。数え直すことが悠の落ち着き方なら、何度でも数えればいい。
やがて、目の前にペットボトルが差し出された。
「あなたも飲みなさい。倒れられると、仕事が増えるから」
「ありがとうございます。……無理しないでくださいね、先輩も」
「それはこっちの台詞」
悠は目を合わせずに言った。鉛筆を握る指先の力だけが、ほんの少し抜けたように見えた。
ダグアウトの最前列では、顧問の城昌孝が腕を組み、グラウンドを見つめている。ふだんは、外野の端まで届く声で選手を叱り飛ばす人だ。今朝は、ここへ着いてから一度も怒鳴っていない。日に焼けた横顔は動かず、視線だけが、マウンドから外野の芝、三塁側の遠い列へとゆっくり移っていく。
大学でも社会人でも、こういう日をくぐってきた人だ。だからその沈黙のほうが、どんな檄よりも重く背中に乗る。
城が振り返った。選手たちの動きが、自然に止まる。
「集まれ」
低い声だった。円になった選手を、城は端から端まで見渡す。
「ここまで来たら、格好つける必要はない」
誰も笑わない。それでも、肩の力が抜ける気配が、円の中を渡っていった。
「いつも通り走れ。いつも通り振れ。いつも通り投げろ」
城は一拍置いて、組んでいた腕をほどいた。
「最後まで立ってた奴が勝ちだ」
「はい!」
声が揃って、ダグアウトの天井を叩いた。
その声を聞いた歩美の指先に、冷たさがよみがえる。
夜明けの薄暗い部室裏で、ジャグに氷を詰めた朝。砕けた氷がざらざらと鳴り、手のひらの感覚が痺れていった。泥で茶色くなったユニフォームを洗い場で揉み、水が濁って、流して、また濁って、ようやく透けるまで、腕が重くなるまで繰り返した夕方。乾いたタオルを渡すたび、日なたの匂いが、選手たちの汗の匂いに混じった。
その時、三塁側のスタンドから、地鳴りのような歓声が上がった。
宮王高校の選手たちが、ダグアウトから姿を現す。同じ色のユニフォームが、白い土の上へ流れるように広がっていく。
歩美が息をのんだのは、体格のためではなかった。動きに、迷いがない。誰の号令も待たずに二人組が生まれ、キャッチボールが始まる。白球がグラブに収まる乾いた音が、同じ高さ、同じ間隔で三塁側から響いてくる。これだけの観衆を前にしても、足もとは練習場の土を踏んでいるように静かだった。
威圧されているのとは、違う。積み重ねてきた時間が、そのまま落ち着きになった姿なのだと、歩美の目には映った。三塁側ダグアウトの前では、宮王の三年生らしい選手が、後ろに立つ下級生の帽子のつばを、黙って直してやっている。
「……これが、甲子園常連校……」
こぼれた声に、隣の悠が視線だけを三塁側へ向ける。
「慣れてるんでしょうね」
ノートの端を指で押さえたまま、悠は少し間を置いて続けた。
「こういう試合に」
「……はい」
勝てるのかな。
その一言が、胸の底をかすめた。喉の奥が乾く。ポーチの上で握っていた指が、白くなっている。
歩美はそれを、無理に追い払おうとはしなかった。かわりに、目の前へ視線を戻す。
ダグアウトの前に並ぶ、選手たちの背中。汗で色の変わったアンダーシャツ。自分が洗ったユニフォームの背番号。自分が氷を詰めたジャグ。自分が数えた塩タブレット。
自分は、打席に立たない。守備にも就かない。それは、ずっと前から分かっている。
けれど、この背中と同じ夏を、同じ時間の中で過ごしてきた。
支える仕事は、選手になれなかった代わりに手にしたものではない。ジャグの氷も、スコアの数字も、手当ての一巻きも、この試合の一部だ。私は、私の持ち場に立っている。
歩美は胸の前で、小さく拳を握った。
勝とう。
私も、一緒に。
それから、クーラーボックスを最前列へ、選手の手が最短で届く位置まで引き寄せた。ボトルのラベルを外向きに揃え、タオルの山の上に予備の帽子をひとつ載せる。その手つきに、もう迷いはなかった。
場内アナウンスが、球場いっぱいに響いた。
「まもなく、夏の高校野球福江県大会、決勝戦を開始いたします」
歓声と拍手が、波のように広がる。楽器がひとつ、待ちきれないように短く鳴った。
主審がホームベースの後ろに立ち、右手を大きく挙げる。
「両校、集合!」
一塁側と三塁側、二つのダグアウトから、選手たちが一斉に駆け出した。初めての甲子園を目指す清王学園と、再びその場所を目指す宮王高校。二列の背中が、ホームベースを挟んで向かい合う。
拍手が、一瞬だけ静まった。
「礼!」
「お願いします!」
二つの声が空の下でぶつかり、重なった。帽子を取った選手たちが、いっせいに頭を下げる。遅れて、スタンドから拍手が降ってきた。
歩美もダグアウトの中から、小さく頭を下げた。
◇
礼を終えた清王の選手たちが、帽子を被り直して守備位置へ散っていく。その背中を、一塁側スタンドの前列から、北潟慎悟は目で追っていた。
スタンドは、白い夏服のシャツで埋まっている。吹奏楽部の楽器が並び、譜面台に留めた紙が風にめくれていた。
「歩美ー! 勝てよー!」
翔一が手すりから身を乗り出し、喉が裂けそうな声を張り上げる。慎悟が「声、もたないぞ」と苦笑しても、翔一は振り向かずに親指だけ立ててみせた。
「まだ始まってないって!」
友紀がすかさず、翔一の制服の裾を引っぱった。
「気持ちはもう始まってんの!」
「ふふっ。翔一くん、最初から全開だね」
南海が口元を押さえて笑い、その肩が小さく揺れる。近くの何人かも、つられて笑った。綾実がうちわで首筋を扇ぎながら、「最後まで、声がもてばいいけれど」と静かに言う。
翼は頰杖をついたまま、守備位置へ散る選手たちと、バックスクリーンの表示を交互に見ている。眼鏡の位置を指で直して、独り言のように言った。
「先攻は宮王。こっちは守りから入るのか」
三塁側では、宮王の選手たちが円陣を解いたところだった。整った動きに、蓮が目を細める。
「……さすがに強そうだな」
「ここまで来たら、相手が強いのは当たり前だろ」
腕を組んだ健太が、前を向いたまま返した。
「まあ、そうなるよね」
蓮が肩をすくめる。その隣で、伊織は背筋をまっすぐ伸ばし、何も言わずにグラウンドを見守っていた。綾実も同じ方向を向いたまま、扇ぐ手を止めていた。二人の間の沈黙は、いつもと同じ長さだった。
通路側では、白い帽子を目深に被った美奈子が、ペットボトルを両手で包んでいた。少しずつ水を含んでは、ダグアウトのほうへ目をやる。
「……あそこに、歩美ちゃんがいます」
嬉しそうな声だった。隣で吉崎瑞紀がうなずき、鞄からタオルを出して、美奈子の肩にそっとかける。
「みなさん、水分は自分のペースでいいから、忘れずに取ってくださいね。脇出さんは、日が動いたら席を替えましょう」
吉崎の視線が、生徒たちの頭を端から順にたどっていく。全員がそこにいると確かめて、ようやく自分の席に腰を下ろした。
慎悟は、そのやり取りを聞きながら、清王学園のダグアウトへ視線を向けていた。
ベンチの前に、帽子のつばの下から覗くショートボブの横顔が見える。歩美は選手の背中とドリンクの並びを交互に確かめて、それから、ふっと前を向いた。その立ち姿が、いつもより少しだけ背が高く見えた。
制服のポケットの上から、慎悟は右手を当てる。布越しに、丸く硬いものの感触があった。寿満寺から持ち帰った珠。熱くも冷たくもなく、ただの石のように、そこにあるだけだ。十人がそれぞれ持ち帰ったもののうち、一つは、いまあのダグアウトの中にある。
今日は、変身する必要がない。刀を握る場面も、誰かの前に出る場面も、来ない。
俺がやる、と言って前に出られる日じゃない。
握った拳を、膝の上に置いた。代わりに戦うことはできない。守ることもできない。ただ、声なら届く。
誰も命を奪われない戦いのはずだった。それなのに、グラウンドへ散っていく背中は、慎悟が知っている戦場へ向かう背中と、どこか似ている。負ける側が必ず出ると分かっていて、それでも、あそこに立つ。
――何が、あいつらをあそこに立たせている。
慎悟はその問いを、答えのないまま胸の奥へ置いた。
清王学園の先発投手が、マウンドに上がった。足もとの土を靴の先で均し、ロージンバッグを一度だけ手のひらで弾ませる。捕手がマスクを被ってミットを構え、内野手たちが腰を落とす。外野手は定位置で膝に手をつき、また身を起こした。
宮王の一番打者が、左打席に入る。バットの先で土を軽く叩き、構えた。
ひとつ、またひとつ、準備が整っていく。それに合わせて、周りの音が遠のいた。吹奏楽の音も、応援の声も、うちわの風の音も、ガラス一枚向こうへ引いたようで、耳に残るのは自分の脈だけだ。
ベンチの前で、歩美が両手を胸元に握りしめる。
スタンドでは、慎悟が身を乗り出していた。手すりの熱が、手のひらに移る。隣で、友紀が息を止める気配がした。
主審が、右手を高く挙げる。
「プレイボール!」
サイレンが、長く鳴り渡った。
投手が、ゆっくり振りかぶる。
創部以来、初めて甲子園へ手を伸ばす試合の、最初の一球。
腕がしなり、白球が、指先を離れた。
青空を背に、小さな白い点が、打者へ向かって真っすぐ走っていく。
歩美は息を止め、慎悟は、瞬きを忘れた。
――この一球の行き先を、自分は最後まで見届けられるのだろうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第八章の第1話、いかがでしたでしょうか。
今回は、試合開始までの時間を、歩美を中心に描きました。
氷を詰めたジャグ。
洗い続けたユニフォーム。
何度も数え直した、塩タブレット。
悠先輩の落ち着き方も、歩美にはちゃんと見えていました。
選手でなくても、同じ夏を過ごしてきた。
歩美が拳を握った理由が、少しでも伝わっていれば嬉しいです。
そして、スタンドの慎悟は、胸の奥に一つの問いを置きました。
――何が、あいつらをあそこに立たせている。
この問いの答えは、章が進むにつれて、少しずつ見えてきます。
さて、サイレンが鳴り、最初の一球が放たれました。
その行き先を、見届けられるのでしょうか。
次回、第2話「棒の六」。
応援席の片隅で、綾実がそっと一枚のカードをめくります。
そのカードが示すものは、勝利か、それとも。
一方、占領された平永寺でも、同じ試合を見ている者たちがいて……。
どうぞ、次回もお付き合いください。
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それでは、また次話でお会いしましょう。




