第7話 筋書きを読む
雪は夜のうちに止んで、朝の窓辺には、薄い水たまりのような光が落ちていた。
ボーディル先生が私の下宿を訪ねてきたのは、まだ朝の早い時刻だった。昨日のニルスのことは、もう先生の耳にも入っているらしい。けれど先生は、謹慎の身で治療院へ駆け込んだことを、咎めも褒めもしなかった。ただいつものように乾いた薬草の匂いをまとって、私の淹れた薄い茶を、両手で包むように受け取る。
私は、ずっと胸につかえていたことを、思い切って尋ねた。
「先生。あの令嬢のことを、先生は何かご存じなのでしょう。別の世界を覚えている娘がいる、とおっしゃいました。あれは、どういう意味なのですか」
先生はすぐには答えず、茶の湯気をしばらく見つめていた。やがて、雨の日に膝の具合を話すような、ごく静かな調子で口を開く。
「ときどき、生まれてくるんだよ。ここではないどこかの暮らしを、まるごと覚えている子がね。前にいたつもりの場所での、筋書きを。この先こう運ぶ、この人はこういう役だ、と。本人の中では、それが何よりも確かなことなんだ」
「けれどね、シグリ。その子が覚えている筋書きと、今のこの世とは、もうすっかり別物なのだろうね。同じ芝居のつもりで、台本だけが古い。だから当たらない。当たらないのに、本人にはそれが信じられない。台本が正しいなら、間違っているのは世のほうだ──そう思い込んで、無理にでも筋書きどおりにしようとする」
そう書いてあったのに、と青ざめていた令嬢の顔が、すとんと腑に落ちた。予言が外れたのではない。あの娘の中では、この世のほうが、台本を読み違えているのだ。だから自分の手で、私を破滅の筋書きへ押し込もうとした。仕込まれた毒も、名のない告発状も。
「先生は、どうして、そんなにお詳しいのですか」
問うてから、先生の目の色が、ふと遠くなったのに気づいた。
「……わたしもね、覚えている口なのさ」
息を呑んだ私に、先生は穏やかに笑ってみせる。
「ずっと昔から、この胸の奥に、ここではないどこかの暮らしの記憶がある。けれどわたしは、早くに諦めたんだ。どんな筋書きを覚えていようと、世はそんなものに構わず、勝手に流れていく。それが分かってからは、ただの一度も、口にしたことはない。教会は、こういう話を嫌うからね。異端と謗られて、薬箱を取り上げられでもしたら、目も当てられないだろう」
私は、何と返せばいいのか分からなかった。けれど、目の前のこの人が、長い年月そうして口を噤み、地に足をつけて患者を看てきたのだということだけは、よく分かった。秘密を打ち明けられたのだ。なら、私はそれを、ただ黙って預かればいい。
「あの令嬢と、わたしと。違うのはひとつだけさ」
先生は茶をひと口含んで、続けた。
「わたしは、筋書きを手放した。あの娘は、手放せない。きっと、それしか、自分を確かめる術がないんだろうね」
先生が帰ったあと、私はひとり、冷めた茶の前で考え込んでいた。
筋書きどおりに動く。決まった台本のとおりに。その言葉を、私は何度も頭の中で転がした。そうしているうちに、頭の芯が、すうっと冷えて澄んでいくのを感じる。患者の症状を前にしたときの、あの感覚によく似ていた。
もし、あの令嬢が本当に、ひとつの筋書きに沿って動いているのなら。次に何をするかも、その筋書きが教えてくれるはずだ。熱の出方を見れば、明日どう転ぶか読めるように。私はこれまで、向こうの出方に振り回されるばかりだった。けれど、読めるのだ。当たらない予言を口にするあの娘の、次の一手を。
予言を当てられない令嬢を、その筋書きを読み切ることで出し抜く。おかしな話だけれど、この世でいちばん正確に、あの娘の明日を言い当てられるのは、きっと私なのだ。
その日の昼下がり、下宿の戸を叩いたのは、ヴァト隊長だった。
手には、何やら帳面のようなものを抱えている。中へ通すと、彼は腰を下ろすより先に、ひどく言いにくそうに切り出した。
「あー……謹慎中のあなたは、表を歩き回れない。だが、俺は歩ける。だから、その」
言葉を探して、彼はしばらく口ごもった。四角い顔に、珍しく赤みが差している。
「告発状が、どこから治療院に届いたか。あの毒が、誰の手から出たものか。あなたの代わりに、俺が足で調べる。隊の務めの合間に、できるだけ。迷惑なら、断ってくれて構わない」
迷惑なはずがなかった。それなのに彼は、私が断る余地を、わざわざ残してくれる。命じるのでも、恩に着せるのでもなく。
「迷惑だなんて、とんでもない。……助かります、本当に!」
口にすると、彼はほっとしたように、抱えていた帳面を卓へ置いた。きっと、夜会で伯爵を救った私を、騎士として捨て置けないのだろう。律儀な人だ。そう思うことにして、私はなぜか速くなった鼓動を、気づかないふりでやり過ごした。
二人で、卓に向かい合った。
私は、仕込まれた毒のことを話した。混じっていた、海の向こうの黒い実。ひと匙が金貨数枚はくだらない、相応の身分でなければとても手に入らない品だということを。
「私には、あんなものを買う伝手も、金もありません。けれど、それを私の抽斗に忍ばせた誰かには、ある。あの黒い実が、どこの誰の手に渡ったのかを辿れば──」
「仕込んだ者に、行き着く」
彼が静かに後を引き取った。私は頷く。
「それと、もうひとつ。あの令嬢は、おそらくこれで終わりにはしません。予言が当たるまで、何度でも筋書きをなぞろうとするはずです。次に動いたとき、今度は私が、先に待っている」
窓の外の水たまりが、午後の風に小さく波立っていた。ただ耐えて待つだけだった昨日までとは、もう違う。
会ったこともない令嬢の明日を、今度は私のほうから、読みにいく。




