第6話 割れた仮面
謹慎の二日目は、何もすることがないという、ただそれだけのことが、こんなにも人を落ち着かなくさせるのだと教えてきた。
朝から空は灰色で、窓の隙間から忍び込む風が、日に日に刺すようになっていく。私は読みもしない薬草書を膝に広げたまま、何度も同じ頁を見ていた。手が、薬を量りたがっている。けれど量る薬も、診る相手も、今の私にはいない。
戸を激しく叩く音がしたのは、昼を過ぎた頃だった。開けると、治療院の下働きの娘が、息を切らして立っている。昨日、私と目を合わせられなかった、あの娘だ。今はその目に、なりふり構わぬ必死さだけがあった。
「ノルドルム様。靴屋の、ニルスが……治療院で、息が、できなくて。新しくいらした術士様では、どうにも……お願いします、来てください!」
膝の上の本が、音を立てて床に落ちた。気づけば私はもう外套を掴んでいる。謹慎の身で治療院へ足を踏み入れれば、私の立場はさらに悪くなる。それくらい、考えるより先に体が分かっていた。けれど、子どもの息と、自分の立場と。天秤にかけるまでもなかった。
治療院の処置室に駆け込むと、寝椅子の上でニルスが、小さな体を弓なりにして喘いでいた。
唇が、青い。肩を激しく上下させて、それでも空気が入っていかない。ひゅう、ひゅう、と笛のような細い音だけが、喉から漏れている。かたわらで若い術士が、ありあわせの薬を手に、青ざめて立ち尽くしていた。この子の発作には、決まった手当てがある。私が前もって調合しておいた薬と、座らせる角度と。それを、この人は知らない。
「どうして座らせないの! その薬では駄目、棚の三段目、私の名の包みを!」
声が、自分でも驚くほど高く、鋭く出た。いつもの私の声ではなかった。けれど取り繕う余裕など、どこにもない。
私はニルスの背に回り、上体を起こして前へ傾けてやる。詰まった胸が、少しでも開くように。薬包を湯に溶く指が、わずかに震えていた。あの夜会で伯爵を診たときには、あれほど落ち着いていた指が、今は言うことを聞いてくれない。診ている相手が、この子だからだ。
「ニルス、聞いて。瓶を、数えて。いつもみたいに。一、二、って」
苦しさに見開かれた目が、薬瓶の棚を探して、けれど焦点が定まらない。数えられないのだ。あんなに得意だったのに。私はその小さな手を握って、代わりに数えはじめた。
「一、二、三……いいわ、その調子。四、五……」
温めた薬がゆっくりと効いてきて、弓なりだった背が、少しずつほどけていく。笛の音が和らぎ、青かった唇に、かすかに赤みが戻った。握った手が、私の指を弱く握り返してくる。
「……せんせい」
掠れた、けれど確かな声だった。
「……じゅう、まで、かぞえた」
その一言で、張りつめていた何かが、私の中で音もなく切れた。
ニルスの母親が泣きながら子を抱き取り、若い術士が何度も頭を下げる。その声が、急に遠くなる。私は寝椅子のそばにしゃがみ込んだまま、しばらく立ち上がれなかった。膝が笑っている。喉の奥がひりついて、息を吸うたびに肩が震えた。間に合った。間に合わなければ、この子は──そこから先は、考えたくなかった。
「シグリ」
低い声に、私は顔を上げた。いつからそこにいたのか、ヴァト隊長が、戸口ではなく、すぐそばに膝をついていた。私が取り乱すところを、最初から見ていたのだ。隙のない治癒術士の顔ではない、こんな、子どものように震えている姿を。
「……お見苦しいところを」
取り繕おうとした声が、途中で掠れて崩れる。彼は何も言わなかった。慰めの言葉も、励ましも、ひとつも。ただ、震える私の肩へ、大きな手のひらを、そっと置いただけだった。重くもなく、軽くもない、確かな重さで。
言葉の下手なこの人は、こういうとき何を言えばいいのか、きっと分からないのだろう。分からないまま、それでも去らずに、隣にいてくれている。その不器用さが、気の利いたどんな言葉よりも、私の震えをゆっくりと鎮めていった。
その夜、私は眠れぬまま、暗い天井を見上げていた。
今日、間に合ったのは、ただの幸運だ。下働きの娘が走ってくれたから。私がたまたま、駆けつけられる場所にいたから。次も間に合うとは限らない。私が扉の外にいるかぎり、苦しむのはニルスのような、何も知らない患者たちなのだ。
私は今まで、ただ耐えていれば、待っていれば、いつか潮は引くものと思っていた。会ったこともない令嬢の予言も、仕込まれた毒も、名のない告発状も。けれど、そうしているあいだに、子どもの息が止まりかけた。
耐えるだけでは、誰も救えない。
外から、ただ黙って見ているのは、もうやめよう。
誰が、何のために、私をあの抽斗の前に立たせたのか。当たらなかったはずの予言を、どうして無理にでも当てようとするのか。今度こそ、私自身の手で確かめる。
窓の外では、冬の最初の雪が、音もなく降りはじめていた。冷たくはあったけれど、不思議と、もう足元を掬われることはない気がした。




