260. 浮遊する澱み(3/7) - 氷の中の過去
『――あった。これよ』
ハルゼの指差す先には、氷の中を這う巨大な何かの影があった。それは今彼らのいる洞窟のような空間よりも大きかったが、薄暗いこの場では一度目を離したら見失ってしまいそうなくらいに見つけづらい。
しかし、それは確かにそこにあった。そしてその正体は、ハルゼ以外の三人にも分かった。
「本当に根っこじゃねェか……」
ヒューが呆然と零す。彼が圧倒されたのはその大きさか、それともこんな場所に木の根があるという事実か。
気にする者はいない。イヒカとリタもヒューと同じような反応をし、ここまで案内してきたハルゼもまた、自分もそうだったと言わんばかりの目で彼らを見ているからだ。
そこにあったのは間違いなく大木の根だった。外の木々よりも、少し特殊なギョルヴィズの木に近い曲がりくねった形。他の部分の氷よりも暗く見えるのは、恐らくその根には色がついているからだろう。だが暗すぎること、そして青い氷に阻まれていることから、正確な色は判断することができない。
それでもこれを見つけることができたのは、ほんの微かな光が見えたから。いや、光なのかすら定かではない。何かがその形に沿って動いていて、そしてそれが周りよりも僅かに明るいから、どうにか視認することができたのだ。
けれど、誰もそれが何なのかは分からなかった。しかし一方で、そこにあるものが木の根であるということを疑う者もいなかった。それどころかこれこそが自分達の探す氷の大木の根であると確信すら持った。証拠など何もないし、違うかもしれないと言うことは容易だったが、探し物への有力な手がかりなのだからいちいち疑っていられない。疑念を抱いたところで、氷の向こう側にあるものを詳しく調べることもできない。
だからイヒカ達はそれを追った。ここは地下、木の根であればより高い方に追えば幹があるはずだと、今にも見えなくなってしまいそうなそれを辿って歩き続けた。
だが、進まない。進行方向は氷の壁に阻まれることもあるし、更に時折地上に上がる道も探さなければならないからだ。しかし、どちらも避けることはできない。氷の壁は迂回して進むしか方法がなく、定期的に地上に出なければ食糧が尽きてかつてのハルゼの二の舞いになってしまう。
そのせいで木の根を追い始めて二日が経つ頃には、一行の会話はそれまでよりも極端に少なくなっていた。
そんな中でリタが声を発したのは、何度目か分からない氷の壁に行き当たった時だ。
「ラルフが正解だったね」
脈略のない発言に、その場にいた者達が怪訝に眉を顰める。ヒューに至ってはそれまでの苛立ちもあったのか、「あ?」と機嫌悪く聞き返した。
「この状況だよ。ヒルデルはローゼスタットの採掘技術を得たってジルが言っていただろう? 多分このためじゃないかな。私達と同じように根を追うことになることを想定して氷を掘り進める準備をしたんだ。確かにこれだけ回り道をさせられるんだったらそのくらいした方が早い。氷の下にあるかもって、ラルフなら考えていてもおかしくないしね」
ヒューの態度を全く気に留めることなくリタが答える。彼が冷静に事実だけを語り、更にはその内容も腑に落ちるものだったからか、「……確かにな」と同意を示すヒューの声にはもう不機嫌さはない。ただ、非常に疲れを感じさせるものだったが。
「散々遠回りさせられてるが、多分直線じゃァそんな移動してねェだろ。こういうトコ掘って平気なのかは分からねェけど……まァ何にしろ考えたって無駄か。今更同じモンは用意できねェし、そもそもローゼスタットが俺らに貸すとも思えねェ」
やってしまったと言いたげな様子で話していたヒューは、途中から気にしても無駄だとばかりに溜息を吐いた。頭をガシガシと掻き、「ヒルデルだって何年もかけて交渉したんだろ」と諦めたように言う。
すると話を聞いていたハルゼがヒューの方を向いて、「ジルって子は国に追われてるんだっけ?」と首を捻った。
「そうそう。追われてるっつーか、あいつが避けてるっつーか。詳しい事情は知らねェがな。イヒカなら何か聞いてるかもしれねェが……」
言いながらヒューがイヒカを見る。少し離れたところにいる彼は会話に入っていない。一人で周りを観察し、自分達の後をついてくるだけ。
それはリタの監視をするという言葉とは矛盾のない行動だったが、イヒカらしくない、とヒューは眉を曇らせた。ティリエリの件があってからすっかり変わってしまった彼は、一度は持ち直したように見えたものの、リタが一〇〇年前の真実を告げたせいでまた元に戻ってしまったように思う。
それどころか前回よりも悪いかもしれない。ティリエリの時は、ただその死への悲しみによって周囲に憎しみを撒き散らしていただけだった。しかし今は違う。そんな単純ではない何かが、彼に纏わりついている。
もう、以前の彼には戻らないのだろうか――ヒューが苦しげに目元に力を入れた時、イヒカが彼らの方へと振り返った。
「なァ、これ……」
イヒカが氷の壁を指差す。出っ張った氷で陰になったそこにはいくらかの植物があった。この死者の国では珍しく、少し群生しているらしい。とはいえそれらに興味を持つ者はいなかった。リタだけは場合によっては観察することがあったが、ここにある植物は既に他の場所で見かけたものと同じ。だから彼ですら、食糧にすることもできないそれに見向きもしていなかった。
それなのにイヒカはそこを見ろと言う。「なんだよ?」ヒューが尋ねながら近付けば、イヒカはその植物を掻き分けた。
「ッ……」
そこには死体があった。少し前に見たものと同じように、まるで最近命を落としたばかりのような死体だ。そしてその顔に、ヒューは見覚えがあった。
「ケルニック……」
ヒューがぼそりと呟く。その声に反応したのはハルゼだ。「……ここだったの」驚いた表情、悲痛な声。そして、目を背ける。そこにある後ろめたさは、この人物の死にはハルゼが関与しているのだと他の三人に思わせた。
けれどその中の一人であるイヒカは、今更非難する気にはならなかった。既に同じような死体は目にしている。その時に何を言っても無駄だと理解したから、また同じやり取りをしたくはない。
だからイヒカはハルゼ達にこの場を譲ろうと植物を押さえていた手を離し、一歩下がろうとした。
だが――
「…………?」
違和感が、イヒカの足を止めた。
これは何だろうと、考えるより先に手が動く。その手が触れたのは死体の首に巻かれたマフラーだ。そこを捲って、思わず手を止める。マフラーの下には赤い氷が溢れていたからだ。
「この人、首が……」
斬られている――イヒカが最後まで言わずとも、近くにいたヒューには伝わったらしい。ヒューは辛そうな面持ちとなって、「……幻覚で揉めたのか」と小さく零した。
「違うだろ」
その言葉はイヒカも無意識だった。声を発してから自分が何を言ったか理解して、そしてその次に何故そんなふうに思ったのかを知った。
この傷は、グレイやジルが作るものによく似ているのだ。首の前側を横に大きく引き裂いた傷は、彼らが後ろから敵の首を刃物で斬った時のそれにそっくりだった。そしてニムリスの邑で療養していた時に、何故そうするのかとグレイに教えてもらったことがある。
曰く、普段の戦いではあまりやらない。その必要がないからだ。これをやるのは敵を速やかに、そして静かに無力化したい時だけだから、隊商で戦っていると自然とその機会は少なくなる。
この方法は、周りに知られずにその命を奪いたい時に用いるのだ。
ならば、彼を手に掛けた者は。この死体を見て目を背けたハルゼは――イヒカの目が鋭くなる。敵意と軽蔑が、その視線を強くする。
「アンタ、コイツ殺した時正気だったろ?」
イヒカの声がハルゼを糾弾する。しかし彼に問われたハルゼは、無表情だった。




