第10話 書かれていない未来
治療院の戸を、堂々と正面からくぐれる朝が、こんなにもありがたいものだとは思わなかった。
式典での一件で、私にかけられた濡れ衣は、きれいに晴れた。仕込まれた毒も、名のない告発状も、すべてはあの令嬢の手によるものだと明らかになった。私の抽斗にあの毒を忍ばせたのは、金を握らされた治療院の小間使いの一人で、調べが進むうちに、たまらず自ら罪を白状したという。王立の手続きは、私の謹慎をあっさりと解いた。煎じ薬の匂いも、縁の歪んだ天秤も、何ひとつ変わらずに、私を迎えてくれる。
「シグリせんせい!」
戸口で待ち構えていたのは、ニルスだった。あの発作のあと、すっかり元気を取り戻したらしい。駆け寄ってくる小さな体を受け止めると、その後ろで、例の下働きの娘が、今度はまっすぐに私を見て、はにかむように笑った。
院長は、私の顔を見るなり、深く頭を下げた。手続きとはいえ、君を疑う形になった、すまなかった、と。私は、もう構いませんと答えた。あのとき院長が引けなかったのも、決まりがあったからだ。決まりは、人を守るためにある。たまたま、それを悪く使った者がいた。ただ、それだけのことだった。
ボーディル先生は、いつものように乾いた薬草を裏返しながら、「おかえり」とだけ言った。あの夜、衆目の中で私の見立てを裏づけてくれた人だ。けれど先生はそのことについて何も語らず、ただ笑っていた。
あの令嬢の――ダニカ様のその後は、しばらくしてから、人の口を通じて知った。
人を毒で害そうとした罪は、本来ならば重い。けれど倒れた令嬢が命を取り留めたことと、グレンスタッド伯爵家の取りなしとで、ダニカ様は表向き「心を病んでの療養」という形になったらしい。婚約は解消され、社交界からは静かに姿を消し、遠縁の、海沿いの小さな領地へと送られることが決まった。
ざまをみろ、とは、不思議と思えなかった。あの夜、泣きじゃくりながら、誰も筋書きの通りに動いてくれないと叫んだ姿が、まだ私の中に残っている。勝ったはずなのに、胸の奥に、小さな澱のようなものが、静かに沈んでいた。
そのことをぽつりと零すと、ボーディル先生は手を止めずに言った。
「あの娘の行く先には、もう、台本を見てくれる客はいないよ。誰も見ていない場所で、初めて素の自分と向き合うんだ。それが薬になるか毒になるかは……本人次第さ」
誰も見ていない場所。そう聞いて、私は、自分でも思いがけず、あの令嬢にもう一度だけ会っておきたくなった。治癒術士の、おかしな性分なのだろう。傷の手当てが済んでも、その後の経過が、どうしても気にかかってしまう。
領地へ発つ前日、私はグレンスタッド伯爵家を訪ねた。
通された一室で、ダニカ様は、窓辺の椅子にぽつんと座っていた。あれほど華やかだった春色のドレスはどこにもなく、地味な旅装の彼女は、ひとまわり小さく見えた。私が来たと知ると、その目に、怯えと、それから当然の憎しみを待ち受けるような、固い色が浮かぶ。
「……笑いに来たの。それとも、罵りに?」
私は、そのどちらもしなかった。ただ、彼女の向かいに、静かに腰を下ろす。
「おかしいのよ」
ダニカ様は、私の顔を見ずに、譫言のように呟いた。
「ぜんぶ、知っていたの。この先どうなるかも、誰が誰と結ばれるかも。なのに、何ひとつ、その通りにならなかった。わたくしの覚えているものは、いったい、何だったの」
泣き出しそうな、迷子の声だった。私はしばらく言葉を選んで、それから、静かに告げた。
「あなたの覚えている筋書きが、間違っていたのではないと思います。ただ、この世は、その先を、まだ書いていないだけなのです」
彼女が、はっとして顔を上げた。
「あなたは、決まった結末に裏切られたと思っている。けれど本当は、誰も結末なんて決めていないのです。明日どうなるかは、まだ、白い頁のまま。──それは、呪いではありません」
ダニカ様は、何も言わなかった。私の言葉を信じたのか、信じられなかったのか、それは分からない。けれど、固かったその目から、ほんの少しだけ、張りつめていたものが緩んだように見えた。それで、十分だった。これは手当てではない。ただ、白湯を一杯、卓に置いていくようなものだ。飲むかどうかは、この人が決めればいい。
部屋を出るとき、背中のほうで、小さな声がした。
「……ありがとう、とは、言わないわ」
「ええ。それでいいんです」
グレンスタッド邸の門の外で、ヴァト隊長が待っていた。私がひとりであの令嬢に会いに行くと言ったとき、彼は止めはしなかったけれど、門の外までついてきてくれたのだ。
「……済んだか」
「はい。これで、本当に終わりです」
並んで歩き出すと、冬の風はまだ冷たかったけれど、彼がくれた手袋のおかげで、指先はちっとも凍えなかった。あの夜、式典で言いかけて、足音に遮られた言葉のことを、私たちはどちらも、まだ口にしていない。
けれど、隣を歩くこの人の歩幅が、私に合わせて、いつもよりずっとゆっくりなことには、さすがの私も気づいていた。気づいていて、それでも何も言えない。この胸を満たす温かさを、もう「人助けの昂り」のせいにはできないと、本当は分かっているのに。
門の向こうの空が、冬にしては珍しく、淡く晴れていた。
私の明日も、まだ、白い頁のままだ。けれど、その頁に何を書くのかを、私はもう、誰かの筋書きに譲るつもりはなかった。隣を歩くこの人と一緒に、ひとつずつ確かめていけばいい。
ただ、そのためにはまず、自分の胸のうちを、いちど正しく診てやらなければ。




