第11話 正しい診断
式典から幾日かが過ぎても、あの晩ヴァト隊長が言いかけて、私が答えそびれた言葉は、宙ぶらりんのまま、私の中に居座っていた。
薬を量っていても、ふと手が止まる。煎じる湯の番をしていて、危うく吹きこぼす。我ながら、らしくない。そんな私を、ボーディル先生はしばらく横目で眺めていたが、やがて、薄荷の束を笊へ並べながら、ひとりごとのように言った。
「シグリ。お前さんのその落ち着かなさは、どんな薬を煎じたところで、治りゃしないよ」
「……何のことでしょう」
「さあて。けれどね、人の容体はあれほど正確に診るお前さんが、自分の胸のうちだけは、ずいぶん長いこと、見立て違いをしているようだ」
見立て違い。その言葉が、妙に胸へ刺さった。たしかに私は、傷の手当てなら誰にも負けない。けれど、自分の体に起きていることだけは、ずっと、季節のせいだの、人助けの昂りだのと、いいかげんな診立てで済ませてきた。治癒術士として、それはあまりに、怠慢ではないか。
その夜、私は机に向かい、あの帳面を開いた。ダニカ様の容体を書きつけた、あの帳面だ。新しい頁に、私は今度こそ、自分自身を一人の患者として、症状を書き並べていった。
あの人が治療院の戸を叩くたび、鼓動が速くなること。膿んでもいない擦り傷を口実にされても、嬉しくて、ちっとも怒れなかったこと。隣を歩くと、うなじが熱くなること。手袋をもらった夜、指先より先に、別のどこかが温かくなったこと。
ひとつずつ書き出して、並べて、いつものように冷静に見立てようとして──私は、ペンを取り落としそうになった。
これは。
熱でも、疲れでも、昂りでもない。どんな医学書をめくっても、薬棚のどこを探しても、治す方法の載っていない症状だ。
「……なんてこと。とっくに、こじらせているじゃない」
人の心は、こんなにも近くにあるのに。世でいちばん正確に他人を見立てるはずの私が、自分の恋心だけは、何ヶ月も誤診し続けていたのだ。おかしくて、それから少しだけ泣きたくなって、私はひとり、冷めた茶の前で笑ってしまった。
その翌日の夕暮れ、治療院の戸が、遠慮がちに叩かれた。
入ってきたのは、やはりヴァト隊長で、今日もまた、左の手の甲を、いかにも気にするふうにさすっている。
「ノルドルム様。この、擦り傷が、その、痛む気がして」
痛んでなど、いないはずだ。傷はとうに塞がっている。初めて会ったあの日も、こうだった。膿んでもいない傷を口実に、この人は何度も、私に会いに来てくれていた。今なら、それがはっきりと分かる。
私は、消毒の布を取らなかった。代わりに、まっすぐに彼を見て、言った。
「ヴァト隊長。その傷は、もう治っています。ずっと前から」
彼の手が、止まった。四角い顔が、夕日のせいだけではない色に染まっていく。
「あの晩、おっしゃろうとしたことの、お返事を、私はまだしていませんでした」
声が、少しだけ震えた。けれど、もう逃げる気はなかった。
「私は、自分の胸のうちを、ずいぶん長いこと、誤診していたんです。動悸も、火照りも、ぜんぶ季節のせいだと思い込んで。──でも、やっと、正しい診立てがつきました」
ひとつ息を吸って、私は続けた。
「あなたに会いたくて、私もずっと、落ち着かなかったんです」
彼は、何か言おうとして、いつものように口ごもった。手の甲を握り込み、それから、意を決したように、その手を、私のほうへ差し出す。
「……シグリ。うまく、言えないが」
つっかえながら、彼は言った。
「これからも、あなたのそばにいたい。傷がなくても、口実がなくても、堂々とここへ通えるように。──俺と、その、添うてはくれないか」
不器用な、つっかえつっかえの求婚だった。けれど、世のどんな流麗な口説き文句よりも、まっすぐに、私の胸へ届いた。
私は、差し出されたその硬い手のひらに、自分の手を重ねた。手袋越しではない、素手の温もりが、じかに伝わってくる。
「はい。喜んで。──ただ、ひとつだけ」
私は、思わず笑ってしまった。
「この症状ばかりは、たぶん、一生治りません。それでも、よろしいですか」
彼が、初めて見るような、ひどく不器用で、けれど心からの笑みを浮かべた。
「ああ。望むところだ」
窓の外では、冬の終わりの雪が、静かに降りはじめていた。
会ったこともない令嬢は、私の破滅を予言した。けれど、その予言は、ただの一度も当たらなかった。当たるはずがなかったのだ。私の明日は、誰かの古い筋書きの中になど、初めから無かったのだから。
これから先のことは、まだ、何も決まっていない。白い頁のままだ。けれど、もう怖くはなかった。そこに何を書くのかを、私はこの人と、一日ずつ、確かめていける。
「せんせい、また来たよ!」
戸口で、ニルスの元気な声がした。隣でヴァト隊長が、慌てて私の手を放そうとして、けれど私は、放さなかった。
明日、何が起きるかは、誰にも分からない。当たらない予言も、決まった筋書きも、もうどこにもない。
それでも私は、この温かい手と、薬草の匂いのするこの場所で、まだ書かれていない頁を、楽しみに待っている。




