第5話 仕込まれた薬
朝、治療院の戸をくぐると、いつもの煎じ薬の匂いに、見慣れない緊張が混じっていた。
すれ違った下働きの娘が、私と目を合わせずに足を速める。受付の老婆も、いつもの挨拶を口の中で濁した。何かがおかしい。そう思う間もなく、奥から院長が私を呼んだ。
卓の上には、見覚えのない小瓶がひとつと、折り目のついた書状が置かれていた。院長は私の顔を見ようとせず、書状のほうへ目を落としたまま、低く切り出す。
「ノルドルム嬢。昨夜、これが届いた」
告発状だった。差出人の名はない。曰く、王立治療院の治癒術士シグリ・ノルドルムが、禁じられた毒薬を私蔵し、人を害そうとしている、と。そして昨夜のうちに、私の薬棚の抽斗から、その毒が見つかったのだという。卓の小瓶が、それらしかった。
私は手に取る許しを得て、栓を抜き、匂いを嗅いだ。鼻の奥がつんと痺れる、青臭くて重たい匂い。間違いない、これは禁じられた毒だ。けれど私自身は、生涯で一度も扱ったことのない代物でもある。混ざった材料のひとつに、奇妙に覚えのある匂いがあった。海の向こうからしか入ってこない、黒い実の毒。ひと匙が金貨数枚はくだらない、相応の身分でなければとても手に入らない品だ。
こんなものを、なぜ私が抱え込んでいなければならないのか。そして、誰が私の抽斗に、わざわざこれを忍ばせたのか。毒で身を滅ぼす、と言い切ったあの令嬢の顔が、否応なく浮かんだ。予言が外れたから、今度は自分の手で当てにきたのだ。そう思い至った瞬間、奥歯の裏が固くなった。
けれど、それを口にしたところで、証はどこにもない。私が持っていた、というその一事だけが、卓の上で動かぬ形になっている。院長は気の毒そうに、それでも引けない声で告げた。
「審理が済むまで、治療院への立ち入りを止めさせてもらう。私とて信じたくはないが、禁制薬の私蔵となれば、王立の手続きが要るのだ。……すまない」
頭を下げる院長を前に、私はようやく、自分の見誤りを悟っていた。会ったこともない娘の戯言など、放っておけばそのうち立ち消えると、たかをくくっていたのだ。社交界のおしゃべりが、まさか書状一枚と毒ひと瓶で、この治療院の扉ごと私を締め出すとは思いもしなかった。噂は、ただの声ではなかった。きちんと形になって、私の足元を掬いにきたのだ。
部屋を出ると、ボーディル先生が廊下に立っていた。何も聞かず、ただ私の肩に、乾いた薬草の匂いのする手をひとつ置く。
「行っておいで。戻る場所は、ここにあるからね」
その知らせは、その日のうちにヴァト隊長の耳にも届いたらしい。私が私物をまとめていると、彼は治療院の表で院長に食い下がっていた。
「ノルドルム様が、人を害す? あの夜会で、伯爵の命を救ったのを、あなた方とて見たはずだ! 名のない告発状の一枚で、なぜ罪人のように扱う」
低く、けれど抑えきれない声だった。院長は困り果てた顔で、それでも首を横に振る。騎士隊の隊長がいくら正論を並べたところで、治療院の手続きを覆す力は、彼にはない。それどころか、私を庇うその姿が、あらぬ噂をまた太らせるだけなのだと、私には分かってしまった。
「隊長。もう、いいんです」
私が止めると、彼は言葉を飲み込んで、こちらを見た。何か言いたげに口を開いて、結局は手の甲を握り込む。いつもの、あの仕草だ。
「……これは、あなたのせいではない」
ぽつりと落とされたその一言に、私は返す言葉を探して、見つけられなかった。ありがとう、と言えばよかったのかもしれない。けれど言葉は舌の付け根で固まって、どうしても出てこない。きっと、突然のことで気が動転しているのだ。私はそう思うことにした。
表へ出ると、風がいちだんと冷たくなっていた。冬が、もうそこまで来ている。
その冷たさに、私はふいにニルスのことを思い出して、足を止めた。
季節の変わり目に息が浅くなる、靴屋の子。朝晩の冷えが強まれば、あの子の発作はきまって重くなる。新しい薬包の飲ませ方を、私はまだ母親に教えきっていない。次に苦しくなったとき、あの子はいったい、誰のところへ駆け込めばいいのだろう。
私が、この扉の内側にいられないのなら。
冷えた風が、借り物ではないいつもの外套の裾を、頼りなく鳴らした。




